いち
深紅の薔薇が、夜露に濡れていた。
彼女はその、傷一つない滑らかな指で、滴の粒を拭い去る。
「わたくしの代わりに、泣いているのね……」
薔薇と同色の瞳で、夜空を仰いだ。
月を見上げては、彼を想う。
夜毎形を変え、色を変え、移ろう姿を彼へと重ねては。
薔薇園で一人佇み、彼女は愛する彼だけを待ち続けている。
彼はいつ、会いに来てくれるのだろうか。
彼女が恋慕うのは、生涯彼だけ。
彼のためならば、どんなこともする。
彼が彼女の、世界の全て。
彼との間に生まれた息子に、何の躊躇いもなく漆黒を与えられても、恨むどころか喜びで心が震えたほどに。
そういえば、あの息子はどこにいるのだろうか。
彼に寵愛を受けた、あの息子は。
彼女は、くしゃりと薔薇の花を握り潰した。
彼の、あの素晴らしく美しい、輝きを称えたあの瞳に止まる者は、皆憎らしい。
リタの娘も、――――自分の息子も。
落ちた薔薇の花びらが、風に浚われていく。
白く朽ちて、夜闇を汚しながら。
「――――アイリーナ」
彼女の耳朶に触れたのは、睦言のような囁き。
彼女――――アイリーナは、満ち足りた笑みを浮かべた。
今すぐ振り返り、彼の腕の中へと飛び込もう。
きっと抱き止め、頭を撫でてくれる。
それから見つめ合って、どちらからともなく口づけを交わす。
そしてアイリーナが伝えたい言葉は、いつも一緒。
「愛していますわ。――――セオルス様……」
◇◆◇◆◇◆
「寝坊助起きろぉ」
「起きろ、起きろー」
朝日の差し込む狭い室内に、あどけない二つの声が響いた。
彼らは布団にくるまる塊に馬よろしく跨り、とにかく揺さぶりまくる。
上半身と下半身に乗った、決して軽くはない重みと、子供特有の黄色い声に、塊がもぞもぞと動き出した。
ひょこんと布団の端から覗いたのは、銀白頭の頭髪だ。
「起きろ起きろぉ」
「起きろ−、起きろ−」
右へ左へ揺すられ、髪まで手綱のように引っ張られたルチカは堪らず顔を出した。
そして子供たちへと一言物申す。
「年長者を敬いなさい」
きょとんとした子供たちだったが、いそいそと、みのむし化したルチカから下りた。
簡素な寝台の横で並び、再び顔を埋めかけたルチカへと純粋な疑問を述べた。
「年長者って何ぃ?」
「なぁに?」
「年上の大人ってことですよ」
布団を被り、くぐもった声で答える。
「えー?ルチカねぇは大人じゃないもん」
「子供だよー?」
ルチカは途端にむくりと上体を起こして、お気に入りの大切なリボンで、髪を束ねて結い上げた。
そしてしゃなりと靡かせ言う。
「大人です」
子供たちは顔を見合わせ、首を傾げてから声を揃えた。
「「どこが変わったの?」」
「このレースのリボンが見えませんか?不可視ではありませんよ?」
「リボンなんて子供でもするよ?」
「大人の方がしないよ?」
「……。それよりも、朝ご飯の時間ですか?」
ルチカが諦めて尋ねると、子供たちは幼い指で外を差した。
「ううん。もうすぐ郵便屋さんが来るよぉ」
「来るよー」
ルチカは時計を確認して目を見張り、布団を跳ね上げ、寝巻き姿のまま部屋を飛び出した。
♢
リュオール国の西に位置する、ストライエ国。
その国境近くの教会に、ルチカはこの数日、師匠とともに滞在していた。
一月以上の行方不明のせいで、危うく死亡と判断される寸前にこの教会へと辿り着いた。
危惧したとおり、方々から叱られるはめになったルチカは、現在修道女として孤児たちの面倒を見ながら反省中である。
リュオールの騎士団で散々甘やかされた怠惰な猫は、真逆な清貧生活にようやく馴染んだところだ。
世界各地のいたるところに教会はあるが、その全てが復原使の存在を周知しているわけではない。
さらには復原使の活動を支援出来るような、資金の潤沢な教会はごく少数だ。
その一つであるこの教会の荘厳な礼拝堂を、見向きもせずルチカは走り過ぎた。
逸る気持ちで、教会の外へと繋がる扉を押し開こうとしたそのとき、
「何です、ルチカ。その格好は」
おずおず振り返ると、この教会を取り仕切るシスター・レイナが鬼の形相で腰に手を当て、仁王立ちしていた。
