じゅう に
混沌とした闇が、その邸を訪れた。美しき姿をした、罪深き闇だ。
地下室へと続く薄暗い階段に、カツンカツンと規則正しく杖のぶつかる音が響く。
足音は、二つ。――――否、もう一つ。
小物色彩師という不甲斐ない呼称をされた男、ドゥウェリだ。
騎士団から見事逃げ仰せた彼は、つてを頼り、この邸へと身を潜ませていた。
美女揃いのこの邸は、ドゥウェリにとって楽園だった。新入りの見目麗しい使用人の部屋から、浮かれ気分で密かに退出したときだ。
邸の主人が、使用人にも内密に、一人の客人を招き入れた。
ドゥウェリは秘密の匂いを嗅ぎ取り、ほくそ笑みながら後をつけた。
いつまでもここにいられるわけではないのだ。
遅かれ早かれ、この邸を出て行かなくてはならない。
騎士団に目をつけられた今、逃げるならば国を出た方がいい。新天地でならば、色彩師として歓迎されるだろう。
出国するにしても、当面の資金がいる。
邸の主人の後ろ暗い秘密を暴ければ、と意気揚々と尾行していたのだが。
ドゥウェリは、判断を早まったかもしれないと、階段を中腰で下りながら、そう思い始めていた。
彼らは明かりも灯さず、不気味なほど会話もせずに、黙々と地下室の階段を下りていくのだ。
ある種の、儀式めいた禍々しさを感じ、ドゥウェリは上段の方で身震いをした。
そもそも、この邸に地下室があることすら、古参の使用人でも知らないのではないか。
主人の書斎に、隠し扉があるなんて、誰が知るのか。
唐突に、階下で明るさが宿った。
地下室の扉が開かれたようだ。
同時に、ドゥウェリの息遣いを残して音が途絶えた。
地下室に、一体どんな秘密があるというのか。
ここまで来ては後に引ひけず、ドゥウェリは忍び足で階段を一番下まで下ると、地下室の扉をごく薄く開いた。
長細く、橙色の光がドゥウェリを照らす。
中には主人と、一人の男。後ろ姿で顔が判別出来ない。
ドゥウェリは瞳を押しつけるように扉の隙間に身を寄せて、初めて、それに気がついた。
彼らの前には、四つの透明な棺が並べ置かれていた。
その内の三つはすでに埋まっており、棺の縁から長い管が伸びている。
ドウェリは胸が悪くなり、顔をしかめた。
この国の色彩師ならば、知らぬ者はいないだろう。
希色の人間を仮死状態にして保存するための、棺。
しかし、中で眠る少女たちは希色持ちには見えなかった。
目を閉じてはいるが、胸の上に組んだ手の、甲にある徴は、ドゥウェリと大差ない小物色彩師のものだ。希色を出せるはずがない。
「後、一人は欲しいものだが、ね……」
主人が嗄れた声でつぶやいた。
「騎士団の警備が、なかなか……」
カドニールに騎士団が潜伏していた理由はこれか、とドゥウェリは己の運のなさを呪った。
貧困街では身の危険があり、歓楽街には誘惑が多い。だから商業区域を選んだというのにだ。
「陽動でも起こせんものかね?」
「……さぁ?」
初めて、男が相槌を打った。試すような、やや高圧的な声韻だ。低く、年月を重ねた色がある。若くはないが、年をとっているわけでもない。
ドゥウェリは、どこかで似た声を聞いた気がして首を捻った。
最近だ。声遣いではなく、声質が誰かと似ているのだ。
しかし、誰かがわからない。
思い違いか、とさっさと諦め、ドゥウェリは意識を地下室へと戻した。
「……美しい娘でないと。フルーヴェルの女では、いかん。あそこには、魔女がおる」
魔女とは。遂に耄碌し始めたか、とドゥウェリは潜めてせせら笑う。
「フルーヴェルには、手を出せん。女神の復活祭の後、ほとぼりが冷めてからでは、いかんものか?」
「……くだらない祭まで居ろと」
ぞっとするような、冷え冷えとした口調だ。扉を挟んだドゥウェリまでも、怖気立った。
主人も言葉を失い、青ざめている。
男は不快を露わにし、独り言のようにつぶやいた。
「煩わしい。鼠が嗅ぎ回っている」
ドゥウェリは口を両手で塞ぎ、呼吸を止めた。
だが男は振り返ることはなく、ほっと胸を撫で下ろした。
しかし、男がふと見せた横顔に、ドゥウェリは驚愕で今度こそ叫びそうになった。
男はあの、鬼才セオルスだった。二十数年前に、この国にいた。王家雇いの色彩師。
名誉とも呼べるその仕事を、たった数年で辞めたという、伝説の男。
当時、不祥事でもあったのかと、色彩師の間で騒がれたが、真実は藪の中だった。
そのセオルスがこんな場所にいる理由。
透明な棺が、答えだった。
ドゥウェリは踵を返そうとしたその刹那、肩を何かに捕らえられ、後方へと引き倒された。
「くっ……!」
ドゥウェリが苦痛を押して見上げた先には、杖の曲がった持ち手があった。
