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偽色彩師と漆黒の騎士  作者: 名紗すいか
女神の復活祭編
26/39

はち


 巡回を終えて、湿気ったルチカを連れて天幕へと戻ったヴィルバートは、マキから隊長らしく叱責された。

 ルチカに水をかけた様子を見ていた人が、騎士団はどうなっているのかという苦情と抗議があったらしい。


「揉め事を止める立場の人間が、揉め事を起こしてどうするつもりだ」


 我を見失っていた事実は否めないので、ヴィルバートは反論もなく反省をして謝った。


「……以後気をつけます」


 これはヴィルバートにしては珍しい失態であった。

 昇進がないからといって職務に手を抜くことはしないと誓い、これまで真面目に従事してきたというのにだ。

 目の前でルチカがアストに唇を奪われるのを見せつけられただけで、巡回中であることさえ頭から吹き飛んでしまった。


 ヴィルバートは生来綺麗好きな方だ。

 マリアも毎日毛をとかし、汚れて帰ってきた場合はお風呂にも入れ、常に清潔さを保っている。

 きっとその延長線だ。

 そう自らを誤魔化し、ヴィルバートは隣を見遣った。


 ルチカは棒をがりがりするのを止めて、残念そうに肩を落としている。

 もう砂糖の甘い味が尽きてしまったのだろう。

 よほど気に入ったらしいが、あの露店に近づくことは二度とない。

 ルチカを近づけるつもりは、一生ない。


「飼い主が怒られていても、君はどこまでも自由だよね。原因の一端だろう?」


「マキさんが割りと本気でお怒りみたいですし、沈黙を選ぶが得かと」


 状況は一から十までしっかりと把握しているのに、何故口を慎めないのか。

 そのせいで飛び火したことに対しても、本人は相変わらずの無頓着だ。

 砂糖菓子の棒を、哀愁漂う表情で見つめ続けている。

 ヴィルバートが全面的に悪いので、はたいて叱ってやることも出来ない。


「ああ、そういえば。君が謝っているところは、一度も見たことがないな。ちょっと、ごめんなさいって言ってごらん?」


 笑顔で機嫌が降下中のマキは、ルチカで憂さ晴らしをしようと決めたようだ。

 

「わたしの辞書にはない言葉ですね。ご飯ください、じゃだめですか?」


 ルチカの減らず口に、ヴィルバートだけでなく、休憩中の騎士たちの間に戦慄が走った。


(この恐いもの知らずがっ……!)


 マキが引くほど笑みを深め、周囲に視線を巡らした。


「誰か……そこの君。ねこじゃらしを何本か持ってきてくれないか?」


 怯えた若い騎士に、マキが無茶な要求をした。

 ルチカに一体何をするつもりなのか。


 ヴィルバートは遂に静観を止め、ルチカを引き寄せて腕に庇った。


「マキ。これは猫だから、犬と違って躾は無理だ」


「あはは。躾?ただのお仕置きだよ。両手に手錠を掛けて……そうだな、俺の膝に乗せようか。ごめんなさいって言えるまで、ねこじゃらしで擽ってあげるよ。いつまで耐えられるか、見物だろう?」


 ルチカの猫に似た瞳がじんわりと潤んできた。

 まず想像でいたぶられたようだ。

 自業自得ではあるのだが、元を辿ればヴィルバートの責任でもある。

  

「嫌がって俺の膝で泣かれたら、ああ……凄く、いいね。君相手でも胸がときめきそうだ」


 ルチカが表情筋に力を込めて、涙の決壊をぐっと押し留めた。眉間に深々と縦ジワが寄っている。

 泣かせて泣き止ませる一連の流れを終えてすっきりしたのか、マキの機嫌がすっと直った。


「次からは厳重注意じゃ済まないからね」


「わかっている」


「ところで。浮気猫の唇が腫れてるのは、ヴィルが?」


 ルチカは言われて痛みを思い出したのか、唇を触れて腫れ具合を確かめ始めた。


「神聖な職務中に、こんなに腫れ上がるまで口づけ合っていたのか?」


 にやにや笑いでマキが揶揄すると、独身かつ彼女のいない騎士たちからは鋭い眼光を、それ以外の騎士たちからは生温い眼差しを浴びせられ、ヴィルバートはルチカと声を揃えて否定した。


