家出 5
薄暗い中、目が覚めた。遠くで時計が鳴っている、時を打つ音は六つ、体内時計は正確だ。いつも通りの時間。
リラはベッドの中で一つ背伸びをすると起き上がった。食堂の上の部屋だからだろうか、部屋はいつもより暖かい。服を着て、部屋を出る。共有部分の洗面所でさっと身支度を整え、ふわふわの髪に櫛を通して一つにまとめる。それだけでは落ち着かないのでいつも通りに幅広の布で仕立てたヘアバンドを巻き付ける。そしてそういえばとガレンの部屋の前で耳を澄ます。微かに聞こえる鼾の音…そう、彼は結構酷い音を立てて眠るのだ。
昨日、慌てて仕事を片付けた上に街まで自転車を漕いだのだ、普段から力仕事に慣れているとはいえ、また別種の疲れもあろう…リラは起こさずに済む言い訳をたっぷりと考えてから階下におりた。
昨日のご飯とスープが残っている。両方とも冷え切っていたので、スープを温め、ご飯にかけて食べてしまう。ゆで卵もいただく。朝食としては十分だろう。
一度部屋に戻ると、机の上の黒板に伝言を残す。待ち合わせは三時頃に自転車を預けた倉庫でいいだろう。部屋の鍵を閉め、その鍵をガレンの部屋のドアの下から滑り込ませる。これで気付くだろう。
リラは二人分のお金を料金箱に入れて宿を出た。ガレンも払ったとしても別に問題はない金額だ。リラは不思議とワクワクする気持ちで仄明るくなってきた街を眺める。仕事に向かうのであろう人たちが道を行き交い、治安の悪い感じではない。そういえば、試用期間や働き始めで家を借りられない人たちへも部屋を貸していると聞いた。良いことだと思う。
昨日見たポスターを思い返して、道を辿る。試験会場の中に入ることはできないだろうが、さっとでも眺めておきたい気持ちは変わらなかった。弟はもう家には戻らないつもりだということは身に沁みつつも、それでも本当なのかと確認したかった。自分が当主を継ぐことは問題ではない、弟イーサンの家を出た理由を聞きたかった。それがどんな答えであっても。
小一時間も歩いただろうか、歩き慣れない石畳の道に辟易としてきた頃、黎明地区の入り口にある試験会場にたどり着く。塀に囲われたマンションのような建物で、入り口に門番が立っている。手に棒のようなものを持っているが、恐ろし気な感じではない。
リラはさりげなく話しかけた。
「おはようございます、ここが役所の試験会場ですか?」
門番は若い女性だった。リラよりも年下だ、彼女も役人なのだろうか?
「そうですよ、試験を受けにいらしたのですか?」
「いいえ、知人…が受けにきているらしくて」
リラの希望を察したのだろう、門番は控えめに微笑んで言った。
「ご存じでしょうが、受験希望者しか入れませんし、取次もできないんです」
「ええ、ただ…」
リラは言いよどんだ。本当に自分はそれを望んでいるのか自信がなかったが、それでも。
「幸運を祈りたくて」
「時折いらっしゃいますよ、あなたのような方が」
それは受験者を探しに来る人なのか、それとも幸運を祈りに来る人のことなのか。
「受験されている方のお名前とあなたのお名前をお伺いできますか?幸運の祈りなら届くこともあるかもしれません」
リラは首を振った。
「ただ、イーサン・シンガの幸運を」
「ええ、私も祈ります。あなたにも幸運の風が吹きますように」
門番の女性は心得たように頷いて、リラを促した。リラは背を向けて歩き出す。門番の彼女がイーサンに会えば、すぐにリラは彼の血縁であるとわかるだろう。同じような褐色の肌は少なくないが、同じように日に焼けて黒くなっている者はそうはいまい。それでも彼女はそれを告げないような気がしたのだが、どうだか。伝えてほしいのか、伝えてほしくないのか、リラにはわからなかった。
とりあえずの目的は果たしたので、リラは街の中心部へ足を向ける。都市の賑わいの中心、広場までは三十分ほど、店も徐々に開き、合わせて行き交う人も増えて、打って変わって楽しい散歩になる。そういえば母が最近、バターを贅沢に使った菓子を売る店ができたと言っていた。もし見つかれば、そして手持ちのお金で足りるならば土産に良いかもしれない。
この都市で乳製品は高級品だ。一部のものは妊娠、出産から子供が五歳になるまで割引、優先で購入することができるが、それだって希望者全員が購入できるわけではない。なので母乳の出ない母親は乳母を探すし、そのまま乳母に預け子として引き取られる子供も少なくない。とりわけ跡取りが必要な家では二番目、三番目以降になると珍しくない。最近はちらほらと赤子用の粉乳が開発された話も聞くので、また変わるかもしれないが。
目的の店はすぐに見つかる。今までも何度か足を運んだことがある、外との貿易を許されている五つの家の一つ、ウィル商店だ。日用品を主に取り扱うこの店は、布や糸だけでなく、外の農業のあれこれも売られている。三年前だろうか、外の種もみがほしいと言ってみたら、半年後には仕入れてくれた。商売もうまいのか、売り先もリラだけではないらしく、それ以降も継続的に扱ってくれるようになった。
