きゅう
展示品室は、野良猫一匹いなかった。
騎士団の活動記録など、騎士たちは嫌というほど叩き込まれているのだろう。
ならばなぜ、外部に施設を造らなかったのかと思わなくもないが、外にあったところで猫どころか、閑古鳥が鳴いていたはずだ。
文字にやや不安が残るルチカだが、絵や図での解説がある部分を重点的にながめ歩いた。
リュオール国の騎士団はアルフレッドが王座についていた時代に創設されたはずなのだが、その辺りは当然のごとくうやむやにされていた。
参考になる文献がなく、ルチカは失望のため息をついた。
(アルフレッド王を討ったのは国民……。だったら騎士たちは何を?)
ルチカが知りたいと切実に願うのは、嘘偽りのない真実のみ。
それを追い求めて、こんなに遠くまで来た。
なのに、歴史はいつも、時代の強者たちによって捻じ曲げられては、書き換えられる。
色彩師のこともそうだ。
(仮説はある。あとはそれを立証出来るだけの資料があるといいんだけどね)
誰でも閲覧可能な展示品室には、目ぼしいものはないようだ。
(仕方ないか。もとより、期待もしてなかったし)
ルチカは窓を背に設えられた長椅子に腰掛け、伸びをした。
普段髪を隠して生きてきたので、どうしても猫背になりがちだ。
背骨がぱきっと、小気味良い音で鳴った。
カーテンがはためき、午後のよい日差しとそよ風を直接肌に感じ、まぶたを伏せてしばし微睡む。
銀白桃の髪が嬉しげに、柔らかい光を放った。
ここは居心地がいい。
ルチカに対して、善くも悪くも何も求めない。
不法滞在については、カドニールの事件や女神の復活祭の準備のおかげで、後回しにされている。
女神の復活祭まで、この王都に居られるだろうか。
復活祭自体には惹かれないルチカだが、期間中カドニール大通りに並ぶ露店には、胃袋辺りの好奇心がそそられている。
(それも師匠次第か……)
窓枠に頭を預けて、そっと微笑む。
師匠がいなければ、ルチカはまだ、ガラス張りの檻の中、世界でただ一人きりだった。
それを哀しいことだとも知らず、何も知らず、無知なまま……。
(ああ、そうか……。ここの展示品と一緒か)
「『でもわたしは、埃を被る暇なんか、なかったな……』」
「――――何が、ないって?」
思いがけずに返答され、ぱっと目を開き振り返ると、窓の外でヴィルバートが無愛想な顔でルチカを見下ろしていた。
「わたし今、独り言しゃべってましたか?」
「しゃべってたな。南の方の言葉で」
「南の……?」
まさか、とルチカはたじろいだ。咄嗟にあちこちの言葉が出てくるのはもう割りきっているが、南の言葉は極力出ないようにしていた。
だからこそ、驚いた。
「わたし、と、ない、だけは何となく訳した。――――ガザとか、リタの言葉だったが」
心臓が嫌な脈の打ち方をした。
責められているわけではないのに、ルチカは言い訳がましく言い募る。
「ガザですよ。ガザには行ったことがあるから。たぶんそのときに少しだけ覚えた言葉じゃないですか。主語とか、打ち消しとかは日常会話に必要不可欠だから」
さりげなく目を逸らしたルチカに、ヴィルバートはそれ以上追及はせず、代わりに小言を並べ始めた。
「そうか、放浪猫。大人しく待ってたのはいいが、こんなところで寝るな。寝床があるだろう。客間だから不自由はないはずだ。野良期間が長すぎたせいで、どこででも寝られるのか?それとも餌を人任せにしたからか拗ねてるのか?」
