ある少年の話
あの頃はまだ幼くて、それが普通ではないことを、知らなかった――――。
広大な邸には主とその息子、そして最低限の使用人しかいなかった。
少年は寝室の窓から遠くをながめて、深々とため息をついた。
物心ついた頃からずっと、邸の外へは出たことがない。庭に出ることは許されていたが、高い外壁の側までは近づかないことを約束させられていた。
今日は女神の復活祭最終日。
七日間掛けて女神に感謝の祈りを捧げながら、国をあげてお祝いをした。その締め括りの日だ。
街は前日以上の賑わいで、パレードが行われるカドニール大通りには大勢の人々が集まり、その祭典を楽しむという。
女神役の娘が色鮮やかな薔薇の花びらを撒きながら、カドニール大通りを王宮へと進む。
王宮には王族と王室仕えの色彩師がいて、女神役の娘からそちらへと主役が移る。
開放された庭園には真っ白の薔薇。この日のために、決して色づかせないそれらに、色彩師たちが一斉に彩色を施す。
その光景は、きっと心撃たれるほど美しいのだろう。
少年は思いを馳せながら、窓ガラスに額をことりとぶつけた。
そこに映り込む髪は、日だまりの中でも黒々と光を飲み込んでいる。
理由はわからないが、使用人たちが少年を奇異な目で見るのはこの髪のせいだった。
この髪に、彼らは恐れと嫌悪の表情をする。
その目で見られることにも、もう慣れてしまった。
この邸には、子供が読めるような本や玩具は一つもなく、少年は日々退屈していた。
部屋をうろうろと歩き回り、寝台に大の字で倒れ、布団にくるまった。
ごろごろとしている内に、パレードが始まる正午まであと一時間を切っていた。
「ぼくだって見たいのに……!」
色彩師という人たちが、どうやって白を変えるのか、どうしても見てみたかった。
家庭教師は勉強だけを教えて、いつもそそくさと帰ってしまうので、色彩師についての詳しいことは何も聞けずにいた。
少年はがばっと布団の中に潜って、じたばたと暴れた。邸の使用人たちも、おそらく出掛けてしまっているだろう。
しょんぼりとしていた少年は、はっとして布団から顔を出した。
「今は、あの女しかいない……?」
夢の中に閉じ籠り、深紅の薔薇園でただひたすら、来るはずのない男を待ち続ける――――あの女。
「あの女のせいで」
この邸に閉じ込められているのはあの女のせいだ。
少年になど、見向きもしない、あの女の。
あの女が、少年の動向を気にするはずかない。
そろそろと寝台から抜け出し、寝室の扉を薄く開けて廊下を覗く。がらんとした廊下には人の気配がまるでない。
(やっぱり!)
少年は急いで帽子をかぶり、髪を詰め込んで、部屋を飛び出した。
◇
外の景色は、少年にとって全てが新鮮で全てに心奪われた。
初めて歩いた石畳も、縦横無尽に通り過ぎていく馬車も、たくさんの品物が並べられたお店も、何もかも。
予想した通り、髪を隠してしまえば、誰も少年を気にすることはなかった。
道行く人々の後をつけ、少年が王宮の前へと辿り着いたときには、カドニール大通りのパレードが終わりへと近づいた時分だった。
開放された王宮は、あふれる人でごった返していた。
その多さと熱気で、足がすくんでしまうほどに。
庭園どころか、門さえ越えられない。
少年の身長では人の壁に阻まれ、何も見れずに終わるだろう。
他の子供たちは大人に肩車をしてもらっていたり、抱き上げられたりしている。
彼らは頭一つ分、大人より高い。
少年は、すぐ傍にいた親子連れを仰ぎ見た。
父親が肩車をしている娘へと話しかけ、苦笑している。
娘は父親の髪をしっかりと握り締め、きらきらとした瞳で前を向いていた。
隣に寄り添う母親がやんわりと娘へと話しかける。
すると娘は、握り締めていた小さな手のひらをほどき、笑う。花が咲くように。
つられて両親もほころぶ。
少年は顔を強張らせ、笑顔の親子を押し退けて、前へと体を捻り込ませた。
