ろく
女神の復活祭における警備に、学院の生徒たちも実践という形で参加する。
学院側との連携のための橋渡し役は、クランだった。
人当たりもよく、真面目な彼は人選として妥当である。彼には何の非も落ち度もない。
問題なのはその、補佐役だ。
「えーと、ヴィル。ごめん」
学院へと、一部生徒の持ち場変更を伝達しに向かう道中、クランが再び謝った。
彼は真実何も悪くない。
諸悪の根元は他でもない、ロランツだ。
「あいつだけは、自分より年上だと思いたくない」
「俺も同じと思いたくないよ」
げんなりとしながら、二人は学院の正面玄関を潜った。
風通しのよい廊下は懐かしい匂いが漂っていて、若い頃の記憶が蘇り、むず痒い。
まさかロランツの尻拭いを、未だにさせられるとは思っていなかったが。
「やっぱり学生に警備なんて早いと思う。ただでさえ忙しいのに、ロランツ予備軍まで見張らないといけないなんて……」
肩を落とすクランを、慰めるすべは見当たらなかった。
ルチカ曰く、残念の権化であるロランツは、ただいま謹慎中だ。
街に出すと女しか目で追わず、野良猫よりも使えないので、クランの補佐に回されたのだが、今度は学生たちに悪影響を与えたと学院側から苦情が来たらしい。
「警備しながら女の子を口説こうっていうのが無茶だって、何でわからないんだろう」
「ロランツはもう……手遅れだ」
ヴィルバートは断言し、揃って消沈した。
せめて生徒たちだけは、まともに育つことを願う。
ロランツの悪しき甘言に惑わされた感受性豊かな後輩たちがいるという一室に入り、その顔をながめ見て、ヴィルバートは即座に考えを改めた。
これは、どうにもならないかもしれない。
椅子な掛けた若き青年たちは逆に、ヴィルバートの顔を見て瞬時に青ざめた。
念のため帽子を被っているので、色彩に恐怖したのではない。
「また、おまえたちか」
その低音の響きに、彼らは冷や汗を垂らした。
「こいつら、前にも何かしでかしたのか?」
「未遂だったが、ルチカを襲った」
「それは……命知らずな」
クランの憐憫の眼差しを青年たちへと向けた。
「女なんていくらでもいるのに、よりにもよってあの子を……」
クランは物言いたげに、不機嫌極まりないヴィルバートを見遣った。
あのときの感情がふつふつと蘇ってきた。
ヴィルバートが駆けつけなければ、どうなっていたことか。
ルチカが自力で切り抜けられるはずがない。
馴れ馴れしくべたべた触る彼らこそぶっ飛ばすべきだというのに、口だけのルチカは手を出さない。
ルチカの拳よりも、マリアの前足の威力の方が強そうではあるが。
「ち、違うんです!あのときは女の子なら誰でもよくて!」
「そこにいたから、つい出来心で!なっ!?」
「そ、そうです!お二人がそういう仲だって知ずに!」
わあわあと弁解する彼らは、ヴィルバート周辺の気圧が低下していることに気がついていない。
クランは彼らの指導を、ヴィルバートに一任することにしのか、退いた位置でことの成り行きを見守っている。
「女なら誰でもよかったと?」
彼らは必死にこくこくうなづいた。
クランの嘆息が合図のように、ヴィルバートは無情に続けた。
「ふぅん。おまえたちは女になら誰でも、手に頬擦りをしたり、二の腕を揉んだりするのか」
「「……」」
「無理矢理腰を抱き寄せたり、いやらしく指を舐めたりすることも、日常茶飯事というわけか」
「「…………」」
どんどん顔色が悪くなっていく彼らに、追い打ちを掛けたのはクランだ。
「……あのさ、ヴィル。それは下手したら、強制わいせつ罪にあたらないか?」
クランの囁きを拾ったのか、彼らは顔面蒼白でぶるぶる震え始めた。
最悪退学の事態だから、当然の反応ではある。
ヴィルバートとしてはまだまだ言い足りないが、これで彼らは十分反省しただろう。
「ルチカ本人が気にしていないから、罪には問えない」
彼らがあからさまに安堵したところで、クランが処遇を告げた。
「君たちは巡回警備から外れて、迷子案内所担当になった。存分に励むこと」
毎年迷子はひっきりなしに案内所へと訪れる。忙しさで言えば、上位に入る重要な任務だ。
若い女を口説く暇は、一秒たりとも与えられないだろう。
項垂れた彼らには、きっといい薬となるはずだ。
◇
団長であるシュトレーへと報告を終えた際、ヴィルバートは衝撃的な話を聞かされ、許可を取り自室へと向かった。
日が傾き、陰となった室内では、寝台の掛け布団に沈んだマリアが、全身を弛緩させて眠っていた。
包帯こそ巻かれているが、そのやや潰れた寝顔はいつものものだ。
ヴィルバートはよかったと、安堵をもらした。
それから寝台で、マリアとそっくりな体勢で熟睡するルチカへと目を移した。
