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薔薇の甘い香りが苦手だ。
ヴィルバートにとって薔薇は、あの女と直結する数少ないものだからかもしれない。
王宮の庭園は特に、あの邸の庭に酷似している。
邸の庭がこの庭園を模していたのだから、当然ではあるのだが、どちらにしても、居心地はよくなかった。
マキとルチカはまだだろうか。
薔薇園を避けて草木をながめていると、髪をひっつめにした侍女が、薔薇園の方角から足早に駆けて来るのが見えた。
手には金網の檻を恐々と抱えている。
ヴィルバートは訝しみながら、その侍女と擦れ違った。
薔薇園に、何かあるのだろうか。
ヴィルバートは見た目から堅い人間だと思われがちだが、邸を脱走して女神の復活祭を見物に行くぐらいには好奇心を持ち合わせている。
マキの義姉であるコルテシアがまた、無理難題を吹っ掛けていればそれなりの時間が掛かるだろう。
ルチカは色彩師ではないので、そこを見抜かれないかが気掛かりではある。
マキが左遷になる惨めな姿は想像に難いが、ルチカが余計なことを言って場を掻き乱す様子は容易に思い描けた。
ふと、城の内部から、濃密に不快な気配が漂ってきた。
ヴィルバートは出来るだけ距離を取ることでその場を凌ぐ。
それでも胸焼けに似た気分の悪さは霧のように纏わりついて、手で振り払おうとしても、虚しく宙を切るだけだった。
これは、ルチカだろう。
最近それが判別可能なことに気がついた。
他の色彩師の場合は、酒を飲みすぎたときの酔いに近い。だがルチカだと、甘いものを限界まで胃に詰め込んだような気持ちの悪さだ。
力というものは、本人をそのまま表しているらしい。
どちらにしても、体調の不良に変わりはないが。
辺りを気にせず遠ざかったからか、薔薇園にまで戻って来てしまった。
薔薇の芳香に目眩がする。
口を手で覆ったとき、視界の隅で何かが這っていくのを捉えた。
それは細長い体躯をうねらせ、薔薇園の潜り戸の下をすり抜けていった。
蛇くらいならば、この草木生い茂る庭園にいくらいようと不思議ではない。
白い、蛇ならばだ。
ヴィルバートは淡黄の蛇を追い、知らず知らずの内に薔薇園へと足を踏み入れていた。
紅色の、幾重にも重なる花びらがほころんでいる。
それを一瞥もせず、ヴィルバートは蛇に導かれて薔薇園の最奥にまで進んだ。
秘されて咲く深紅の薔薇に、あの女の影が過る。
しかしヴィルバートの目に映ったのは、あの女ではなく、見知らぬ男だった。
気取られている内に、蛇はどこかへと消え失せた。
ヴィルバートに背を見せている男は、花びらを一枚千切っては地面へと落としている。
足元に、血だまりを織り成しているようだった。
眉を寄せ、踵を返そうとしたヴィルバートに、独白めいた声が掛けられた。
「この花を愛でていた娘の面影は、もはやないな」
その言葉に、ヴィルバートの足は縫い止められた。
単にこの場所に、その娘の面影が残っていないと言いたいのか、それとも――――。
「あの女、……母をご存知で?」
男は振り返ることなく、かすかに冷笑した。
ヴィルバートにはそう感じられた。
「近い内に、会うだろう」
「俺が?」
それはあり得ない。
あの女は昔から、ヴィルバートに見向きもしなかった。
こちかから会いに行かない限り、没交渉はどちらかが死ぬまで継続していくだろう。
「おまえの大切にするものを、奪いに来るだろう」
くつくつとした笑いがもれ聞こえてきて、ヴィルバートは顔をしかめた。
予言じみたこの男の発言に、苛立ちを覚える。
一度もこちらへと顔を晒さないことで、さらに不信感が増していく。
警戒し、張り詰めていたところに、ルチカとマキの話し声が響いてきて、薔薇園の外へと目を向けた。
「――――ヴィルいませんね」
「猫でも見つけて、追いかけていったのかもしれないなぁ」
「わたしという愛猫がいながら――――」
ルチカの不満げな口調が、次第に薄れていく。
ヴィルバートは苦笑してから、男へと視線を戻した。だが、そこにはもう誰の姿もなかった。
目の覚めるような金の髪が、まだ記憶の断片として残っているというのに。
