表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

家出 1

 初めて彼を見かけた時、まるで人形ようだと思った。美しく白い肌に目元は涼やかで、小さな口元は紅を掃いたかのように赤かった。艶やかな黒い髪は短いが陽に輝き、黒髪ながら彼を飾る王冠のようにさえ思えた。

 王家所有の優雅な、けれど所詮は小さな軌道自転車の客席から降り立った彼は、どこにその身を隠していたのかと驚くほどスラリとした長身で、まるで人間離れして見え、微笑みを私たちに向けた時はどよめきが起きたものだ。

 挨拶の際に交わした視線は暖かく、表情は穏やかで読めないながらも、そこに優しさはあると思えた。さらさらと風にそよぐ髪の毛に、何故今日に限って自分はふわふわの癖毛の際立つ一つ結びに髪を結ったのかとがっかりし、また少年らしい細さも残るその手にうっとりとした。

「彼女がシンガ家の跡を取るのですか?」

 それでも両親にそう尋ねた彼の声は既に大人のもので。だが、リラは続く父の言葉に耳を疑った。

「いえ、今年で五歳になる弟がおりまして、そちらに継がせようと思います」

 小さく息を飲んだのが聞こえたのだろう、彼は目を細めてリラをちらりと見た。そこに感情は見えなかった。ただ、彼は両親に向き直って言った。

「それは失礼を、私の手元の書類が古かったようだ。どうか更新のためにもご協力をお願いしたい」

 古いも何も、リラだって初耳だった。その時まで自分が跡を継ぐと思っていたのだ。

「勿論ですとも、そのための視察です。不自由がございましたらなんなりと…」


 彼との出会いは印象深いものだったと思う、だが、リラは箱に蓋をするように忘れた。彼はリラとは違う世界の人だったし、何よりその後、リラはちょっと忙しかった。

 両親が弟のイーサンを跡取りにするか、話し合っているのは知っていたし、農場で働く人たちがそう噂しているのは十二歳のリラの耳にも届いていた。それでも自分が跡を継ぐと思っていたのは、自分の婿候補であろう青年たちが彼女にいつも優しかったからだ。正式にリラが継いだとしても、何しろウィンダリットの穀物庫を取りまとめるシンガ家の婿だ、身一つの次男三男にとっては憧れの地位と言えるだろう。

 勿論、若干十二歳の少女にあからさまに言い寄る男は居なかったが(居たとしても速攻で両親に解雇されていただろう)、何かの意図をもって優しくしてくれるお兄さんたちがいて。十二歳、無邪気にその好意に甘えていたわけでもなく、何となく躱しつつ、自分のことを本当に思ってくれる人がいないかと夢想に耽るお年頃だった。

 年頃なりのイタさだが、振り返れば恥ずかしい。それをもって自分が跡を継ぐと安心していたのも気恥ずかしい。それまでだって、跡取りに相応しくあれるよう、農業の様々なことを学び、女の身で許される範囲の作業には取り組んできた。その前日には漕ぎ型耕運機の運転を教わったくらいだ。だが、足りなかったのか、と自問自答を繰り返すこととなった。

 ウィンダリットの穀物庫を預かる身となれば、田んぼの手入れから稲植え、雑草抜きから刈り取りまで全農家の音頭を取らねばならない。農家の集まりからリーダーを選び、音頭を取らせればよいようにも思われたが、不思議とシンガ家が号令をかければ豊作になるということになっており、それはもう、いかようにもならない決まり事だった。

 そして、その期待に応えるべく、学び、そして考えられる限りの試行錯誤を重ねてきたのがシンガなのだ。その成果はリラの中にも溜まりつつあり、まさかそれを男児であるという理由で、七つ下の弟に取られるとは思いもよらなかった。一体なぜ?

 自責に揺れる少女に、声をかけたのは母親だった。

「リラ、私もあなたが跡を取ると思っていたし、未だその可能性はあると思っています」

 シンガ家に嫁入りした女である母は、リラと違って白い肌に明るい茶色の目をしている。髪の毛は日に遊ぶ金色。どれだけ外の血が入っても、シンガ家の子供は黒い縮れた髪に茶色の肌、濃い茶色の目をして生まれてくるのだ。ふわふわと少しの風にも揺れるリラの髪を撫でつつ、母は続けた。

「でも、それはあなたがそう望むなら、よ」

 母の声は優しかった。

「シンガ家の当主には当主しか知らない事があって、継ぐのがいいことばかりではないのでしょう。まして体力的に劣る女の身であれば猶更ね。あなたにできないとは思わないけれど、イーサンの方が苦労が少ないかもしれない、そんなことは思うわ。やはり、男と女は違うものね」

 リラは考える。確かに、漕ぎ型耕運機を操るのは力がいった。リラが成長してどれだけ逞しくなっても限度はあるだろう。対してイーサンならばどうだろう、健康な男児ならば成長した暁には軽々と操るのだろうか。それでも…だが、自分が跡を継げばイーサンはどうなるのだろう?

「リラ、余程のことがない限り、貴女が跡を継ぐのは三十も近くになってから、イーサンにしても二十を超えていることでしょう。それまでは何も決めつけることはないのよ。学びなさい、そして、自分の信じる道を見つけなさい。イーサンに想う人が現れるかもしれないし、それは貴女も同じこと。どちらが跡を継ぐべきだなんて、まだ決めることはないわ、二人の母親としてそう思うのよ」

 母は聡明な人なのだと、感じた最初だった。活発に表にでるでもない母を、それまでは父にただ従う大人しい人だと思っていたのだ。だが、少し考えればわかることだった。父があれほど強引に宣言したのは、母が結論を先延ばしにしようとしていたからだったのだ。

「お母さん」

「なぁに」

「ありがとう」

「お役に立てて何よりよ、私の可愛いお嬢さん」


 結局、リラは跡取りとして学ぶことを止めなかった。時にイーサンの勉強を見ては、自らも学び、弟とともに農地を走り回った。父はそんなリラを止めもせず、姉弟の様子を遠巻きに眺めていた。イーサンが跡を取ることは揺るぎなくとも、リラは手放すには惜しい、そう思っていたのかもしれない。雇い入れていた婿候補の青年たちを解雇することはなく、貴重な人材として扱うことは止めなかった。そのうち何人かは娘しかいない農家に婿入りしていき、何人かは町へ戻った。

 残った何人かは、リラに好意を寄せながらもイーサンの良き友になったり、一方で当主に認められ一区画を任されるようになったりと、それぞれがシンガ家で居場所を見つけていった。


 そうして、時は過ぎ、リラは二十二歳になっていた。相変わらずふわふわの髪は布で覆い、ブラウンの肌は日に焼けて黒に近く、すらりとした体躯で走らせれば誰一人として敵わなかった。シンガ家当主が号令をかける際には傍にいる者たちの中では唯一の女性で、自信ありげに微笑めばさすがシンガ家の娘、女王さながらと噂され、実は跡を継ぐのは彼女ではと考える者もいたようだった。

「まったく有難くないわ」

 ある春の日、リラはそう膨れっ面で呟いた。

 十五歳になった弟イーサンが、家出をしたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