漆黒と潔白の管理
僕は最悪だ。この間、学校の実験道具を全部壊した。コナゴナ。
僕は最低だ。この間、学校のロッカーを全部壊した。ボコボコ。
僕は最悪だ。この間、同じクラスの男の子を壊した。コナゴナ。
僕は最低だ。この間、同じクラスの女の子を壊した。ボコボコ。
さて、この最悪最低の起こした、災厄をどう裁定してくれよう。
最悪最低の災厄裁定。不束で不逞で不器用で不振で不思議な不美人。そして、災厄裁定の採択再訂。
♪ ♪ ♪
……というのがまあ、俺の弟の「災厄ノート」に記されたいちばん印象深いものだったのだけれど、この意味を得がたい文章でもひとつだけはっきりとわかることがある。それは俺の弟が以前とは違い、なにかしら後ろめたいものを胸に抱き始めている、ということだ。察しのいい読者ならすぐにでもわかると思うが、これは詩である。いかんせん不恰好なものではあるが、どういうわけか、思春期の子供というのは、こういったとかくわけのわからない、暗号のような詩をつづりたがる。
それは俺でさえ、またはあなたでさえ例外ではなかったはずだ。
しかし何年と時を刻み、世の中の酸いも甘いも知り尽くすと、大抵の人間は社会に満足し、自分の地位に安心を感じる。大きな不安もなく、そこそこの金もあり、温かいベッドで毎晩眠ることができることに充足を覚える。自分が何者かもおおむねは理解できたころだ。
そんな人間が詩をつづるだろうか? まさか。できて三日というところだ。
ふたたび話を戻すが、なぜそこまで俺が思春期にふと訪れる詩を詠むという──いわば『症候群』について細部まで理解しているかというと、その俺もはしかにかかったひとりだからである。とまあそんなわけで、弟の気持ちが理解できないでもない、というわけだ。兄として放っておくのもどうかと思う。それに『症候群』にかかる思春期の子供の半数は、学校で孤立しているか、いじめられているかのどちらかだ。
そんな風に弟の学習机に座り、ぶつぶつと綴られた文を唱えていたのだが、腹を決めてノートを元の場所に戻した。寸分の違いなく元あった場所にしまわなくてはならない。というのは思春期の子供ほど警戒心の強いものはないからだ。秋のシマリスだってこれほどまでに警戒心は強くないだろう。他人に見られれば死ぬくらいのつもりでいる。彼らがなによりも恐れているのは恥だ。胸のうちに隠した自分をあばかれることだ。A・Tフィールド。絶対領域。
夕飯前になって弟は戻ってきた。一階の居間で母とテレビを観ているらしい。なるべくいつもどおり、気のない感じで階段を下り、俺はコタツに脚を入れた。弟から半メートルばかり離れて。横目でちらりと表情を確認するが、その目は眼鏡越しに冷ややかである。なにを考えているのだろう? わからない。時々こんな風に弟を見ると、距離を感じてしまうことがある。以前サッカーをしたり、自転車の乗り方を教えてやった弟とはなにかが違うのだ。それはきっと、弟のなかに自我が生まれている証なのだろう。他人を軽蔑し、自らを敬うことのできる力が。
おれはこたつに半身を入れて、床に寝そべった。背を向けた母親を仰ぎ見る。
「オカン。今日は御飯なに?」
「マーボードーフ」とまな板に向かったまま母は言う。
「それ昨日も食べなかった?」
「余っちゃったんだからしょうがないじゃない。嫌なら食べなければ」
俺は舌打ちして体の向きを変えた。
「祐二、おまえは嫌になんねえのかよ。昨日と同じもん食うなんて」と俺は弟に言う。
「別に」
「昨日もマーボーだぜ。マーボーくんだよ」
「それブッタクじゃん。マー坊って」
弟はそう言って、前髪を揺らしながら笑う。けれどこちらには目を向けない。
「なに見てんの?」
「いや、テレビ」