白昼夢でも見ていたのだろうか。
あの血だまりのような花びらは、すでに白く濁っている。
男がいたという痕跡は、風に舞って、散り散りに消えていった。
◇◆◇◆◇◆
「――――他の猫に情を移すなんて。尻尾を振った雌猫どもめ。わたしとゴリラには尻尾がないと思って、ヴィルを誘惑してるんですよ」
「君の並々ならぬ愛情の独占欲はいつも猫目線だけれど、敵は猫だけではないだろう」
マキは窓の向こうを通り過ぎた、良家の子女たちを暗に示している。
ルチカと比べるまでもなく、華やかで麗しく淑やかだ。
体つきは、言うまでもない。
「ヴィルは人間の女には興味がないってロランツさんが言ってましたよ」
「え。ヴィル、……男に?」
「誰がだ」
横から呆れ混じりの反論が飛んできた。
ヴィルバートがとりあえずとばかりに、ルチカをはたいておく。
「ああ。ヴィルは女好きだったね」
「誤解を生む発言をするな」
「でも、女が好きだろう?」
マキの流し目を、ヴィルバートは無言で躱した。
「つれないなぁ」
「そんなことはどうでもいいだろう。上手くいったのか?」
二人を案じていたらしいヴィルバートに、王宮を出る道すがら事の顛末を語り聞かせた。
毒蛇の件で、ヴィルバートは顔色を変えた。
心配してくれてるのかと思いきや、その蛇を見掛けたということだったらしい。
(あの蛇も、もう捕まらないといいけどね……)
誰だって、あんな狭い檻に閉じ込められていたくないはずだ。
「何とかなったし、しばらくは女神の復活祭を二人で楽しんできたら?何なら、有給扱いにしておくよ?」
「警備に人手が足りないときに、のうのうと休めるはずがないだろう」
「だったら、警備の片手間にルチカを案内してあげたらどうだ?砂糖菓子を与えておけば、静かにしているだろう」
「わたしは子供ですか」
砂糖菓子が貰えるのなら、ヴィルバートの隣で大人しくいることぐらい吝かではないが。
王宮を無事に出て、三人はカドニール大通りと交わる表通りへと足を伸ばした。
祭りの準備で、どこもかしこも忙しそうに人が駆けずり回っている。
さすがに王宮前に露店はなかったが、目を極むとそれらしき影がちらほら臨めた。
「見ていく?」
「いいえ。明日の楽しみに取っておきます」
ルチカはにっこりとして、砂糖菓子への期待に胸膨らませた。
◇
第二の故郷になりつつある騎士団の門を潜ると、ルチカとヴィルバートは示し合わせたかのように帽子を脱いだ。
頭が蒸れていたので、風がひんやりとして心地いい。
「俺たちは仕事に戻るから、ルチカはその辺りで遊んでおいで」
マキは中庭にある、猫じゃらしがびっしりと密生した草むらを指差し言った。
「……」
時折、がさっ、と揺れる草むらは、猫たちにとっては格好の遊戯場ではあるのだが。
「こいつの言うことを真面目に聞くな。噴水の周りでごろごろしてろ」
「…………」
マキの明らかな揶揄とは違い、ヴィルバートは本気で言っている。
完全にルチカを猫と認識しているのか、マリアにするように、よしよしと頭を撫でてくる。
「焼き菓子は後で持って来るからね」
ルチカはマキに擦り寄り掛けたところを、ヴィルバートが肩を掴み止めた。
「そうやって餌に釣られて誰かれ構わずついて行くな。わかったか?いい子にしてろ」
二人はそれだけ言い残して、建物内へと颯爽と歩いていった。
(ヴィルのせいで、焼き菓子の種類と味の要望し忘れた……)
しかし急に暇を告げられても困る。
怠惰な猫から一転、清貧な修道女生活をしてきたので、おいそれと元には戻れない。
(掃除か洗濯でも手伝ってこようかな)
そんなことを考えていると、のしのしと歩く白いゴリラが、ルチカの視界を横切った。
ゴリラと見間違う猫など、この世に一匹しかいない。
ルチカの好敵手、マリアだ。
ヴィルバートの私室のある官舎へと向かっているらしいが、いつもの威風堂々とした歩調ではなく、足運びがどこかぎこちない。
「どうしたんですか?」
ルチカが追い掛けていき尋ねると、マリアは顔を上げて弱々しく鳴いた。
「二ギャー……」
マリアは何かを訴えるように首を捻って、全く届いていない背中を舐めようと舌を出している。
