家出 3
「おーい、お嬢、ついたよ」
ガレンの声に目を開けると間近に青い瞳があってどきりとする。それでもぼんやりと、寝起きに彼の顔を見るのは久しぶりだなぁ、などと考える。彼はいつも日向の匂いがする、土や草や少し饐えた汗の匂い。肌はひんやりしているくせに視線ばかりが熱っぽい。その暑さはリラの中に染み込んで…消えてしまう。不思議と火は灯らない。
「リーラ?」
名を呼ばれてようやく我に返る。
「ガレン、ごめん、寝てたわ」
「見りゃ分かるよ、ほれ、求職所まで歩くよ」
自転車一式、預かり倉庫に入れて二人は並んで歩く。
この地区には二階建てのアパートが連なっている。一階部分は共有部分で二階が鍵付きの私室。悪くはないよ、とガレンはリラに説明をする。リラは父に付いて来たことはあったが求職所を訪れただけで不案内だ。ふと目を走らせれば親子だろうか、女性が入り口に腰掛け道で二人の子供を遊ばせている。着ているものは清潔で、子供たちは音楽もないのに楽しくて仕方がないと笑い声をあげながらふざけ踊っているのだった。
幸せそうな光景に一瞬目を奪われた後、リラはキュッと唇を引き結び前を向く。今はイーサンを見つけなくては。
求職所はそこから五分ほど歩いたところだった。ガレンがすぐに中に入らず扉の前の掲示板を指差す。
「目玉の求人票はここさ」
窓二つ分はあろうかという大きな掲示板には秩序立って大人の掌ほどの紙が貼られている。三分の二も埋まっているだろうか。
「割と景気は良さそうだ、イーサンも既に決めた可能性があるな…」
目を細めてガレンは求人票を眺める。その時、扉から二人の青年が出てきて、リラとガレンに並ぶ。求職者かと耳をそばだてる。
「その求人、取り下げるのか」
そう言ったのは長い茶髪を一つに結んだ青年だった。どうやら求人側らしい。柔らかく落ち着いた声だ。それに答えた青年は同じ茶色の髪だが短め、一枚の求人票を剥がして丸めてポケットに入れる。
「そ。彼女に任せられそうだしな。倉庫番の方は継続募集だなぁ、いつまでたっても親父一人って訳にも行かないし」
「本当に彼女様々なんだな……」
「運命の出会いだからな」
しれっと答えて青年は掲示板に背を向ける。長髪の青年は軽く肩を竦め、後を追うように振り返った。その拍子に、ふとリラと目が合う。黒い目につるりと人形のように整った顔立ちが目に入る。
あれ、と何かが記憶に掠めるが思い当たる節がない。曖昧に微笑む。青年は慣れた様子で話しかけてきた。
「仕事探し?いいのが見つかるといいね」
「ありがとう」
とりあえずそう返すと、青年は微笑んだ。
「あなたに吹く風が優しいものでありますように」
青年の口から出てくるのが意外なほど、古い言い回しだった。祖父が時折、リラの頭に手をのせてそう呟いてくれたものだが…。
驚いている間に青年は去ってしまい、慌ててリラは掲示板に向き直った。そしてはたと気づく、もしイーサンが仕事を見つけたなら、その求人は取り下げられてる可能性が高い。仕事探しから足取りを追うのはなかなか難しいかもしれない。
それでも他に手掛かりはないのだし、とガレンを見ると彼もリラを見ていた。そしてリラの考えてることを見通したように言った。
「ともあれ、中に入ろう」
慣れた様子で扉を開けたガレンと、緊張して扉をくぐったリラを迎えたのは朗らかな声だった。
「あら、ガレン、久しぶりね」
それはカウンターに座った婦人だった。元は金色だったと思われる髪は今は透明感のある白で笑みは上品、高級宿の受付にいてもおかしくない風情だ。年頃はリラの母と同じからいだろうか。
「ミネルバ、ご無沙汰です。覚えていてくださって光栄ですよ」
「私の特技ですからね」
得意げに婦人は答える。
「求職……という訳でもなさそうね、そちらはシンガ家のお嬢さんでしょう?」
「こんにちは、リラ・シンガです」
慌ててリラが挨拶をすると、ミネルバは口の端を持ち上げる。覚えられているとは思わなかった。
「実は人探し、なんだが……」
歯切れ悪くガレンが言う。わざとらしくミネルバは目を見開いて言う。
「誰がどんな仕事についたかは極秘事項ですよ!」
「……覚えてるくせに」
ガレンはぼやく。ミネルバの反応が分かっていたに違いない。だが、そんなガレンが新鮮でリラは思わず彼を見上げる。そして農場の外の世界で彼がどんな振る舞いをする人物なのか全然知らなかったことに気づく。
ガレンはカウンターに身を寄せて、ミネルバに囁くように問う。
「イエスかノーでいい。イーサン・シンガを探しているんだ、ここで彼は仕事を見つけたか教えてくれないか」
「イエスであり、ノーね」
微笑みを崩さず、ミネルバは応える。
「おい、ミネルバ……」
険しい顔になってガレンが詰め寄るが、さらりと身を交わすようにカウンターから降りてミネルバはガレンとリラの真ん前に立つ。座っていると小柄に思えたが、リラと同じだけの身長である。若い頃はすらりと背の高い美女だったのだろう。今だって美しいという形容詞に不足はない。
彼女はたっぷりと時間をかけてリラとガレンを眺めてから言った。
「今日はね、ちょっと良い日なのよ」
だから教えてあげる、とは言わなかった。代わりに求人票にしては大きいポスターをチラリと見る。
「もうすぐね、役所への入所試験よ」
ガレンとリラは顔を見合わせた。役所と言えば一箇所、ウインダリットの都役所である。最高の人材を求め定期的に入所試験を行っているウインダリットの最高機関。
「だって十五歳の男の子よ?」
想像もしていなかった展開にリラは思わず言葉をこぼす。都役所の試験は何某かに秀でた専門家が受けるものだと思っていた。例えば当主である父が引退後、入所する可能性の方が高く思えるくらいだ。
「前例はあるのよ、私も入所した時は十五歳だった」
そう言ったのはミネルバだった。微笑みが深い。
そうか、とリラは考え込む。仕事宿場全体が役所の事業である。そこで働くミネルバが役人であるのは当然と言えば当然であった。
「しかし、となると」
ガレンも腕組みをして考え込む。
ミネルバは一つ頷くとカウンターの中に戻っていった。今のは私人としての言葉なのだろう。軽やかに彼女は言った。
「お探しのものが見つかるまで、部屋がご入用かしら?」
窓の外を眺めれば、既に薄暗い。早春とはいえまだまだ夜は早い。そして仕事宿場は慣れない人間が暗くなってからうろつく街ではない……リラは頷いた。
「とりあえず、一晩、お願い致します」
どちらにしろ、外出の許可は今日明日の二日だけだ。
「隣り合う二部屋にしておくから。不慣れでしょうから隣の建物でいいわね。シーツや着替え、必要なものはそこのロッカーから必要分を持っていきなさい。夕飯が必要なら共有部分にスープとご飯があるはずよ」
ミネルバはそう言って鍵を二本差し出す。
「出るときに料金箱にお金、入れていってね」
「わかりました、ありがとうございます」
リラは鍵を受け取り一つをガレンに渡す。
「まいったな……」
ガレンのその呟きはそのまま、リラのものでもあった。