なな
澄んだ青空が、女神の復活祭を祝福しているようだった。
カドニール大通りは、露店も店舗も大盛況で人が溢れ返り、道を進むのもままならないほどだ。
騎士団による交通整理も行われ、馬車は期間中通行止めになっている。
人だけで幅のある道が埋まる光景は圧巻であった。
ルチカは騎士団用の天幕の下で、ヴィルバートによって厳重に手錠で繋がれた。
彼は真剣な顔つきで、くるくると包帯を巻いている。
「これ必要ですか?逃げないのに」
「迷子は一人でも少ない方が助かる」
(迷子になんてならないし)
カドニールの街はある程度、地図として頭に入っている。
旅慣れているので、文字は読めなくとも地図は読める。
来るときにしっかりと場所を把握したので、はぐれてもまたこの天幕へと戻って来られるだろう。
天幕内は騎士たちの休憩所なのか、簡素な長机と背凭れのない丸椅子がずらりと並んでいる。
その騎士たちの中でも、マキの率いる隊の皆はルチカたちへと生暖かい視線を集中させていた。
今朝二人で部屋から出てきたところを、目敏いロランツに見つかったせいだ。
口止める間もなく、波紋のように広がった。
実際泊まったのは事実であり、否定出来ずに今に至る。
ルチカは帽子の庇を下げ、赤くなった頬を潜めた。
(大胆なことをしてしまった……)
寝台は怪我猫のマリアに譲り、ルチカはヴィルバートと肩を並べて眠った。
一晩を共にしてしまったが、それ以上のことは何もない。
触れ合った肩の温もりを思い出すと、心臓がゆっくりと鼓動を早める。
包帯を固く結ったヴィルバートが、真っ赤に火照るルチカの顔を目にして、つられるように色づいた目元を帽子で隠した。
今日は制服に官帽で、いつにも増して凛としている。
「はぁ……。いいねぇ。こんな殺風景な場所で、女神が恋の鐘をカランカラン鳴らしているよ」
マキが頬杖をついて、悩ましいため息をついて言った。
他の騎士たちも流れに乗って茶化し始めたので、ヴィルバートは仏頂面で対応している。
「ああ、ルチカ。迷子案内所は隣の天幕だからね」
来るときに見たので、それくらい知っている。
ヴィルバートといいマキといい、ルチカを子ども扱いし過ぎだ。
「揃って心配性ですか。わたしは成人した大人ですよ。馴染みのある街で迷子になるはずがありません」
断言すると、マキはやれやれと首を振った。
「大人もはぐれるのが、この女神の復活祭の厄介なところだから。例え待ち合わせ場所を決めておいても、そこが人だかりでまず出会えない。さらには捜す内にその場からそれて擦れ違う。いつまでも互いに彷徨い続けるという悪循環に陥った涙目の恋人たちを、毎年どれほど見てきたことか」
(恐るべし、女神の復活祭)
午前中であの人の量だ。午後には一体どれだけの人に埋め尽くされるのだろうか。
「迷子案内所には行かなくていい。迷子になったら騎士団側の天幕を真っ先に目指せ」
マキとは異なり、ヴィルバートは頑なに迷子案内所には行くなと言って渋面を作る。
確かに隣なので、こちらの天幕に来て待っていた方が、ヴィルバートやマキに会える可能性が高いだろう。
マキは納得とばかりに微笑んだ。
「ああ、そうか。あっちには発情期の野良猫たちがいるからか」
「発情期の野良猫?」
(猫も迷子に……?)
「……気にしなくていい。――――巡回に行ってくる」
ヴィルバートがルチカを引っ張り天幕を脱すると、マキたちのからからと笑う声が、雑踏に紛れずしばらく轟いていた。
カドニール大通りを北上しながら、ヴィルバートは迷惑行為や些細な諍いなどもないか目を配っている。例年、スリや痴漢や喧嘩が多いらしい。
若い女性や年配の人、子供には特に注意しながら彼は人の波をゆっくりと進んでいく。
ルチカは何度か肩をぶつけられ、やむなくその腕へとしがみついた。
「瓶詰めにされたジャムの気分です」
「例えがわかりにくいな……」
ヴィルバートがふと、二人連れの少女を注視した。
背後にいかにも怪しい雰囲気の男がつけているからだろう。
ヴィルバートの制服に気づいた男は、さりげなく人を掻き分け逃げていった。
「追わなくていいんですか?」
「現行犯でないと捕らえられないからな。俺たちは、抑制要員だから」
目を凝らすと、私服警備隊の人が例の男を尾行していった。