「いつの間に仲が?」
マリアの看病をして、そのまま眠ってしまったのだろうか。
それにしては、しっかりと寝台に横たわっている。
寝相は悪くないのでいいのだが、机に並べられた薬草と同種のものが、布団に散乱しているのは何故なのか。
ヴィルバートは一枚一枚集めて、机へと纏めて置いた。
「しかし、よく寝ているな……」
いくらヴィルバート相手でも、無防備過ぎる寝顔だ。
さっきの学生たちのように、女ならば誰でも構わない男だっているというのに。
「……ニギャ?」
マリアが動物の勘で気配を感じ取ったのか、どうやら起こしてしまったらしい。
「マリア。平気か?」
「ニギャー」
声音は平常通りだ。この感じだと、襲われ掛けて慌てて逃げ帰って来たというところだろう。
「外へは行くな。ろくな雄がいないと言っただろう」
「ニギャー……」
包帯の部分を避けて撫でてやり、マリアを慰めた。
マリアは可愛いので、いくら気をつけても足りない。
閉じ込めておくことは、野良育ちのマリアには苦痛にしかならないだろうから、自由にさせているのだが。
「マリアといいルチカといい、ろくでもない男ばかりを引き寄せる」
声に反応したのか、ルチカが無意識にずりずり近づいてきた。そして衝突したマリアの体に、何故か顔面を埋めて幸せそうに笑う。
マリアの触り心地に歓喜したのではないことは、その口元を見て気がついた。
恐ろしいことに、ルチカはマリアの毛をもしゃもしゃと食べ始めたのだ。
「ニギャー!」
「今助けてやるから」
マリアを軽々持ち上げたヴィルバートは、安全そうなルチカの頭側へと下ろした。
マリアは愛らしい前足で、ルチカの頭をぱしぱしとはたく。
一応、手加減はしているようだ。
手当ての恩を忘れていないのだろう。賢い子だ。
仕返しなのか、ルチカの髪をマリアがくわえてはすぐにぺっと吐き出す行動を数度繰返して、溜飲を下げていた。
「そろそろ戻るが、きちんと寝て傷を直せな」
「ニギャー」
マリアはお利口に返事をし、ヴィルバートの姿が扉の向こうに消えてしまうまで健気に見送っていた。
◇◆◇◆◇◆
「……む、むー、むーー!」
突然顔に何かが押しつけられたことで息が吸えなくなり、ルチカは酸素を求めもがいた。
重石でも乗せられているのか、顔は微動だにしない。
手足をばたつかせると、布団がばふばふと哀しい音を立てた。
その段になってようやく、白いもふもふした何かが面倒くさそうに、のそりと退き去った。
マリアが、あろうことか顔に乗っていたらしい。
「このゴリラめ。怪我猫だと思って調子に乗ってると」
「ニギャ!」
マリアが抗議の鳴き声を上げ、鼻先で寝台の脇を示す。
闇をさらに深くした頭が、初めに目に入った。ヴィルバートだ。
俯けた横顔は、しっかりとまぶたを伏せていて、穏やかな呼吸に合わせて髪が小さく揺れ動く。
「ヴィル、寝てる?」
「ニッ!」
マリアがまた、起こすなと注意してきた。
「わかってますよ」
ルチカとマリアが寝台を占領していたから、ヴィルバートは縁に寄り掛かったまま眠ってしまったようだ。
ルチカはそろりと寝台から下りて、ヴィルバートの背中側へと並んで座る。
そして起こしてしまわないように細心の注意を払って彼を後方に倒し、自分の膝へとの頭を乗せさせた。
(これで少しは楽な姿勢になった)
寝台に背を預けたルチカは、ほっと胸を撫で下ろす。
ずっとあの体勢では、翌日体のあちこちが痛むはずだ。
マリアは寝台の下のヴィルバートを見下ろし、添い寝すべきか逡巡している。
「怪我猫は大人しく布団で寝てなさい」
小声で言うと、マリアは渋々従い、布団で丸くなった。
まだ本調子ではないのか、傍に置かれた陶器の皿には餌が半分ほど残されている。
魚のほぐした身からは、シュトレーに貰った薬草が見え隠れしているので、もしかしたらそれが原因かもしれない。
(……もったいない)
ルチカは手を伸ばして皿を引き寄せると、手掴みで一口頬張った。
(これは……。食べれないことはない。油の乗った魚のくどさを、薬草の苦味が打ち消している。ほろほろの魚としんなりとした薬草の歯触りは、物足りなさも感じるけど)
一皿平らげたルチカは、こうして飢えを凌いだ。
人としての矜持など、空腹の前では捨て去らなければ旅人として生きていけない。
それにマリアの餌は、ヴィルバートが食堂で買っている人間用から選り分けたものなので、問題なんて何一つなかった。
「……ニギャ−……」
「眠れないの?」
「……」
「子守唄でも歌いますか」
ルチカは遥か遠い彼の国の子守唄を、ごく小さく口ずさんだ。
不思議なことに、覚えた記憶のない子守唄が、すらすらと唇からこぼれてくる。
