家出 4
役所の求人というのはざっとこの通りだ。
志のある十五歳以上の男女、何かしらの専門があることが望ましいが、将来性を見込む場合、また事務作業等において適正のある場合は採用の可能性がある。
採用を希望する者は、試験会場に連泊の上、早いもので三日、長いもので二週間から三週間かけて選考する。その間、外部とのやり取りは原則禁止である。
採用が決まった者には、黎明の湖のしかるべき場所に居を与え、役所の規則に従い生活すること。なお、家庭を持つ者、持った者においては居の変更及び補助を行うことがある。年間の休日は基本的に暦に従うが、繁忙期等やむを得ない場合は休日の変更を行い……
美味しいスープだった。
私室備え付けの机に向かいながら、リラは思い返す。椅子の上で胡坐をかき、机上の黒板に無意味な模様を走り書きしながら思い返す。
チキンベースで様々な野菜が刻まれて入っていて、温かかった。ご飯は冷えていたが甘味はあったし、一人一日一つと注意書きがあったがゆで卵もあった。土地に限りのあるこの都市では肉といえば鶏であったし、卵も重要な蛋白源である。人が生きていくのに必要な食事だ。
シンガの家も中規模の養鶏場を持っている。推奨されているとはいえ街では流石に飼うことができないので週二度、街からやってくる巡回便に乗せ、利を得ているのだ。米と冬季の野菜と麦が主な収入とはいえ、鶏卵で得られる収入は唯一の定期収入である。
もう少し増やしてもいいかもしれないな、とリラは考える。一日一つと言わず、成長期なら二つは食べてもらいたい食品だ。養鶏をしてる他の農家と協議の上、役所に持ち込むか。
役所、ね。
リラの思考は続く。イーサンが役所の求人に応募しているとは思ってもいなかったが、聞いた今となってはしっくりとくる。何か突然の変化ではと思ったが、むしろかなり昔から役所で働くことを考えていたのではないか。例えば米や麦は基本的に役所からの委託である。出来上がったものはすべて買い取られ、家族及び使用人の申告分だけが手元に残る。そこに少しでも余裕があれば、新しいことをする元手にもなるし、励みになるというのに、と不満を見せることもあった。今季リラは自分の田で新しい米を育てようと思っているが、役所としてはそれは限りなくグレーの行為だ。その辺は当主の交渉仕事のたぐいだとリラは思っていたが、そういう話に不満を持ちつつも、いつしかイーサンは役所そのものに興味を持つようになったのかもしれない。
身内に役人がいるのは悪いことではないけれど。
リラはチョークをくるくると回す。守秘義務もあるだろうし、直接的になにかあるわけではないだろうが、ゼロよりはいいだろう。農家の現状を良く把握している人間が中にいて悪いこともない。グレーの案件に目を瞑ってくれさえすれば…。
リラは考えることは嫌いではなかったが、順番を立てて思考していくのは苦手だった。結果漏れるのはこの一言。
「面倒くさい…」
その声を聴いたのだろうか、ドアを叩く音が三回。
「お嬢、起きてるか?」
ガレンだ。リラは立ち上がり、ドアを開ける。自分より少し高いガレンの顔、青い目を見つめる。
「入っていいか?」
面倒くさいな、と思いながらリラは身を引いた。断るのも面倒臭かった。どちらにしろ、明日の行動について話をしなくてはならない。どこに座るか迷うガレンにリラは机を示し、自分は机の横にあるベッドに腰掛ける。一人用の部屋なので応接セットもないし、椅子も一脚しかない。
「リラ、あのな」
机に肘をついて、ガレンは言う。次の言葉を待ちながら、そういえばガレンにはイーサンを探しに行くとしか言ってなかったな、と思う。一昨日イーサンが居なくなり、昨日一日かけてどうやって街へ来るかを考え、昨晩当主の許可を取り、午前に仕事を片付け、さぁ出かけよう、というところで軌道自転車を引っ張ったガレンが現れたのだ。イーサンを探しに行くんだろう?とだけ言われ、頷いた。そしてここまで来てしまった。