それぞれ事前に決められた配備があるらしいが、多くはヴィルバート同様の警邏活動だという。
ルチカは騎士ではないので、気ままに祭りの雰囲気を楽しんでいる。
露店は食べ物だけでなく、アクセサリーや小物類、日用品類、さらには用途不明の彫刻まで多岐にわたる。
市場では値のつかない、色や形の粗悪な宝石が安価で売られている露店で、ルチカはふと足を止めた。
くすんだ石だが、彩り鮮やかだ。
「何か気に入った物があったのか?」
ルチカが食べ物以外に興味を持ったので、ヴィルバートは虚を突かれた顔をしている。
「欲しいのがあるなら、買ってもいいが」
熱心に見つめていたからか、彼らがお金を出しかけたので、ルチカは慌ててその手を止めた。
「ストライエのお菓子を思い出しただけです。染色用の花を食用に加工して、ちょうどこの石みたいに着色したお菓子があるんですよ。砂糖をまぶしてあって、甘くて不思議な食感のお菓子でした。今度来るときは、お土産に持ってきますね」
ヴィルバートにもあのお菓子を食べさせたいが、先立つものがない。
ストライエへ帰ったら、働いて日銭を稼がなくては。
そんなルチカとは対照的に、ヴィルバートはかすかに表情を曇らせた。
「どうかしましたか?人酔い?」
「いや、何でもない。――――ルチカ、砂糖菓子の露店だ」
ヴィルバートが示した先には甘い香りが漂い、ルチカは吸い寄せられていった。
露店の周りには子供たちが群がっていて、背伸びをしながら、ふわふわの砂糖菓子の製造工程をきらきらした瞳でながめている。
ルチカは彼らに混じって、風避けの透明な板へと張りついた。
木の棒へとみるみる甘い薄雲が紡がれていき、顔よりも大きな砂糖菓子が完成した。
「砂糖菓子を一つください!」
子供を押し退け叫んだルチカは、ヴィルバートにはたかれ最後尾に並ばされた。
「子供を優先出来ないのか?子供なのか?」
「我を忘れてしまいました。何て甘美な誘惑。自制心が砂糖のように蕩けてしまう……」
うっとりとした表情のルチカを、ヴィルバートは顔を背けて笑っている。
「夢にまで見た砂糖菓子が、ゴリラの毛を間違えて食べてしまうほど待ち望んだ砂糖菓子が、すぐそこに……!」
ルチカは子供たちの頭上を越えて露店へと手を伸ばす。
「恥ずかしいから静かにしろ」
ヴィルバートが手を下ろさせて、方々へと頭を下げている。
そのせいで、迷子案内所へと連れて行く少女に振り回される騎士の図が、周囲の大人たちの脳裏に勝手に描かれていた。
ヴィルバートは諭すようにルチカへと短く、「静かに」と注意した。
ヴィルバートの機嫌を損ねるとことなので、ルチカは唇を結って、砂糖菓子の受け入れ体勢を万全にした。
そして遂に、ルチカの前の子供が笑顔で砂糖菓子を手にして捌けていったので、意気揚々と注文をした。
「砂糖菓子を一つ、いえ、二つ」
「一つで」
ヴィルバートが横から訂正を入れた。
だが砂糖菓子を作る青年は、ルチカへと二つ手渡し、それから顔を上げてニッと笑んだ。
「こっちは俺から、女神に」
「……アスト?」
よく見れば、砂糖菓子を作っているのは、ルチカを誘拐したあの青年たちだった。
彼らは一様にルチカを、女神女神と持て囃す。
感謝しているのか馬鹿にしているのか、紙一重な持ち上げ方だ。
久し振りの再会に積もる話もあったのだが、ヴィルバートによって露店の脇へと引き摺られてしまった。
「アストが……」
「あの男は忙しそうだから、今は砂糖菓子に集中すればいい」
確かに、今は砂糖菓子だ。
ルチカはふわふわの砂糖菓子を恍惚として見蕩れ、おそるおそる唇を寄せた。
ぱくんと食むと、濃厚な甘味がじゅわっと舌の上でほどける。
夢や想像とは、全くの別物であった。比べるのも失礼だったと砂糖菓子へと心の内で詫びる。
幸せとはまるでこの砂糖菓子のことようだ。
ルチカは感動をヴィルバートに伝えながら二口目を口にした。
気を抜くとすぐに萎んでしまうので、その後はぱくぱくと急いで食べ進めた。
一本を棒まで丁寧に噛み尽くしたところで、露店からアストが抜け出してくるのが見た。
仕事を任せて少しだけ話をしに来てくれたようだ。
ヴィルバートは眉を寄せてルチカの腕を引いた。
警戒しているのか、彼から少し遠ざけられる。
(誘拐のことをまだ気にしているのかな……?)