よい夢が、見られますように――――。
そう願ってくれた人が、一人はいたのか。
こんな色彩を与えられる以前は。
もしかしたら、母親、なのだろうか。
お腹にいたときに、歌ってくれていたというのか。
そんなはずない、とルチカは胸の内でくだらない期待を打ち消した。
生後半年は外にいたのだ。きっと乳母か誰かに違いない。
しばらくすると疲れもあってか、マリアの丸い頭がこてんと転がり、穏やかな眠りについた。
ルチカはそっと歌を止めて、窓の外をながめた。
いくつの暗い夜を、あの檻で過ごしたのか。あの楽園で。
草花に抱かれ、人工小川のせせらぎで眠った。真綿で包まれたように、何もかもが優しかった。
あの頃は無知で、何も辛くはなかった。物のように、何も感じていなかった。
感情を知った今の方が、ずっと胸が苦しい。
昼間にマキに訊かれたことが頭の片隅で、いつまでも消えない傷痕のように形を残していた。
家が貧しく売られたのならば、いくらかは救われた。
だがルチカは、偶然の産物で希色となった者とは根本が違う。
希色愛好家の父親があの男が接触したのが、産まれる前の話なのだ。
父親は、自分の子が生まれるたびに、名高い色彩師を捜しては雇い入れていた。
(名高いじゃなくて悪名高い、か)
あの男が国を渡ってくるのに掛かった時間が半年。
人としての生活を享受出来たのは、たった半年だったらしい。
師匠であるアニスや教会が知り得る情報は、余すことなく教えて貰った。
だが何を聞いても他人事のようにしか感じられなかった。
物心ついたときには箱庭で展示品として扱われていたのだから当然なのだが。
しかしまさか、あの国の子守唄が歌えるなんて。
思いもよらなかった。
知らなかった。今の、今まで。
「……泣いて、いるのか?」
問い掛けられ、ルチカは目を瞬きヴィルバートを見下ろした。
彼の頬に、滴がひとひら散っている。
目元を拭おうとした手は、彼に取られてしまった。
「擦ると赤くなる」
ヴィルバートは静かに起き上がると、ハンカチを持って一度部屋を出ていき、すぐに帰ってきた。
水に浸してきたそれを、ルチカの目に当てて、潜めた声で優しく言う。
「それで冷やしておけばいい」
彼は静かにルチカと肩を並べた。
ハンカチを捲って見遣ると、気恥ずかしいのかうっすら赤くなった顔を背けている。
どうしようもない切なさが晴れて、光を浴びた温かな花のように心でほころんだ。
ヴィルバートの硬い肩へと頭を預けたが、振り払われなかった。
「何か、哀しかったのか?」
「お腹が減っただけですよ」
ヴィルバートはルチカの気持ちを汲み、誤魔化されてくれた。
無理に聞き出そうとはしない。だからルチカはその優しさに甘える。
「そういえば、餌をあげていなかったな。マキからの焼き菓子は貰ってあるが」
ルチカは憂いを霧散させた。食べ物は何をも凌駕する。
「それを早く言ってくださいよ。さぁ、焼き菓子を求めます」
ルチカは音が鳴らない程度にはたかれた。
「マリアが起きるから声を落とせ」
焼き菓子を取りに立ったヴィルバートの後をついていき、ルチカは薬草をいくつか拝借してポケットへと詰めた。
(美味しかったから、非常食にしよう)
「ルチカ?」
「薬草を少し貰いました」
手渡された焼き菓子入りの紙袋はずっしりとした重量感で、期待が膨れ上がった。
そして中を覗き、ルチカは破顔した。予想以上の多種多様な焼き菓子がぎっしり詰まっている。
(お菓子の神様……)
ルチカはご飯の神様であるヴィルバートと並べ、マキも神格化した。
袋を探り三つほど掴み取ると、ヴィルバートへとお裾分けをし、しばし悩んでから二つ取り出し、マリアにお見舞いとして供えた。
「仲良くなったのか?」
「縄張り争いは継続中ですよ。さしずめ休戦といったところですか」
マリアは小さめの耳をぴくぴくとさせて、熟睡している。
「部屋まで送るか?」
マリアをじっと見つめるルチカに、ヴィルバートは初めそう尋ねた。しかしすぐに、口ごもりながら別の提案へと変更した。
「マリアが心配なら、……泊まっていくか?」
ルチカはヴィルバートに視線を移した。
言い慣れない言葉だったのか、口元を手の甲で隠して、前髪のかかった目を逸らしている。
心拍数が上昇したルチカは、焼き菓子に散ったナッツをつまんでは口へと運んで気を紛らわせた。
(変な意味じゃない。ゴリラが気になるだけ)
暴れる心臓へとそう言い聞かせ、ルチカは上ずった声で、「そうします」と小さく答えたのだった。
マリアもいるので、二人きりではありません。
そういえば、二日連続一緒に寝てますね。このお二人さん。