胸がどくどくとしている。さっきまでの期待に胸膨らむのとはちがって、体の芯に重りをつけられたような動悸だった。
少年は父親を知らない。
誰も、少年の父親を知らない。
知っているのはあの女だけだ。
少年を産んだ、あの女だけ。
だけど少年は、あの女が一度だけ口にした、男の名前を覚えていた。
少年の、父親だろう男の名前を。
ぶつかって、つぶされて、前が見えなくて、動けなくなって、少年は息が出来なくなって涙がにじみ出た。
こんなにたくさんの人がいるのに、少年は一人ぼっちだ。
涙を拭う腕も上げられなかった少年は、次の瞬間、急に足が浮き上がった。
あまりの驚きに、固まってしまった少年の顔を、綺麗な若い女の人が覗き込んだ。
「迷子ですか?」
彼女に抱えられた少年は、首を横に振って否定した。人に真っ直ぐに見つめられたのは、初めてのことだった。
それもこんなに、曇りのない、太陽のような笑みは。
少年はしっかりと帽子を引っ張り、頭に押しつけた。
この髪のせいで、彼女の表情を崩したくなかった。
「迷子ではないのですか。でしたら私と、一緒に見物しましょうか?」
「え?」
「私もご覧の通り、一人です。こんなに可愛いあなたが一緒に見てくださるのなら、私、寂しくないです」
屈託なく言う彼女に少年は顔を赤くした。
彼女が一人は寂しいと言うのなら、一緒にいようと思いうなづいた。
「重くない?」
抱っこされるなんて初めてで、彼女の首に腕を回しながらこわごわ尋ねた。
彼女は頭を振って平気だと微笑む。
地面についてしまいそうな長い髪が小さく弧を描いた。
「あ、ほら見てください。始まりますよ」
にこにこと指を差す彼女に促され、少年はそちらへと目を向けた。
七人、遠く白薔薇の奥に立っていて、両手を棘のある茂みへと触れたようだった。
少年のところからは、彼らが何かを言っているのがかろうじてわかるぐらいだ。
どれくらいたった頃か、地面に近い茎からじわじわと発光し始めた。徐々に茎を伝い、棘、葉、そして顎までが鮮やかな新緑に――――。
少年はその光景を、瞬き一つせず、魅入っていた。
顎から花弁の先までをぽぅっと光が包み、一斉に花が色づいた。
たった今花開いたように、咲き誇った七色の薔薇。
素晴らしい、美しい、そんな言葉よりも、なぜか突然胸が苦しくなって、少年は彼女の肩へと顔を沈めた。
そして地響きのような歓声が沸き上がり、少年は思わず耳を塞いだ。
凄まじい熱に、酔ってしまいそうだった。
「気分、悪いのですか?」
少年は青い顔でこくりとうなづいた。
あんなに楽しみにしていたのに、なぜ気分が悪くなってしまったのだろう。
吐いてしまいそうで、少年は慌てて口元を両手で覆った。
彼女は少年を抱っこしたまま、人をするすると掻き分け、人垣をあっという間に潜り抜けた。
「私も初めて見たので、確証はありませんが……色酔い、かもしれません。――――どこかで休みましょうか」
「色酔い……?」
彼女は安心させるための、小さな微笑みを少年へとくれた。
「休めば、すぐによくなるでしょう」
彼女は手近な茶屋へと入った。
未だ王宮付近は混雑しているが、店内はぽつぽつ数人いるだけで暇そうだ。
二人掛けのテーブルに座ると、店員に出された水をごくりと飲み込んだ。
冷たい水が喉を通過し、気持ち悪さが少しだけ収まった気がした。
飲み物を注文している彼女に、少年は謝った。
「……ごめんなさい」
彼女は首を振る。
「復活祭は毎年一緒の内容です。復活祭のために、ここへと訪れたのではないのですよ。私、可愛いあなたの方が大切です」
ふ、と目元を和らげ、彼女はおっとりとした手つきでグラスに唇をつけた。
一口だけ水を含んで、テーブルへとことりと置く。
「これは私からの、お願いです。色彩師には、決して近づいてはいけませんよ」
「どうして?」
「また色酔いしては、幼いあなたの体に、負担が掛かり過ぎます」