人のことを言えないルチカだが、如何せん小言が長い。それが彼の心遣いからくるものなので、尚更文句は言えなかった。
「確かに優しい騎士さんに奢ってもらいましたよ。今日のお昼は魚でした」
全神経が瞬く間に食へと舵を切った。
川魚だったので、臭みが残っているかと思いきや、あっさりとした味わいで、ほくほくの焼き魚だった。
食堂で使用されている香草はシュトレーが育てたものらしく、まろやかな風味でどんな食材とも相性抜群だ。
夜は何だろうか、と真剣に悩み始めたルチカを、ヴィルバートが強めにはたく。
「餌がもらえれば誰でもいいのか、浮気猫」
「浮気って……。飼い主面されても、簡単にすり寄りませんよ。そんなことより、早かったですね。マキさんに追い返されましたか?」
マキの名を出すと、ヴィルバートが一気に二、三歳老け込み、疲労感をにじませた。
それをルチカに隠そうとはせず、窓枠に肘をついた。
不機嫌以外の顔は、不意打ちでやってくる。
なぜかその漆黒の髪を撫で回したくなるという衝動に襲われたルチカは、手を宙でうろうろと彷徨わせた。
「……遊んでるのか?」
手を上下するルチカを、怪訝そうに見遣るヴィルバートが、的外れなことを言ったので、手は膝の上へと舞い戻った。
「帰ってきたのは猫が脱走してないかの確認と、団長への報告のためだ。」
「報告?進展があったんですか?まさか、ミアさんが……?」
「彼女は無事だ。……進展もない。ただの定時報告」
被害者が増えなくてよかったと素直に告げれば、ルチカが騎士団を舐めていると受け取るだろう。なので。
「ご苦労様です」
「それは目上の人間が使う台詞だ」
策を弄した結果、虚しくはたかれる運びとなった。
「それなら、お帰りなさい。待ってました」
「…………ただいま」
多少の疑念は払拭されずに残っているものの、ヴィルバートは拗ねた子供のような返事をぼそりとした。
言い慣れていないのか、きまりが悪そうに訓練場がある方角へと顔を逸らす。
(たまに可愛いよね、この人)
ルチカはほころぶ顔で忘れる前にと、ハンカチで包んだ姫りんごの実を取り出した。
長椅子に膝をついて、窓枠に置いた手を支点に身を乗り出すと、ちょうど目線の高さが同じになった。
いつもは見下ろされるので新鮮だ。
りんごを喜ぶかと想像し、ルチカがにこりとすると、ヴィルバートが虚を突かれたように、紫の石英色の瞳を見開いた。
失礼な反応だが、ルチカは堪えてそれ差し出した。
「これあげますよ。おやつとか、夜食にでもしてください」
ハンカチごとりんごを彼のてに押しつけた。
返品は不可だ。
「あの人は……」
ヴィルバートが中庭にいるだろうシュトレーに、余計なことを、とつぶやいた。
親しみの混じる言い方だと、本人は気がついていない。
「貰い物ですけど、他にあげられるものはマキさんの部屋からくすねたあめ玉しかないし」
あめ玉は非常食として常に持ち歩いているが、ここにいる限り飢えて行き倒れることはない。
なので、欲しいと言うなら譲ってもいい。
「それはいらない」
見事な一刀両断だった。
「変な薬とか入ってたら恐い」
前に何かあったのか。
ヴィルバートらしくもない、弱気な口調に現実味が増した。
(非常食から劇薬に格上げしよう)
用途の幅が広がった。
とはいえ、ただの市販のあめ玉である可能性も捨てきれないが。
「戻るか?」
「戻りますか」