ヴィルバートによって清潔に保たれているはずのリボンが、砂埃で汚れてほどけかけていた。
「リボンを結べってこと?」
ルチカはその薄紅色のリボンに手を掛けようとして、ぴたりと止めた。
リボンの下にある白い毛を掻き分けて、目を見張る。
毛に埋もれていた皮膚に、まだ新しい傷があることに気がついた。
「これ……怪我?これが痛いの?」
「二ギャー……」
マリアが肯定して、その場にへたり込んだ。
化膿してくると大変だ。早く薬をもらってこなければ。
ルチカはマリアの脇に手を差し入れ、苦戦しながら何とか抱き上げた。
鉛玉のようにずしりとした重量感に、足がふらつく。
「二ギャー……」
か細いマリアの鳴き声に、ルチカは奮起し、よろよろと救護室へと急いだ。
「急患です!」
ルチカは体当たりをして扉を開き、痙攣する腕でマリアを病人用の簡易寝台へと寝かせた。
重みがなくなったというのに、腕の感覚は鈍って痺れてしまっている。
「誰かいませんか?」
返事をするように、カーテンがそよぐ。
いくら見回しても室内はがらんとしていて、人の気配すらなかった。
(職務怠慢め。戻ってきたらぶっ飛ばしてやる)
ルチカはキャビネットを漁り、毒消し薬や血止め薬、化膿止めなどを掻き集めてマリアの手当てを開始した。
手始めにリボンを外し、毒消し薬の蓋を空けて白いとろみのある液体を指で掬う。
「ゴリラ。少し沁みるよ」
「……二ギャー」
これは噛み跡だろうか。形状からして引っ掻き傷ではない。
傷はそこまで深くはなさそうだが、触った感じ腫れているのがわかる。
「喧嘩でもしてきたの?」
「二ギャー」
「縄張り争いは重要だけど、一応雌なんだから淑やかにしてないと軟派な雄しか寄って来ないよ」
あれこれと薬を塗り込み、薬草の浸った綿布をあてがってからぐるぐると包帯を巻いた。
仕上げに、はたいて綺麗にしたリボンを結んでおしまいだ。
「明日また傷を見るから、わたしのところへ忘れず来ること」
「二ギャー」
了承の意味なのか、マリアは前足でルチカの手の甲を、ぽむっと踏んだ。
そのとき、ルチカのせいで建てつけの悪くなった扉がぎぃ、と呻いた。
「おや。マリアがどうかしたのでしょうか?」
入ってきたのはシュトレーだった。
作業着姿で、薬草がたんまりと積み重ねてられた籠を抱えている。
彼は薬草籠を手近な机へと置くと、傍に来てマリアの具合をルチカへと尋ねてきたので、簡単に説明をした。
「首根っこを噛みつかれたみたいです」
シュトレーはそれだけで得心が行ったのか、包帯を巻かれたマリアへと目を落として話し掛けた。
「不埒な野良猫が多いから、敷地の外へは出ないようにとヴィルが言い聞かせていたでしょうに……」
「二ギャー……」
「不埒な野良猫ですか?」
「ええ。生粋の野良猫たちです。今は猫たちの恋の季節ですから、マリアも襲われかけて逃げてきたのでしょう。……可哀想に」
労りのこもる手を差し出したシュトレーに、マリアは頭をすりっと擦りつけた。
「こんな巨大な猫が手籠めにされるなんて、末恐ろしい街ですね」
マリアが抗議の意味で、短い前足ではたいてくる。
「安静にしていないといけませんよ」
やんわりと叱られたマリアは、不服そうに鼻を鳴らした。
治療が終わったら、また外歩きをするつもりだったのかもしれない。
「それならヴィルの部屋に隔離しておきますか?」
「そうですね。一晩は様子見するのが賢明ですかな」
早速マリアを抱き抱えると、シュトレーが薬草をいくつか選り分けてルチカのスカートのポケットへと詰めた。
「薬草の効能はわかりますか?」
「だいたいは把握してます」
食用の毒消し草や、痛みを緩和させる薬草だった。
そのままでも食べられるが、乾燥すれば長持ちする。
ヴィルバートの部屋の机にでも広げて、日光にさらしておけばよいだろう。
ルチカはシュトレーに挨拶してから、岩石並みのマリアを携え、右へ左へ壁にぶつかりながらヴィルバートの私室を目指した。
シュトレーはその後ろ姿を、微笑ましそうに見送っていた。
好敵手なので、弱ってるときは情けを掛け合います。喧嘩するほど仲が良い二匹です。