「盗み聞きとは、けしからん」
主人が言葉とは裏腹に、満面の笑みを浮かべていた。
「この者を、使えばよい」
セオルスが、ドゥウェリを見下ろした。
酷薄な目をしていた。
その目の形が、似ていた。
彼と、似ていたのだ――――。
◇◆◇◆◇◆
人の噂も七十五日という。
裏を返せばそれだけの期間を堪え忍べ、と言うことだ。
騎士団内に居づらすぎて、ルチカとヴィルバートはカドニールで唯々諾々とマキの下僕として働いていた。
主に、宿の清掃と騎士たちの汗臭い服の洗濯だ。
からっと晴れた午前の清涼な日差しを浴びて、ルチカとヴィルバートはひたすら洗濯干しに勤しんでいた。
マキの指示通り、一枚一枚丁寧に、服を叩いてシワを伸ばす。
「不思議ですね。マキさんのシャツからは爽やかな香りがします」
洗い立ての服でも、他のものは未だ男臭さがわずかに残っている。
安物の洗剤を、さらに薄めて使用したのに、おかしい。
「人間じゃないんだろう」
どうでもよさそうに相槌を打つヴィルバートが、新たに一つ、藤で出来た洗濯籠を運んできた。
にわかに増量した洗濯物を、ルチカはすぅっと目を細めて見据えた。
彼らはいつから溜め込んでいたのか。
ひっきりなしに、洗濯籠がルチカの足元に並び続ける。
(一人一人ぶっ飛ばして意識改革をせねば)
妙なやる気とともに、ルチカは洗濯物を次々捌き、干していく。
宿の庭は膨大な衣類で埋め尽くされ、それらが風ではためくと、荘厳ささえ与える光景だ。
額の汗を腕で拭い、空の籠を抱えたときに初めて、窓辺からマキがながめていたことに気がついた。
彼は片方の肘をつき、まるで一枚の絵画のように佇んでいる。
「いつからいましたか?」
「自分が人間じゃなかったと知った辺りかな」
マキがちらりと目を遣ったヴィルバートは、三つ積み重ねた籠を抱え上げ、黙々と作業に従事していた。
散々揶揄されたせいで、頑なにマキから距離を取っているのだ。
「寂しいなぁ、ヴィル。十年来の親友だろう?」
「親友なら相手の話しにきちんと耳を貸せ。噂を鵜呑みにして――」
「え?嘘だから、からかえるんであって、実際に何かあったらさすがに俺でも口出しできないよ」
(よっぽどたちが悪い!)
ヴィルバートは籠を取り落として、目を剥いている。
籠が跳ねて転がり、彼の足元にぶつかって動きを止めた。
そんな彼の様子にマキは愉快そうに笑い、次は標的をルチカへと移行させた。
「君、誘拐犯の男に唇奪われたって、本当?」
「違いますよ!どこからそんな情報を仕入れてくるんですか。ぎりぎり唇には触れてません」
ルチカは籠を一端地面へと返し、唇の端を指差してマキに示した。
「あ。そこは本当なんだ。元野良猫さんは、とんだ浮気猫だなぁ」
「浮気猫……」
「嫌?それなら、尻軽猫だ」
「しっ……!?」
にっこりとすれば、何を言っても許されると思っているのだろうか。
ルチカを絶句させられるのは、世界中探してもマキくらいなものだ。
ヴィルバートが無言で籠を携え宿の中へと戻ってしまい、マキがそれを目で追ってにやにやとしている。
「あのヴィルがねぇ……?」
言葉の暴力に放心していたルチカを、マキが手招きして呼びつけた。
嫌な予感しかないが、ルチカは大人しく従った。ここではマキが法なのだ。
内緒話をするように、マキがルチカの耳元に唇を寄せ、囁いた。
「新しい首輪、似合ってるよ」
ルチカの髪に結ばれたリボンを、ちょん、と悪戯するようにつつく。
(ずるい。まただ)
人の負の感情を、波のように浚っていく。
それでいて、マキ自身はいつも明るく、楽しそうにしている。
彼は言うならば、おおらかな海だ。そこにはたんさんの魚が平穏に泳いでいる。
海に泳がされているのことに、魚たちはもちろん気がつかない。
マキの手のひらの上で踊らされていても、それを自分の意思だと錯覚してしまう。
それでも憎めないのが、マキのずるいところだ。
俯いたルチカの頭を撫でる彼の手が急に、小刻みに揺れて始めた。
視線を上げると、窓枠に額をつけて、笑いを押し殺すマキの姿がそこにあった。
「何かありましたか?」
「君に、……来客」
「そういうことは早く言ってください。報告、連絡、相談は組織を円滑に維持するための必須事項ですよ」
ルチカは手っ取り早く、窓枠に両手をつくと腹で乗り上げた。
そのままずるずると室内に侵入していき、床にぼとりと落ちた瞬間、マキの笑い声が最高潮に弾けた。
「マリアそっくり!」
ルチカは自尊心をズタズタに傷つけられ、しばらくその場で蹲っていた。
◇
マキに指定された部屋には、不穏な空気が充満していた。