「わかってるよ。番組は? いま何時?」
「ほら、御飯だからちゃんと座りなさい」と母は俺の顔を叩くふりをする。
おれは仕方なく席についた。テレビにはでぶと痩せたメガネが写っている。
「あ、はねとび?」
「うん」
「最近これつまんねえからなあ。もう飽きたよ。これ、なんだっけ。百円ショップ?」
弟は答えずにまた意識をテレビに傾け始めた。いくら弟がわからないと言っても、それくらいのことは俺にだってわかる。もう俺が横にいることなど弟は忘れている。ひとつに意識を傾けてしまうと、他のなにかに目を向けることができないのだ。それが思春期の長所でもあり、短所でもある。
食事が始まり、俺の隣に母が腰を下ろした。なにを話すでもなく三人そろってテレビに目を向ける。俺はテーブルの隅からメガネをとって、耳にかけた。兄弟そろって視力が悪い。
「あとでおまえの部屋いくわ。祐二」
弟は我に返り、こちらに顔を向けた。俺の言動を不思議に思ったようだった。
「なに?」
「あとでおまえの部屋いくよ。用事あっから」
「え?」
俺と弟は数秒のあいだ顔を向き合わせて静止する。冷静に見える色白の顔が、いくぶん曇り始める。かすかな動揺とめまぐるしく流転する憶測が、目の奥に見てとれた。まるで俺が脅してでもいるみたいだ。
弟は結局答えることなくテレビに顔を戻し、口を結んだ。
「なあ、聞いてんの?」
「うん」
「あとでいくから」
「……わかった」
うしろめたさに近いものが弟にあることはよくわかっていた。あれだけの個人的な詩を書き綴ったノートがあれば、そこに他人を近づけたいとは思わないだろう。あの「災厄ノート」はまさに弟の心のうちなのだ。心の核に近い、感情を言葉にすることすらままならない領域の言葉たち。……そこに俺が惹かれてしまうのは、やはり俺自身も病んでいるからなのだろうか。でも『症候群』にかかった人間は必ず、病んでいるのは世間だと信じている。十五のとき俺がそうだったように。
夕食が終わっても、弟はテレビの前を離れようとしなかった。
母が食後のお茶を出してお風呂に入ってしまっても、「ザ・ベストハウス123」が終わっても、「ジャンプ!○○中」が始まっても……。とはいっても、おれはそこまでやきもきしなかった。弟がどんな対策をいま頭の中で練っているのかと空想するのが意外にも楽しめたし、テレビに飽きれば部屋からニンテンドーDSを持って来て時間を潰した。どうやら俺が寝てしまうか、風呂に入ってしまうかのどちらかを待っているつもりらしい。だがちょうどオリエンタルラジオが画面に映りだすころ、目に見えるか見えないか程度のかすかな焦りを、弟の表情に俺は感じ始めた。
俺は思うところあってコタツから身を出し、立ち上がって換気扇のそばに寄った。棚の上に載った父親の煙草からその一本を取り出し、ライターで火を点ける。頭の中を流れる血が重みを持ち、めまいが襲った。俺は換気扇に向かって深く息を吐き、弟に言った。
「オカンには言うなよ。うるさいから」
「臭いでバレるよ」
そのとおりだ。よくわかってるじゃないか。
「これ吸ったらおまえの部屋いくわ。先に入っててもいいだろ」
弟の体が固くなった。徐々に息が乱れ、肩が上下する。俺はごくりと唾を飲み下した。
「ダメ」
「どうして」
「片づけてないから」
「いいよ、そんなの。ていうか、おまえこっち向いて話せよ」
でも弟はテレビに顔を向けたままだった。俺は煙草の灰を排水溝に捨て、湯飲みに入ったお茶を飲み干した。
「なんか見られたくないもんでもあるんだろ。見てやろ」
「そんなのないよ」
「嘘つけ」
「いいよ、じゃあ」