「お姉さんは、お医者さま?」
彼女は目を瞬たき、首を左右に振った。
長い金の髪が、茶屋の床を撫でる。
「私はアニス、です」
「アニス、さま……?」
アニスはくすっと笑って、小首を傾げた。
「可愛いあなたは、ヴィルバート?」
少年――――ヴィルバートは驚いた。
自分の名前を、どこで知ったというのだろうか。
使用人たちでさえ、彼の名前を呼ぶことはなかったというのに。
「逃げて来たのですか?」
「……復活祭を、見たかった」
「何かを知ろうということは、素晴らしいことですよ。だから、顔を上げていいのです」
ヴィルバートは、弾かれたように俯けていた顔を起こした。
そんな言葉を掛けてくれる人など、彼の周りには存在しなかった。
「楽園の外が例え、汚泥にまみれた悪しき世界だとしても、それを見て、知り、感じ、何を思うかは、個人の自由なのですよ」
「自由?」
「えぇ、自由です。自由は自分の手で取りに行くものです。――――あなたは将来、どうなりたいのですか?」
その質問に、ヴィルバートは凍りついた。
未来のことなど、想像したことがない。
その事実に、衝撃を受けた。
永久にあの邸で暮らしていくことに、何の疑念も持っていなかった。
今日だって、復活祭を見学した後は、あの邸へと迷わず帰るつもりだったのだ。
あの邸で、あの女――――母親と暮らしていく。
一体、いつまでか。
家庭教師は読み書きと計算。言語に関しては母国語だけではもの足りず、他国語もいくつか覚えた。
しかし、ヴィルバートは母国語は話せても、母国については何一つ知らない。
この国の成り立ち、どのような人々が暮らし、どのような生活をしているのか。
では他国とは何か。
言葉を話せたところで、それがどのような国か、家庭教師は教えてくれなかった。
次々に課題を与えるだけ。それを、こなしていくだけ。
ヴィルバートは、意図的に偏った教育を施されていた。
何も望まず、何も疑わず、何も知らずに、誰かに従い生きていく。
ぞっとした。
将来の選択肢さえ、ない――――。
絶望の淵で悄然としてたヴィルバートに刹那、鋭い声が投げ掛けられた。
「――――ヴィルバート様ッ!なぜこのような場所にッ!」
ヴィルバートは声の方へと反射的に視線を向けた。
茶屋の入り口から、家庭教師と使用人の女が驚愕を浮かべて駆け寄って来る。
勝手に邸の外へと抜け出したことを、咎められると察し首を竦めた。
「何てことを!」
「ごめんなさい……」
「邸へと戻りますよ!早く!急いで!」
家庭教師は苛立ちを込めて言うが、ヴィルバートは躊躇って、なかなか立ち上がることが出来なかった。
このまま言われるがままに邸へと帰って、またあの暮らしを継続していくことへの疑問が、ヴィルバートをこの場へと押し留める。
業を煮やした家庭教師に、ヴィルバートはやや強引に茶屋の外へと連れ出された。
「誰が外に出ていいと!?」
「だって、復活祭……」
「あなたには関係のない祭りですよ!あなたのような忌み――」
家庭教師は苦い顔で口をつぐんだ。
ヴィルバートが尋ねても、言葉の続きは決して言わないだろう。
使用人の女に目を移す。こちらはヴィルバートに目も合わせず、ひどく落ち着かない様子で周囲をきょろきょろとうかがっている。
「……アニスさま」
ヴィルバートは茶屋からゆったりとした物腰で現れたアニスに、問い掛けた。
「ぼくは、何?」
アニスは哀しげに微笑し、手を差し出した。
あの手を、掴まなくては。
ヴィルバートが小さな手を伸ばすと、家庭教師が反対の腕を強く引いた。
「おまえ、何者だ!」
アニスへと敵意を露にした家庭教師が、ヴィルバートを自分の側へと引き寄せようとする。
ヴィルバートは抵抗した。
家庭教師も、使用人の女も、あの邸も、何一つ信用出来ない。
抗うと思っていなかったのか、家庭教師は言うことを聞かせようと、ヴィルバートに掴み掛かった。