窓枠に軽く背を預けていたのは、アストだ。
彼の来訪を心待にしていたルチカだが、喜びを露に出来る雰囲気ではないと察し、言った。
「何であなたまでいるんですか」
ソファに掛けて、アストと見据え合っているのは、ルチカの飼い主、ヴィルバートだった。
「俺は女神と、二人きりがよかったんだが」
肩を竦めたアストに、ヴィルバートが淡々と告げる。
「監視が必要と判断した」
「監視なのに一番態度か大きくありませんか?マキさんに苛められた反動ですか」
ヴィルバートの右隣に浅く腰掛けたルチカは、例の如くはたかれた。
「おまえら、出来てるって――――」
「嘘です!」
「嘘だ!」
どこまで噂が広がっていくのか。
収集不可能な場所まで来ている気がする。
「……まぁ、いいか」
アストがつぶやき、窓辺からソファへと回ってきた。
ヴィルバートが冷やかな態度を崩さないまま、彼を警戒している。
そのアストはルチカの正面に悠々と掛けて、切り出した。
「女神の師匠、少し前までは貧困街にいたようだぜ。チビたちに、仕事が終わったらまた来ると言い残して消えたって話だ」
(仕事……。教会からの定期連絡に、仕事の話なんてなかったのに)
ルチカは眉を潜めて、頭の中を整理し始めた。
師匠が仕事というのならば、仕事なのだろう。
それならなぜ、ルチカを遠ざける必要があったのか。
普段から、師匠の仕事の助手をしているルチカを、関わらせない理由――――。
仕事の邪魔だから置いていかれたとは考えにくい。
となると、答えは一つ。
ルチカを守るために、置いて行ったのだ。
(師匠……)
師匠の愛情に、ルチカはどう応えればいいのか。
何を講じれば、助けになるのか。
「猫?」
「女神?」
同時に声を掛けられたが、思案にどっぷり浸かっているルチカには届かない。
ヴィルバートは、アストを冷やかに見据えた
「その女神っていうのはまさか、この猫のことか?」
「女神だろう?女神のお陰で、普通の仕事にもありつけた。仲間たちもだ。皆、感謝してるからな」
ヴィルバートが煙たそうに顔をしかめる。
色彩師嫌いの色酔い持ちには、受け入れ難いものがあるのだ。
「そっちこそ何だ?猫って。確かに猫みたいな雰囲気はあるが……。手錠に猫……。女神をどんな嗜好につき合わせてる?」
アストが不審者でも見るような眼差しをヴィルバートへと突き刺した。
「手錠は俺の物ではない!」
マキの私物だ。
公的な備品ですらない。
「おまえこそ、猫に手を出そうとしただろう」
「女神は怒らなかったがな」
「これは俺の飼い猫だ。飼い主の許可なく勝手に触るな」
アストは野性的な黒い笑みを浮かべると、ヴィルバートを見下ろすように顎をやや上げて言った。
「騎士さん。牽制する相手が違うぜ?女神が求めているのは師匠だ。――――なぁ?」
「そうですね」
彼らの会話のほとんど、耳に入っていなかったが、師匠という単語だけは聞き取れた。
師匠がルチカの見聞を広げ、世界の善い面も悪い面も肌で感じれるようにと、旅に同行させている。
これまでに身の危険は幾度もあったのだ。
夜盗に襲われ殺されかけたことも、義賊と間違われ貴族たちに国を追われたこともあった。
それらを師匠は、類い稀な美貌と博愛精神で全て乗り切ってきたというのに。
(今回はその方法が使えないとわかっていた……?)
ルチカの身ではなく、心を慮り遠ざけた――――?
「――――あの男が、いるの……?」
このリュオール国に。
それならば説明がつく。会わせたくなかったのだ。
(いや、違う。師匠のことだ。もっと先を読んでいる。わたしがフルーヴェルでどう動くかも、その結果も)
ルチカは茫然としながら、ヴィルバートに顔を向けた。
なぜかさっきよりも不機嫌さが増している。
師匠があの男の、セオルスの寵作を知らないはずがない。
師匠が昔会ったという色酔いをする人間とは、ヴィルバートのことではないのか。
(この人の性質を知っていたなら?)
色酔いの彼は当然フルーヴェルの捜索に携わる。
ルチカと彼を同時に、あの男から引き離したのだとすれば――――。
彼にはこのことを知らせない方がいいだろう。
これ以上、セオルスのことでヴィルバートを傷つけたくない。
ならば、とルチカは心を決めた。
(師匠に会ったら、今度こそぶっ飛ばしてやる)
ルチカはもう、守られてばかりの弱い子供ではないと見せつける。
――――守る側に、なるのだ。
訝しげ睨むヴィルバートの右手に、ルチカはそっと手錠を掛けたのだった。
マキさんはちょくちょくヴィルさんの部屋に訪れるので、マリアのことをよく知っています。