そう言うと弟は立ち上がり、ため息をついた。目が疲れたのかメガネを外して眉間のあたりをもみほぐし、長い前髪を後ろにひっつめた。何気ない表情を装ってこちらに顔を向ける。いつか窮地に立たされるその日のために、頭の中で何度もこのときの訓練をしておいたのだろう。その手のぬかりなさが、弟の演技からうかがい知れた。
「先に行って片づけてる。煙草吸ったら来ていいよ」
俺は肯いて、引き続き煙草を吸った。弟はおもむろに湯飲みを取って流しにおき、階段をゆっくりと上がった。動揺を悟られまいとする、作られた余裕だ。俺はテレビを消して沈黙する部屋の中、弟の足音に耳を澄ませた。まさかノートを焼くことまではしないだろう。
二度のノックのあと、「いいよ」という声が中から聞こえた。俺は咳払いをして中に入る。部屋は綺麗に片付いていた。というよりは元から綺麗なのだが、それがさらに隅に寄せられていた。物がおそろしく少ない弟の部屋は、簡素という以外に付け加える言葉がひとつもない。入って左端に窓があり、その横に学習机、俺のお下がりのエアーベッドが窓の向かいに置いてある限りはなにもない。クローゼットの床に少々の漫画本が置いてあるというくらいだ。少年院にだってもう少しなにかあるんじゃないだろうか。
弟はクローゼットから気休めの座布団を一枚取り出し、なにも言わずに差し出した。俺は座布団の上にあぐらをかき、ふたたび部屋を見回してみる。弟はベッドに腰掛け、エアコンの温度を調節し始めた。
「用事ってなに?」
「ああ、いまはいいや。それよりおまえの部屋なんにもねえのな」
「別になくないよ」
「いや、ないだろ」と俺は笑う。「お母さんに買ってもらえよ。今年の誕生日はなに買ってもらったの?」
「エアコン買ってもらった」
「ふーん。そっかそっか」
「来年からバイトできるから別にいい。いまは」
内心落ち着かないのか、弟はベッドから立ち上がって、今度は学習机に座った。引き出しを開け、中からコンパスのようなものを取り出していじくり始める。俺はここぞとばかり立ち上がり、弟の後ろに立って、色々と机の物色を始めた。
「やめてよ」
弟は俺の腕を掴み、後ろにひっぱった。しかしか細い弟に負ける兄ではない。
「いいじゃねえかよ。なんか隠してんならこのさい見せちまえば」
「なんにも隠してないよ」
「じゃあ見せろって」
そこで突然に弟の力が緩んだ。続いて弟の口から発せられる、なにかを諦めるような暗い声。俺が中央の引き出しに手をかけても、もはや抵抗しようとはしなかった。
「……ていうかもう見たんでしょ。知ってるよ」
「ノート?」
弟は肯いた。ふてくされるように顔を横に背ける。声が震えていた。
「ノートが置いた場所と違ってた。部屋に入ってくるのなんて兄貴しかいないし」
「見てねえよ。おまえの部屋なんか入ってねえし」
そこで弟がなにをしたかという説明はあまりしたくない。そのことについてはいまでも心が痛むし、悪いことをしてしまったと思っている。
弟はしばらく沈黙したあとに泣き始めた。身を被うように両手を肩に回し、ぽたぽたと床に涙を零しながら、漏れる喘ぎをなんとか喉の奥に押し留めようとしていた。ひっきりなしに零れる涙を懸命に手の甲で拭い、下を向き続けていた。俺はかける言葉が見つからず、自分の犯してしまった過ちを悔いながら、ただその場に立ち尽くしていた。
「泣くなよ」
そんなことは無茶な話だ。自分のいちばん知られたくない部分を、よりにもよって家族に知られるなんて。
俺の声は吸い込まれるように消え、あとに残ったのは弟の絶え間ない嗚咽だけだった。俺はその瞬間、殺されたいと心の底から願った。今すぐ誰かにぶちのめされ、永久にこの世から消え去ってしまいたい、と。俺は十五歳の少年のもっとも大切なものを盗みとったのだ。それは誰かに見られてはいけないものだった。弟にとっては、自分自身にもさえ等しいものだった。