ルチカが窓枠に足をかけるのを見越してか、ヴィルバートが一歩端へとずれた。
ルチカはヴィルバート曰く不恰好に飛び降り地着地を決めた。
♢
手錠で繋がれていたときの名残か、二人並んで歩くとルチカは決まって右側につく。
その手錠は左手でぷらぷら揺れていて、時折ヴィルバートの足へと当たっては、物言いたげに視線を寄越してきた。
「今日はもうカドニールには行かないんですよね?」
「今日はな」
「夕食まで時間があるし、学院の方を見学したいところですね」
「却下」
一瞬の迷いもない、鮮やかな即答だった。
横顔でも不機嫌そうに眉間が寄っているのがわかる。
真摯に学ぶ若者たちの学院に、ルチカのような身元不明の怪しい旅人が、面白半分に出入りすることが気に入らないのだろう。
「体験入学とか――」
「ない。あっても書類選考で弾かれる」
「野良猫なら勝手に――」
「迷い猫は捕獲後、速やかに飼い主に返却される。それはマキの首輪だから、あいつに引き渡されるだろうな」
ルチカが嫌がるのをわかっていて、マキの猫にしようとする。言うことを聞かないときは、大抵その手を使う。
普段はヴィルバートの猫扱いだというのにだ。
「マキさんはしばらく帰って来ないから平気ですよ。それに暇潰しとかふざけた理由でなはなくて、同世代の子たちの学生生活に興味があります。学校に、行ったことなかったし」
ふっと足を止め、ヴィルバートがルチカを見遣った。
情け心が透かし見える表情と、わずかに疑心の孕む目。
ここは同情を煽る作戦だ。彼は何だかんだ言いながら、可哀想な野良猫の面倒を見てしまう性格。
ルチカは憐れっぽく、親指と人差し指でごくわずかな隙間を作って見せた。
「ちょっとでいいから」
「……言っておくが、将来騎士団に所属する学生の学院であって、一般のものとは違うからな?」
念を押すヴィルバートは、どうにかルチカが諦めさせようと渋面で諭すように言い聞かせる。
なかなか靡かないが、簡単に引くようなルチカではないので、妥協点を探っていく。
「訓練をそっと陰からうかがうだけでも?」
「訓練なら学院じゃなくてもいいだろう。こっちで自由に行動してるときに見学すればいい」
ヴィルバートは訓練施設のある方角にルチカの顔を捻らせた。
頭を鷲掴む彼の手は、頑なな態度を伝えてくる。
触発されてルチカは早々に策を放棄し、素へと戻った。
頭はそのまま口を開く。
「行かせたくない理由があるんですね?あれですか。勤勉な学生たちを邪魔すると思ってますね。猫のごとく忍び足で鳴き声一つあげませんよ。人間ですから。それとも希色が問題ですか?だったら帽子を被ります」
マキがくれた帽子は使い勝手がよく、今では白い外套よりも使用頻度が高く、愛用していると言っても過言ではない。
「……俺の側から絶対に離れないな?」
気乗りしない苦い顔で、ヴィルバートがとうとう折れた。
「離れません。心配なら手錠します?」
ルチカが左腕を掲げると、ぶらんと鎖が揺れた。
「しない」
ふいっと顔を背けヴィルバートは官舎へと歩き出した。
♢
待っててくださいね、と告げ、ルチカは部屋で帽子を被り、髪を余すとこなく詰め込んだ。後毛一本、逃しはしない。
鏡で前後左右の確認して、官舎前で彼と落ち合った。
ヴィルバートは玄関口の壁に凭れて待っていたが、頭にはルチカと同じ帽子が被られていた。
彼はルチカに気づくと壁から離れて、左側に並んだ。
(そうか……。学生に怯えられるから?)