「「違う!!」」



 どっと笑いが起きたのは、言うまでもない。




           ◇




 砂糖菓子も儚く胃袋の中へと消え、さらにマキに苛められたルチカはご機嫌斜めのようだ。

 胸の内でぶっ飛ばすと罵っているかもしれない。


「やさぐれ猫になってるよ」


 マキにつんつん頬を突かれたルチカは、それを無視して自分の右手首へと視線を落とした。

 今ルチカは、ヴィルバートではなくマキと繋がっている。

 露店に吸い寄せられては引き摺られ、人の流れへと戻されるその様は、無理矢理散歩をさせられている猫そのものだった。


「茶屋はまだですか」


「もう、すぐそこに――――」


 ヴィルバートは指を差したが、店の入り口に出来た行列に言葉を途切れさせた。

 休憩時間内に間に合うか、微妙なところだ。

 もしもの場合は、お金を渡してルチカだけ食べさせて仕事に戻ってもよいのだが、一人で行動させて平気だろうか。


「……並びますか?」


 ルチカも時間を気にしているのか、ヴィルバートとマキを交互に窺っている。


「一人で行ってくるか?」


「二人は?」


「俺たちはその辺りの露店で適当に食べて戻る」


「でもルチカを一人にするのは心配だなぁ。また誘拐されるかもしれないし、これ以上仕事を増やされても困るよ」


「誘拐される前提ですか。わたしはそこまで間抜けじゃありません。でも、わたしも露店でいいですよ。魅惑の砂――――」


「砂糖菓子は食事ではないから却下」


 あんなもので空腹が満たされるはずがない。

 しょんぼり猫になったルチカを撫でようと手を上げかけたが、マキがにやにやしているのですぐに下ろした。


 その目は何なのだ。そう口を開きかけたときだった。

 ヴィルバートはどこかから視線を感じた気がして、反射的に周囲の人々へと視線を巡らせた。

 もう慣れた嫌悪や畏怖、忌避の感情ではない。色彩に対する上っ面の嫌忌ではなく、ヴィルバート個人を認めてなお、憎悪の含まれた甘やかな眼差しだった。

 そう頭で理解するよりも先に、心が懐かしさを見つけてしまった。

 これには身に覚えがあった。過去に、ほんの数度だけ、向けられたことがある。


 薔薇を模した、あの深紅の硝子の瞳で――――。


 その瞬間、ざわりと背筋が怖気立った。

 密集した人の中からたった一人、特定したその人物だけを捜して辺りを見渡す。

 こんな雑多な場所にいるはずのない、あの女を捜して。


(まさか……。いや、そんなはず……)


 冷静さを取り戻し考えを打ち消したそのとき、人の途切れたその向こう側に、日傘をさしてこちらを見ている、あの女と目が合った。

 会わなくなって数年経つというのに、その容貌は衰えることなく、あの頃と何一つ変わっていなかった。

 気づいてしまえば明らかだ。あの女が人に溶け込めるはずがない。

 棘を纏い身を守る薔薇の花に、目を離すことを許さないとでもいうように絡め取られる。


 行き交う人々が景色にのように流れ、ルチカやマキの声さえ消えた。

 あの女との邂逅だけが、色鮮やかにヴィルバートを惹きつける。


 今だけは二人きりの世界だ。幼い頃、本心では何度も望んでいた。嫌われていてもいいから、その瞳に映ることを。

 だが彼女の夢の中に、ヴィルバートは存在してはいなかった。

 時折ふと思い出した瞬間にだけ、憎しみの混じる優しい瞳を向けた。


 邸に閉じ籠っているはずのヴィルバートの母、アイリーナが見据える先にいるのは自分と――――ルチカだった。

 異変を察し、ヴィルバートの袖をくいくい引っ張るルチカを、ただ冷たく見つめている。


 どれほど茫然としていたのだろうか。アイリーナの日傘が、花の間を行き交う蝶のように翻った。


「待っ――」


 追いかけようとしたヴィルバートの行く手を、祭を楽しむ若者の集団が阻む。

 彼らが通り過ぎるのを焦燥感に駆られながら待ち、人を掻き分けアイリーナの立っていた場所まで辿り着いた。だがどこを捜そうと、すでに日傘は人に埋もれて見えなくなっていた。

 ため息をつくと、靴の下から何かがはみ出していることに気がつき、足を退けた。


 そこには、白日の夢ではない証拠が一片。


 ――――薔薇の花びらが、醜く潰されていた。

 



◇◆◇◆◇◆



 ヴィルバートが突然走りだし、人の波へと瞬く間に飲まれていった。

 ぽかんとしたルチカとマキは、首を傾げて顔を見合わす。

 また野良猫でも追いかけていったのだろうか。

 お互いの表情から、二人の思考は一致していることが知れた。

 ヴィルバートは猫好き過ぎて、ルチカも妬くほどだ。


「……ヴィルが迷子になりましたよ?」


「ヴィルが迷子になったね。――――どうしようか。何か食べ歩きながら天幕に戻っておく?」


 その提案にルチカは逡巡したが、はぐれたヴィルバートを捜すより、天幕で待つのが最善策であると判断して「そうですね」と告げた。


 マキはお菓子の神様なので、麻薬のごとくな砂糖菓子を請う。


「砂糖菓子をあと二つ……一つでいいので味わいたいです」


 マキはしばし思案して、愉快な想像でもしたのか口角を上げて、いいよと言った。

 善は急げとばかりに、二人は砂糖菓子の露店を目指し波に乗った。


 日が高く上り、一段と日差しが照りつける。

 帽子の内側が蒸れているが、人前では脱ぐことも叶わず、ルチカはなるべく日陰を選び通った。


 休憩時間なので、制服を脱いで一枚薄手の上衣を羽織ったマキは、持ち前の人好きする性格で、あちこちの露店の客引きに声を掛けられていた。


「そこの気品漂う兄さん!妹にこれどうだい?」

「爽やかな兄ちゃん!これ、可愛い妹ちゃんにあげたら喜ばれるよ!」

「かっこいいお兄さん!小さな妹さんにこんなのはいかが?」


 にこやかにかつ丁重に断り歩くマキは、くすくす笑いでルチカを見下ろす。


「俺たち、似ているのかな?」


 見当違いな解釈をしているマキは、ルチカをながめて似ているところを可笑しそうに探している。


(ただ恋人同士に見えないだけなんじゃ……?)