アストは苦笑しながら、ヴィルバートは視界に入れずにルチカへと話掛けてきた。
「女神はまた騎士団に捕まったのか?」
「今回は善意の人助けですよ。ご褒美に砂糖菓子を貰いました」
無残な棒へと目を落としたアストが一瞬言葉を失くしたが、ルチカの顔をながめて、がらりと顔つきを変えた。
「そうか。砂糖菓子も気に入ったみたいでよかったぜ。……口の周りがベタついているがな」
手で口を拭おうすると、アストが身を屈めてルチカの顔を覗き込んだ。
目線が同じ高さだと、変な違和感がある。
「……?」
アストは口角を上げると、楽しげな表情を浮かべた顔を寄せ、ルチカの唇の端についた溶けた砂糖菓子をぺろっと舐め取った。
「…………っ!?」
「なッ――――!」
動けずにいたルチカへとさらに、ちゅっと唇で吸い取って、「甘いな」とつぶやく。
ルチカは茫然として唇の端へと触れた。
そこは溶けた砂糖菓子とは別に、しっとりと濡れている。
その親密な触れ合いを指先で実感し、ルチカは瞬く間に赤面した。
アストが、自分の口の端を親指で拭う姿は艶としていて、ルチカは持っていた棒をぽとり落とした。
もう一つの砂糖菓子だけは、本能なのか、無意識に握り締めていた。
無言で見つめ合う二人の間に割り入ったのは、我に返ったヴィルバートだ。
ルチカを背後へと押しやり、そしてアストを冷たく見据える。
アストも優越のにじむ眼差しで、それに対峙した。
「挨拶みたいなものだろう?そう怒るなよ」
アストからしたらそうかもしれないが、ルチカには過激すぎる。頭が茫としてきた。
ヴィルバートは何を言うわけでもなく、ルチカの砂糖菓子の残りをもぎ取ると、アストに背を向け歩き出した。
手錠で締めつけられる左手首を掴まれ、彼の歩幅に必死でついていく。
アストに、またねと言う暇もなかった。
人の隙間を縫いながら進み、ヴィルバートが止まったのは、飲み物を売る露店。
そこで一杯の水を購入した。
(まさか……)
それをルチカの顔へと――――振り向き様にぶっかけた。
水滴が顎を伝い、マキがくれたブラウスにぴちょぴちょ染み込む。
目撃していた人たちが、何事かとざわめき出したが、ヴィルバートは渋面を崩さなかった。
何だ痴話喧嘩か、という声がしたので、人々の興味はすぐに薄れていくだろう。
「またですか……」
「浮気猫。あちこちで餌づけされて。マリアを見習え」
(ゴリラの肩ばかり持って)
ヴィルバートは不機嫌そうに制服の内ポケットからハンカチを取り出た。
それでごしごしと顔を拭われながら、ルチカは不満を心で訴えた。
「口」
命令されて、唇を尖らせると、皮が剥がれるほどしっかりと擦られた。
アストの舌や唇が触れた箇所は、特に重点的に。
(痛い……)
じんじんと痺れる唇は真っ赤に腫れているのに、彼はまだ足りないとばかりに抉ろうとしている。
ここまでされると、人生において何にも代えがたい食事に支障をきたすのではないか。
「いはい」
「……何?」
つぶやくと、ヴィルバートは怪訝そうに聞き返してきた。
雑踏で上手く聞き取れなかったようだ。
口周りが麻痺している状況で、ルチカはもう一度ゆっくりと伝えた。
「いはいでふ」
真面目な顔で間の抜けた言葉を話すルチカに、ヴィルバートが俯き、だが堪えきれずに噴き出した。
力なくルチカの肩へと額を預けて、腹を抱えて震えている。
(酷い……)
ヴィルバートの振動とは違う揺れで、ルチカはふるふると震えた。
それだけのことで、唇周辺に痛みが響く。
――――ぴちょん。
ぬるい滴がこぼれて、ヴィルバートの足元へと染みを作る。
それに気づいた彼は、笑いをすっと収めて顔を上げ――――目を見張った。
ルチカの金の瞳からは、ぽろぽろと涙が止めどなく流れていたからだ。
いつもと違う様子に困惑するヴィルバートだが、痛みのせいだと思い至らないらしい。
「水を、かけたからか……?いや、砂糖菓子を取ったから……?」
検討違い過ぎて、言葉もない。
「こんな公衆の面前で泣くな」
ヴィルバートは動揺しながら、ルチカの目を濡れたハンカチで押さえた。今度は労わるように優しくだ。
「いつもの、ぶっ飛ばすはどうした。言わないのか?」
機嫌を取るように、ルチカの右手に砂糖菓子の棒を握らせた。
「……」
いつまでも無言のルチカにヴィルバートはとうとう自分では手に終えないとばかりに、助けを求め、周囲に視線を巡らせ始めた。
しかしこういうときに限って騎士団の仲間たちは傍を歩いていないと、眉間にシワを寄せる。
(口が痛いけど……)
ルチカは与えられた砂糖菓子を、痛みを宿した唇で食んだ。
萎みつつある砂糖菓子も、これはこれで甘くて美味しい。
ざらざらとした舌触りが、際立っている。
泣き止んだルチカが黙々と砂糖菓子を食べていると、ヴィルバートが神妙な顔つきで言った。
「……茶屋」
(茶屋?)
「休憩になったら、茶屋で好きなものを頼むといい。ご飯も、甘味も」
「――――!?」
「……泣かせて悪かった」
ぼそっと謝罪されて、ルチカは彼へと抱きつき、マリアのように頬を擦りつけた。
「もふいはくなひれふぅ」
次の瞬間、ヴィルバートは音もなく崩れ落ちた。
(失礼な……!)
笑い死にしそうなヴィルバートを無視して、ルチカは砂糖菓子の棒をひたすら齧り続けた。
ここで出てくる砂糖菓子とは、綿菓子のことです。