「朝の日課です。郵便屋さんへと挨」
「挨拶をするのならば、それなりの姿でなさい」
「修道女服は暑」
「髪が隠せてちょうどいいでしょう。今すぐ着替えていらっしゃい」
ルチカの話し終わる前にことごとく言葉を被せられ、言いくるめられてしまった。
(師匠は修道女服じゃないのに)
与えられた一室に引き返し、服を着替えてから、改めて外へと駆け出した。
色彩豊かな花々が咲き誇る庭の、飛び石の上を猫のように跳ね、道沿いに設置された郵便受けを覗き込む。
だが中は空っぽで、配達がまだされていないことを示していた。
ルチカは郵便受けを背もたれにしてしゃがみ、周囲の草をぶちぶち千切って時間を潰した。
(遅い……。職務怠慢でぶっ飛ばしてやる)
こんもりとした小山が完成した頃、郵便配達の青年が走って来るのが見えてきた。
ルチカは立ち上がり、そわそわしながら青年を待った。
「遅くなりましたぁー!道が混んでて、ぬかるんでて、すべって、転んで」
「御託はいいです。さぁ、郵便物を出してください」
両手を差し出し、受け取りの準備万端なルチカに、青年は苦笑しながら、肩からたすき掛けされた鞄をごそごそと漁る。
「今日こそは、あるといいですねー」
「なかったらあなたをぶっ飛ばします」
「あはは、止めてくださいよー」
青年はへらへら笑いながら、数通の信書を束ねてルチカの手のひらへと乗せた。
すぐさまルチカは宛名を確認する。
一通目は、教会への寄付に関する書類。
ストライエでは、教会が孤児を受け入れているので、時折貴族の夫人からこのような手紙が送られて来る。
二通目から四通目までは、教会の子供たちと、シスターへの私信だった。
残るはあと二通。
ルチカは可愛らしい猫の絵が描かれている手紙を、期待して裏返す。
そこに記されていたのは、――――師匠の名前。
(師匠ぉぉ……)
五通目は、師匠の愛人からの恋文だった。
(破り捨ててやる……)
涙目のルチカは萎みきって、もう一通の簡素な手紙は適当に裏返した。だが、
「あー!よかったですねー」
青年に明るい声に導かれて目を落とすと、そこにはルチカの名が、しっかりと書き記されていたのだ。
我に返ったルチカは手紙の封を慎重に破き、便箋を取り出した。
毎日手紙を送るルチカとは対照的に、彼からはなかなか返事が来ない。
久しぶりの手紙に、胸が弾む。
ルチカはほころぶ顔で、ぴらっと便箋を開いた。
そしてそこに記された内容を目にし、笑みを失い、血の気を引かせ、驚愕に引き攣り、――――卒倒した。
「シスター!?誰か来てください!大変です!――――シスター!!」
ルチカは郵便配達の青年の叫び声が、意識の薄れていくルチカの耳に、こだました。
◇◆◇◆◇◆
女神の復活祭まであと二日日、騎士団本部は警備の段取りで慌ただしく、それに拍車を掛けるように新たな問題までが起きていた。
マキの執務室に呼ばれたのは、仏頂面を張りつけたヴィルバートだ。
ルチカが禿げを作ったソファに腰掛けたマキと、肩を並べる作業着姿の団長シュトレーの対面へと座る。
「普通、団長室に呼び寄せませんか?なぜマキの部屋に?」
「中庭から近いので無理を言ったのですよ。ヴィルもこちらの方が慣れているでしょうしね」
慣れてはいるが、あまりいい思い出はない。
マキに呼ばれてよかった試しが、これまでに一度でもあっただろうか。
「またそんな恐い顔して。放浪猫日記が数日途絶えたくらいで。ねぇ、団長?」
「なぜ……!?」
ヴィルバートが戦慄した。
私信のやり取りを、マキだけには決して知られないように注意していはずが。
一体、情報の漏洩元はどこか。
凍りつくヴィルバートを、マキとシュトレーは弟や息子を見るような目で、微笑ましいそうにながめている。
「文通ってところが初々しいけれど、はっきり言えば、幼稚だよね」
「幼稚……」
「強引に唇奪っておかないから、こんな亀の歩みの恋愛ごっこをする羽目になるんだろう」
「亀って……。あれは猫だ。それに、恋愛ごっこって何だ。猫と恋愛なんてしてないだろう」