長い放心状態が俺を襲った。人は罪の意識があまりに強いと、放心状態と罪の苦痛を行き来することがある。弟はそのかん一度泣きやみ、ふたたびむせび泣き始めた。どれだけの時間が経ったかわからない。気づいたときには、時計のコチコチという音だけが部屋の痛ましい沈黙に釘を打ち付けていた。あるいは、俺の心にも。
これほどまでにごめんという簡単な言葉が出なかったことはない。弟は鼻をすすりながら、俺が話しかけるのを待っているみたいに見えた。
「見たよ。けど、別に……」
俺はそのあとを続けることができなかった。いつもなら平気で口にできるはずの嘘がひとつも思い浮かばなかった。正直なところ、ひどくめげていたわけだ。
「ごめんな」と俺は言った。
「……いいよ、別に」
声は意外にも落ち着きを取り戻していた。弟も人の子だ。激情が涙で拭われ、いまでは自分を抑えられるようになっていた。あるいは元のように心を閉ざしてしまった、というべきか。
「学校でいじめられてんのか?」
弟はかすかに、しかしはっきりと首を振った。そんな風に見られるのは我慢ならないという風に。
「壊したってどういうことだよ」
「なにが」
俺はノートを手に取って、ぱらぱらとページをめくり、例の詩を読み上げた。
「学校の実験道具を全部壊した……学校のロッカーを全部壊した……同じクラスの男の子を壊した……同じクラスの女の子を……これだよ」
それが事実であったとしても、俺に弟を責める気はとくにない。知りたいのはそれが事実であったかどうかという点だけだ。
「別に壊してないよ」
「じゃあどうして壊したって書いてあんの?」
弟は沈黙した。椅子の上に両膝をたたみ、それを腕で囲って、長いあいだ床の一点を見つめていた。おそらく本人にも説明しがたいことなのだろう。俺は十五歳の入り組んだ心を推し量った。
「別に誰にも言わないから安心しろよ」
そう言ってしまってから後悔した。弟はきっとそんな風に言われたくはなかったはずだ。その証拠に、弟の後姿はより沈み込んだように見えた。
「いいよ、わかった。俺も見せてやるよ」
「なにを」
「俺の書いた詩だよ」
俺は弟の部屋を出て自分の部屋の、教材が押し込められた棚をあさった。それは物理の教科書と三年前のファッション雑誌のあいだに、埃をかぶって挟まっていた。いったい何年ぶりだろう? 見た目はただの大学ノートだ。表紙にはなにも書かれていない。ページをめくると、そこには鉛筆で書かれたかすれた文字が並んでいる。
♪ ♪ ♪
赤々とした絶望と
青々とした滅亡と
黒々とした殲滅と
白々とした全滅と
何もかもを殴って蹴って踏んで切って嬲って殺すだけの
赤々と青々と黒々と白々と全てを多い尽くした卑猥な底
♪ ♪ ♪
動悸がした。当時の心境が生々しく蘇り、心を締めつけ、緩和し、あとに淫らな余韻を残した。
♪ ♪ ♪
全てを汚して壊して殺して滅して
地獄に落ちても後悔はしない。
横暴暴虐虐殺殺害
全てをズタズタにしたい。
全てをボロボロにしたい。
全てをバラバラにしたい。
全てをコナゴナにしたい。
全てをボコボコにしたい。
♪ ♪ ♪
それだけを読み終えてしまうと、ノートを手に俺は弟の部屋に戻った。俺の中でなにかが息づき、喘いでいた。手が震え、恥辱にも似た激しい上気が頭を沸かせていた。青春とは一口に言ってしまえば、大いなる哀しみでしかない。あのあてのない不安、限りのない失望と妥協、大人に近づくにつれ着実に死んでいったものたち。
弟の前でノートを開いたそのとき、俺の心は少年に戻っていた。いずれ永遠に閉ざされることを知りながらも。