「イーサンに会うのは難しいと思うぞ」
「そう、もし試験会場に入っているのなら連絡は取れないだろうし、三日で合否が判断されるような専門性があるとも思えないし、試験は長引くだろうし…」
「合格してそのまま入所してしまえば、連絡の取りようがない。次会えるとすれば、不合格で試験会場を出た時か、本人が連絡してきた時か、だろう」
「不合格が出るタイミングが人による以上、待ち伏せをするわけにもいかないし、お手上げね」
「明日はどうするんだ?」
「とりあえず、試験会場を外からでも見学して、あとはウィル商店に種もみを買いに行くくらい。夕方には帰らないといけないけど、ガレンは自由行動でいいわ」
ガレンは難しい顔になる。リラを心配するというよりは何か不満げな顔だ。何となく理由がわかるのだが、リラは気付かないふりをする。
ガレンは話題を変えた。
「お嬢は、当主になる気があるのか?」
そっちから来ますか、とリラは目を逸らして即答を避けた。当主になるのは吝かではないが、今のところ当主になると目の前の男と結婚することになるだろう。嫌な男ではない、むしろ好きだ。成人したころからだろうか、イーサンほど力がないと言っては落ち込む自分を励まし、また勉強をしていれば頑張れと声をかけてくれる信頼できる兄貴分だ。リラが唯一付き合った男でもある、初めての口付けも熱い肌も知っている。それでもここ数年お互いに距離を置いていたので、ガレンにとってリラはそれ程重要ではないのかもと思っていた。
だが、逆だったかもしれない、リラは覚悟を決めて静かにガレンを見返した。
「イーサンが戻ってくれば、私は継がないわ」
それでも答えは曖昧なもの。だが気にすることなくガレンは軽く腰を浮かせてリラに手を伸ばした。
「どちらでもいい、俺を夫にする気はないか?」
ガレンの指がリラの頬に触れる。粗い指先と裏腹に優しい動きでリラを上向かせる。
座る位置を逆にすべきだったな、とリラは静かに思う。このままでは押し倒されてなし崩しだ。リラは目を閉じた。それは受け入れたのはなく、拒絶のため。苦い思いを口先に乗せる。
「私はあなたと結婚しない」
「当主になってもか」
「誰かが強要しない限り」
「他に誰か男がいるのか」
だれか?ふとリラの脳裏を、サラリと風に揺れる髪と細い指先がよぎるが、それが何か思い出せないまま、リラは頭を振った。
「そういうわけではないけれど。あなたとは終わったと」
残酷な女だろうか、と心配になってリラは目を開けてガレンの表情を確かめる。
「とりあえず、今日は明日のためにも休みたいのだけど。部屋に戻る気はない、ガレン?」
「リラ」
身を引きながら、ガレンは名を呼ぶ。
「リラ」
その響きは嫌いではない。だが、そこに籠る熱をリラが受け止める気がないだけだ。
理由があるわけではないが、彼は違うのだ。
「おやすみなさい、ガレン」
言い聞かせるように言いながら、ふと、イーサンの家出騒ぎに彼も加担しているのはという推測が頭を過ぎる。気にはなるが、この状況では藪蛇だろう。
「また明日、よろしく」
その言葉に諦めたのか、ガレンは立ち上がった。
「おやすみ、お嬢。ちゃんと鍵をかけろよ」
頷いて、その背を見送る。逞しい頼りがいのある背。リラは見送り、鍵をかけ、服を脱いだ。そしてベッドに潜り込む。馴染みのないベッドはひんやりと感じる。イーサンも慣れぬベッドに横になっているのだろうか。
そっと息をついて、リラは弟を思う。人付き合いのよい子だ、要領もよく、父親の期待によく応えていた。だから気付かなかったのだろうか、彼が遠くを見ていたことを。弟のことなら何でも知っていると思い込んでいて。
リラは目を閉じて一人ごちる。
「あなたに吹く風がどうか優しいものでありますように」