そしてヴィルバートがそれを躱そうと身を捩ったとき、家庭教師の手が帽子を掠め――――。
「――――あ!」
しっかりと被っていたはずの帽子が、宙へと投げ出された。
ヴィルバートの、漆黒の髪が、太陽の下へと晒される。
「ひぃっ……キャーーー!!」
耳をつんざくような甲高い悲鳴が上がった。
大勢の人が、叫び、逃げ惑う。
大人が恐怖し、泣きじゃくる子供を庇い走り去る。縺れ合い、転倒し、這いつくばってまで距離を取ろうとする。
何も持たない少年の、ヴィルバートから。
恐れをなして、逃げ交う人、人、人。
この世の全ての人に、存在を否定された。
幼いヴィルバートは、涙さえ出ずに立ち尽くした。
邸でも、どこでも、同じだ。
どこにいても、嫌われる。
あの女のせいではなく、自分自身のせいだった。
邸に閉じ込められる理由を、身をもって知った。
この髪が、漆黒という色彩が、ヴィルバートの心を蝕み傷つける。
それなら色彩とは何なのか。
色彩師とはどういう人間なのか。
教えてくれる人は――――。
ヴィルバートは周囲に視線を巡らせた。
紫の瞳には、畏怖する人間たちの滑稽な姿しか映っていなかった。
――――彼女を、見るまでは。
家庭教師が慌てふためき、帽子を拾い上げヴィルバートへと被せ直したが、騒ぎが収まらずに舌打ちをした。
「だから外には出ていけないとあれほど――――!?」
「離せ!」
家庭教師の腕を振り払い、ヴィルバートは真っ直ぐにアニスの元へと飛び込んだ。
温かくて柔らかなアニスの胸に抱かれ、ようやく涙が頬を伝った。
「これが、世界の全てではありません。ほんの、一端に過ぎないのですよ?ありのままのあなたを、受け入れてくれる人が、必ずいます。その人たちを、大切にすればいいのです」
おっとりとした口調で囁き、アニスが人々の忌み嫌う色彩を、たおやかな手のひらで何度も撫でた。
ヴィルバートを取り返そうとする家庭教師に、アニスは艶然と微笑んだ。
その美しい相貌に、たった今気がついたとでもいうように、家庭教師は茫と見蕩れた。
使用人の女がむっと眉を上げたので、アニスが彼女には妖艶な流し目を送った。
すると、彼女は頬を染めて恥じらうように俯く。
中性的なアニスの顔は、表情次第でがらりと印象を変えてしまう。
ヴィルバートに注ぐのは、聖母のような優しい笑みだ。
実の母親が向けることのない、慈愛。
「あなたは、どうなりたいですか?」
また、その質問だった。
「難しく考える必要はありません。今、どう思っているかを、教えてくださればいいのです」
ヴィルバートはアニスの服を固く握り締めて、ぽつりと言葉をもらした。
「……知らないことを、知りたい。それで、強く、なりたい」
人に恐れられても動じない、強い心が欲しい。
誰にも負けないような、強い体が欲しい。
そして、自らで道を選ぶ、自由が欲しい。
アニスはヴィルバートを抱き上げ、嬉しそうににっこりとした。
「それならさっそく、挨拶に行きましょう。このまま、可愛いあなたを連去ってもいいのですが、この国の王をやきもきさせると、後々が大変です」
「挨拶?」
「えぇ。強くなりたいのなら、心も体も鍛えなくてはなりません。さらに知識を得ることも可能な、うってつけの場所があるのです」
「ぼくが……行ってもいい場所?」
「えぇ。誰にでも開かれている場所ではありませんが、私の、信用できる人がいる場所です」
アニスが信用出来る人ならば、ヴィルバートも信用出来る気がした。
歩き出したアニスの背に、家庭教師の茫然とした声が掛かった。
「その子を、どこへ……?」
顔だけ振り返り、アニスは清々しく美しい笑顔で告げた。
「リュオール国王立騎士団へと、連れて行きます」
これが幼き日のヴィルバートと、後にルチカの師匠となるアニスとの出会い――――。
アニスがヴィルを可愛いと言う理由はこれです。