「外の種を入れる、というのは良いアイディアだと思うのよね」
そう言ったのはメリダ夫人だ。黒髪に黒い瞳に整った顔立ちで見るからに王家の血筋だが、詳しくは聞いていない。ただ、そのおしゃべりは心地よく、ついつい仕事にまつわるアイディアを話しては商売のネタを提供してしまうことすらある。それでも、最近外で開発されたという道具も仕入れてくれたり有難い店である。
ウィンドウに飾られた羊の毛皮を目印に、黄色いドアを押す。メリダ夫人が居るかと思えば、中にいたのはリラよりも少し若いくらいの女性だった。
「いらっしゃいませ」
金茶の髪に薄い茶色の、良く実った稲穂の色の瞳をした女性は微笑んだ。半年前はやる気のない番頭を叱りつけてメリダ夫人が出てきたものだが、新しい番頭だろうか。
「何かお探しですか?」
「種もみを…米の」
女性は少し考え込み、それから手を打って頷いて見せた。
「在庫が三種類か四種類あったと思います、今持ってまいりますので、おかけになってお待ちいただけますか?」
「よろしくお願いします」
リラは商談用のテーブルを見遣る。そこには初めて見る見事な花の刺繍のテーブルセンターが敷かれていた。青い花に赤い花、リラは田んぼや畑のあぜ道に自生する草花を愛してやまないが、そこに描かれているのは見たこともない豪華な花が競うように咲き誇っている。これらは実在する花なのだろうか、とつい指でなぞる。
「お気に召しましたか、その刺繍」
種もみの見本を抱えた女性がにこやかに戻ってきた。
「あなたが?」
「いえいえ、姉が」女性はとんでもないと首を振った。「翡翠の作品です」
なるほどとリラは頷く。芸術品に関心のないリラでも聞いたことのある刺繍の翡翠、その作品か。さすが五商家の一つ、と納得しかけ、ふと姉という言葉に引っかかる。
「あなたも翡翠の?」
「見習いをしていたのですが」
女性は苦笑いを浮かべる。常に笑っているが、その中に様々な表情を見せる女性だった。それ以上聞いてもいいのかと迷ったところで、ウィル商店のドアが開いた。来客だ。
「いらっしゃいませ…あ」
「アキ、でいい」
そう答えた客は男性、声に聞き覚えがある気がして振り返れば、長い真っ直ぐの茶色の髪を一つに束ねた綺麗な顔の青年だった。昨日、仕事宿場の掲示板で出会った彼だ。
「コリンはいる?」
「カオ商店に出かけています、半刻ほどで戻ると思いますが」
「敬語じゃなくていいよ、ベル」
「いえいえいえ…」
「もうすぐ親戚になるんじゃないか、ねぇ…?」
いたずらっぽく微笑む彼が、ふとリラに気づく。
「あれ?」
リラは微笑む。また会えるとは思わなかった。
「こんにちは」
「こんにちは、仕事決まったんだ?」
「あれ、お知り合いですか?」
「いや、昨日仕事宿場ですれ違って」
もしかして、とリラは思う。昨日、彼と一緒にいた青年がコリンで、その青年の運命の恋人が彼女だろうか。
だが、さすがに盗み聞いていたとは白状できずに、リラは応える。
「すみません、実は仕事探しじゃなくて、別件であそこにいたんです」
「そうですよ、今日は私のお客様なんです、邪魔しないでください。コリンももうすぐ帰ってきますよ」
「買い物は何?」
青年は女性の言葉を丸っと無視して、商談テーブルに身を乗り出して品物を確かめる。
「種もみ?農家なの?」
青年が、リラをしげしげと見つめる。眉毛と睫は茶色ではなく、もっと黒に近い色なんだな、とリラも見返しながら観察する。瞳の色は黒に近く見えるが…。
種もみに視線を戻した青年は、一つ、見るからに小さい種もみを指さす。都市標準の物よりも小粒だがふっくらとして見える。雑物も多く、一部の農家で作っている短粒種の野生のもののようだ。
「これにしなよ、この都市の中なら意外な成果が出るかもしれない」
それはリラも考えていたことだった。厳しい外の環境で小粒ながらも実をつけた、ともいえるこの米は、都市の中ならばどのような実りを見せるのか、興味深いところだ。
「いいだろう?」
同意しつつ、なぜ彼に確認を取られているのかと軽く混乱しつつ、リラは青年に言われるがままにお金を支払う。女性はもはや青年に打つ手なしといった面持ちで種もみの包みを整える。
「さて」
荷物を抱えたリラを見て、青年は満足げに微笑んだ。
「僕につきあってよ、ねぇ、リラ・シンガ」
「え?」
何故名前を知っているのか?口をぽかんと開けたまま、リラは青年に手を引かれて店を出た。後ろで女性も差し伸べかけた手を宙に浮かべ呆然としているのが見えた。
どういうことなの、とりあえずリラは種もみだけは落とさぬよう、改めて抱えなおしたのだった。