顔を背けたヴィルバートに、マキがにやにやしながらシュトレーに耳打ちをした。
「照れてますね」
「あまりからかうものではありませんよ。マキ。――――それでヴィルは、猫ちゃんと良好な関係を築けていますかな?」
「……団長もからかっていませんか?」
ヴィルバートは退出してしまおうかと、腰を浮かせかけた段になってようやく、マキが泰然と足を組み、本題を切り出した。
「先日、王家雇いの色彩師を捕らえただろう。覚えてる?」
ヴィルバートは気を取り直して答えた。
「そこまで呆けてない」
汚職まみれの色彩師を逮捕したのは、他でもないマキが率いる隊なのだから。
ヴィルバートも、一応はそこに籍が置かれている。
「それで万事解決、といかないのがこの話でさ。王家から直接抗議された。女神の復活祭の目玉である色彩師を捕まえたのだから、代わりを用意しろって」
「代わりって、どこかの貴族から貸して貰えばいいだけだろう?」
貴族ならば、一家に一色彩師くらい常備してあるはずだ。王家から貸与の申し出があれば、断るどころか喜んで差し出すだろう。恩を売っておけば損のない相手なのだから。
「ヴィル。俺、直接って言ったよね」
マキが皮肉げに口を歪ませる。
この表情をするときは大抵、彼の複雑な事情が絡んできているときだ。
「まさか……!」
「そう。そのまさか。嫌がらせだよね。まぁ、向こうもそう思っているだろうけれど」
ヴィルバートと、時を同じくして騎士団に預けられたマキ。
年長者ばかりの中を二人で過ごす内に、お互いの事情は全て余すとこなく知り尽くすこととなった。
そうでなくとも、ヴィルバートとマキの間には、切っても切れない深い関わりがある。
「色彩師を貸すなっていう、お触れが出ているらしい。女神の復活祭には必ず七人が必要だ。用意できなかったら面倒なことになる。だから、ヴィル」
マキが悪戯っぽく笑んで立ち上がると、執務机の引き出しを探り、開封された数通の封筒を取り出した。
マキが指で挟むそれらに、ヴィルバートは既視感を覚えた。
ヴィルバートの部屋の、鍵の掛けられる引き出しにしまっておいた手紙の一部だ。
色や柄がまちまちで、日々引き出しの中が彩られていくので、数通抜けていても気づかなかった。
「――――マキ」
冷気を漂わせ、ヴィルバートがマキを見据えた。
もちろんそれが効くような繊細さを、彼が持ち合わせているはずもなく。
「よくこんな、ミミズがのたうち回って干からびたみたいな文字を読めるね。感心する」
「……人の部屋に勝手に入ったのか」
「マキ。ヴィルに形だけでも謝りなさい」
そこでやんわりとシュトレーが窘める。
「形だけ……」
ヴィルバートがつぶやいた間に、マキが見事な形だけの謝罪をして手紙を返却した。
暗号めいた拙い文字を解読した努力は認めるが、人の私信を読むのは犯罪ではないのか。
「大した内容じゃなかっただろう?恋文かと思って読んだのに、ただの日記で拍子抜けしたよ」
「団長。この男を何か罪に問えませんか」
「無理でしょうね」
さらりと返され、マキを睨みつけかけたヴィルバートだったが、話の繋がりに妙な胸騒ぎを感じて問いつめた。
「なぜこれを持ち出した?」
色彩師が必要なマキと、偽色彩師こと復原使のルチカの手紙――――。
「彼女の居場所を知りたくて」
「ル、……猫を使う気なのか?もうストライエに入国したはずだ。今から呼び寄せても間に合うかどうか……。それに、色彩師嫌いのあいつが来るはずないだろう」
別れてからまだ数週間。そう早く戻りはしないはずだ。
「誰が今呼ぶって?とっくに呼び寄せ終えてるよ。当たり前だろう?今日辺り、着く頃かな」
「な、どうやって!?」
ヴィルバートが引き止めても旅立った彼女が、マキの言葉なんかで帰って来るはずがない。
だがマキは、爽やかないい笑顔で言った。
「一言書いただけだよ?」
「何てだ」
「――――ヴィル危篤」
愕然とするヴィルバートの耳に、切羽詰まったルチカの絶叫が聞こえた気がした。
初ヴィル視点です。ようやくです。