 マキとルチカが釣り合わないから、可能性として残された妹と判断しているのだろう。

 完璧と思っていたマキにも、どうやら鈍い部分はあるらしい。

 

「それにしても、君は食べ物以外に対して、清々しいくらいに興味がないよね」


「そうでもないですよ。絵本は好きですから、本屋さんの客引きには引っ掛かりますね」


 するとマキは意外そうに目を丸くした。


「字が読めないって聞いているけれど?」


「この国の文字は難しいですけど、絵本ぐらいなら何とか読めます。絵で内容を想像出来ますし」


 身一つで駆けつけて来たので、ルチカの蔵書たちは、ストライエの教会に置き去りだ。

 子供たちに乱暴に扱われていないかだけが気掛かりである。


「字は読めた方がいいけれど、正しく書くことも大切だ。君の字は、特に酷い。ヴィルが解読に三日は掛かっていたよ」


 真面目な表情をしたマキに告げられた衝撃的な真実に、ルチカは目を見張った。

 なかなか返って来ない手紙の訳は、解読に時間を要していたからなのか。

 ルチカ自身は丁寧に書いているつもりだったが、人からの苦言を受け、初めて字が下手だと気づかされた。

 

「そこまで酷いですか?」


「え?相当なものだったろう?ミミズが炎天下でのたうち回って、干からびた後に馬車で轢かれたって、あの字には敵わないよ」


 辛辣な感想に、ルチカは打ちのめされかけた。

 あまりの言われようだ。頭がくらくらして目眩がする。

 泣きそうになったが、益々苛められると学習したので必死に堪えた。


「ヴィルの字を真似して書くといいよ。お手本みたいな、つまらない字を書くから」


 ヴィルバートまで落され、ルチカは少々むっとした。

 彼からの手紙は短いが読みやすく、ルチカがわかる単語を駆使して書かれている。

 それが彼の優しさで、手紙をながめるだけで心が温まるというのに。

 

「ヴィルの字には思い遣りがあります。貶すのならわたしの字だけにしてください」


 言った途端、マキは愛しむような眼差しをルチカへと注ぎ、それから素直にごめんごめんと謝った。

 

「君は本当に、ヴィルのことが好きだよね」


 しみじみと言われて、ルチカは目を瞬いた。

 庇の陰で顔が紅潮し、体が発熱したように焔を宿していく。


 マキのいう通りだった。彼のことを何より大切に想っている。

 そうでなければ、あんな手紙一枚に踊らされてこの国にいなかったはずなのだ。


 心を占める気持ちは、どれも彼に対する想いの滴だ。一つ一つが落ちては沁みて、ルチカの中で覚えのない感情が芽吹く。

 育った花は蕾をつけ、もうほころびかけていた。


 心臓が、壊れてしまったかのように早鐘を打つ。

 どくどくと流れるのは、血なのか別の何かなのか。

 体中が熱くて、意識が朦朧としてきた。


 普段の厳めしい仏頂面も、たまに見せる笑顔も、その後の拗ねたような照れも、どれもが彼で愛おしい。

 ヴィルバートを畏怖するこの世界の方を、間違っていると切り捨てられる。

 彼を悪だと言うのならば、ルチカは正義をぶっ飛ばす。

  

 つまり彼を――――。


「す、き……?」


 茫然とつぶやいたルチカに、何を今更と、マキが笑う。


「わたしは、ヴィルが……」


「大好きだろう?」


「…………そう、です」


 肯定すると、足下から蒸気がじわっと這い上がり、頭の天辺から指の先までを真っ赤に染めた。

 足元が覚束ずに、ふらりとよろめく。

 体が鉛のように重たい。熱くて、もう何も考えられない。これが恋慕の情なのだろうか。

 師匠はこれをいくつも抱え、平気なのだろうか。

 

「ヴィル……」


 恋しい名を呼んだルチカは、そのまま――――卒倒した。


「――――ルチカ!?」


 逆上せた頭にマキの声が何度も反響する。

 ルチカは意識が遠退く間際、唇だけで言葉を紡いだ。

 食べ物に執着しすぎて、すっかりと失念していたのだ。とても、大事なことを。

 

「喉が、渇きました……」




 恋心を自覚したからではなく、水分補給を怠ったことによる熱中症だと、ルチカは運ばれた救護用天幕の下で診断された。



恋の病は熱中症でした。

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