先日の件が、魚の小骨のように引っ掛かっているのだろうか。
だから学院行きをあれほど嫌がったのだ。
ルチカは我が儘に付き合わせて申し訳なかったと、自らの浅慮さを恥じた。
「わざわざついてきてくれなくても、一人で行って来れますよ?」
ルチカが彼の帽子を済まなそうに凝視していると、ヴィルバートはかすかに苦笑した。
「それはだめだ。猫のくせに余計なことを気にするな。これは念のために被ってるだけだ。−−−−盛大な告白されなくても、見た目で避ける人間なんて相手にしてないからな?」
急にそれを持ち出され、ルチカは庇を引っ張り顔を隠した。
(意地悪め)
真っ赤になりながら、恨みがましく見つめたヴィルバートの片手が上がってるので、甲で口元でも押さえているのだろう。
「あれはですね。口が勝手に言ったことで。師匠が昔言ってくれたことを真似たというか。仲間意識というか」
しどろもどろで告げたルチカに、ヴィルバートが妙に低い声で、「……ふぅん」と言った。
それから鎖を手に取るとルチカを強めに引いた。左手が持っていかれ、彼の歩幅に合わせてついて行く。
いつものように、ゆっくりと歩いてはくれない。
「猫の散歩は猫の速さに合わせてくださいよ」
基本的に不機嫌な彼なので、深く考えずにいつもの口調でルチカは不満をもらした。
「聞いてますか?無視ですか」
一瞥もないまま学院まであっという間に到着し、ルチカは息切れで膝に両手をついた。
ぜいぜいと呼吸を整え、ヴィルバートを見遣る。
「申請して来るから、ここで待ってろ」
厳しく言い捨て、どこからが学院の敷地なのかわからない石造りの校舎の前で、ルチカは置いていかれた。
周囲をぐるりと見渡して、校舎の片隅にある花壇に目をつけた。周囲がレンガで仕切られている。少々高さが低めだが、腰掛けとして利用出来なくはなかった。
ルチカはそこに腰を下ろして、一息つく。
食堂からながめる景色によく似た、黄土の運動場が視線の先に広がっている。
本部のものより狭いその内側を、年若い学生たちが汗を流して周回していた。
ふと、その内の一人がルチカに気づき、他の生徒たちに何かを告げると、彼らは急速に速度を緩めて足を止めた。
ルチカを指差し、首を傾げながら話し合う。
最後はこちらへと駆け寄って来た。
「迷いましたか?」
ルチカと同じくらいの年頃の青年たちに囲まれ、迷子扱いされたルチカは座ったまま首を横に振った。
「見学です」
そう告げると彼らは不思議そうに顔を見合わせた。
正規の見学の時間は、午前中なのかもしれない。
「君って保護されてる希色の子でしょ?学院に興味あるなら、案内しようか?」
親切にも彼らは爽やかな笑顔でそう提案してきた。
額ににじむ汗を、首にかけたタオルで拭いながら、ルチカの返事を待っている。
(不法滞在は伝わってないのかな)
保護対象ではなく監視対象なのだが、あえて訂正しなくてもいいだろう。
「でも、申請を先にしないといけないですよね?」
校舎の入り口を振り返っても、ヴィルバートが戻って来る気配はない。
「申請?生真面目な人しかしないよな、そんなの」
「本部を自由に歩いてるのに、学院側に申請っているの?」
「見学ぐらい、勝手にしちゃえばよかったのに」
彼らは口々にそう言った。
「勝手に出入りしていいんですか?」
「いいんじゃない?」
一人が首を傾げ、あっさりと承諾をした。
他の青年たちも依存ないらしく、首肯している。
(あの攻防は一体……)
やはり、ルチカが学生たちに悪影響を与えるからという理由しかない。
「おいでよ。今から剣術の稽古だから、ちょっと参加してきなよ」
「学院、緩いですね」
軽い体験入学の誘いに、堅苦しさは皆無だ。
ヴィルバートが真面目すぎる、という結論にルチカは既決した。
「何が?」と彼らは首を傾げながら、ルチカの手を取った。なぜか両手だ。
右と左から一人ずつ、ルチカは手を繋がれる。
少々面食らいながら、立ち上がった。
促されるままに、手を引かれて歩き出す。
「あーやっぱいい!女の子の手!ちっちゃくてすべすべで」
右の青年がルチカの手の甲を撫でて切実に言い切った。
それがあまりにも明け透けすぎて、怒るに怒れない。
「ずっと話してみたかったんだよな。やたらと警護がきつかったし。学院に女の子を誘致しろー」
左の青年も同調し、仲間たちが笑いながら肩を叩いたりしている。
「…………」
ルチカの知る騎士たちとの誤差に戸惑う。
(残念なロランツさんがいっぱい……ってこと?)
たくさんのロランツを想像し、ルチカは何とも言えない渋い表情となった。
外部からの見学者は申請が必要です。
ルチカは内部認識されてます。




