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思いもかけないところで彼女の本名を知った。
「最初に『風岡茉穂』と名乗ったから、うちの事務所でも『マホ』と呼んでたけど。身分証も何も見せたがらないものだから、そりゃあ疑いもって、ちゃんと調べたら本名は水無更紗だなんて言うんだな。彼女に直接、本名は調べたと伝えても『別に構いませんよ。ここではマホって呼んでくださればそれでいいです』なんて軽い調子で言われる始末だよ。だから俺たちは俺たちで、彼女のことをマホと呼んでた」
香椎が、気の抜けた様子でその頃のことを振り返る。カヅキがここでカヅキとして生きはじめる前の話だ。ずっと気になっていた、彼女の過去の話だ。だというのに、なぜ日和の心は静かなままなのだろう。
「……カヅキを、連れ戻しに来たんですか」
「俺の仕事としては、そうだ。だけど、俺には俺で、マホと一緒に過ごしてきた時間というものがある。あいつの性格も多少は理解している。来いと命令されて、それで納得して来てくれるような女じゃない」
香椎の言うことは、尤もだった。彼が見てきた「マホ」にも、日和と共に暮らしている「カヅキ」の姿が見え隠れしている。
「俺は、あいつが戻りたがるとは思えないから、上に伝えたら後は放置するつもりだ。……仕事だから、上には伝えさせてもらう。日和ちゃんのところにも誰かが行くかもしれないから、とりあえず連絡まで、ってところかな」
香椎は誰かが行くかもしれないという言い方をしたが、日和でもわかった。近々、誰かが来るのだろう。過去、彼女に捨てられた思い出のうちの誰かが。
香椎が帰ってから、日和は部屋の奥側に座ったまま終始無言を貫いていた菜弦に声をかけた。
「……カヅキは、多分出て行くと思うよ。香椎さんたちの元に戻るんじゃなくて、自分の意思で出て行くと思う」
「そうか」
菜弦は呟くように言った。日和への返事だったかも怪しい。
「……お兄ちゃんはさ。結局、あの人が好きだったの?」
「いや、そんなことは」
ここで言葉を切って、菜弦は自分の言葉を一旦呑み込んだ。反芻して、改めて口を開く。
「そんなことはない。俺は、ただ、今度こそ救ってやりたかったんだ。俺の、俺にとっての天使を」
また、救えなかった。そう嘆きながら、菜弦は宙を見つめる。虚ろな目に映っているのは、何だろうか。彼のいう天使なのか。
「お兄ちゃんさあ、前から言おうと思ってたんだけど」
がたいがよく男らしい身体で、野太く低い声で、そんなメルヘンなことを言う従兄。すう、と息を吸って、日和は菜弦にこう言った。
「気持ち悪い」
夜になってから、カヅキに香椎と話したことを伝えておいた。
想像通り、カヅキは動揺しなかった。多分彼女にとって、いつか来るその日がやって来ただけだ。その日が来なければいいと祈るくらいはしていたかもしれないが、実際に来たところでそれは予想外の障害ではなかったのだろう。
カヅキはただ一言、日和に聞いた。
「私のこと知ってるかって聞かれて、あんたはなんて言ったの?」
「え?別に。今一緒に暮らしてますけどって」
「あんたのことだから、躊躇なく言ったんだ」
「だってカヅキが困ろうが、私には関係ないもの」
日和の返事に、カヅキはなぜか満足気だった。
香椎の言った、「誰か行くかもしれない」は、彼が来てから二日後には早くも訪れていた。
日和が高校から帰ると、部屋の前に人影があった。
「えっと……御用ですか」
部屋の中にはカヅキがいるが、カヅキは来客の際、居留守しか使わない。彼女に客など、本来来ないから。そう、本来は。
「……ええ。ここにあいつがいると聞いたので」
部屋の前にいた人物は、サングラスをかけていた。そのツルを少し上に持ち上げてこちらを振り返る。なかなかその姿が様になっていて、芸能人というのはたったそれだけでこんなにオーラがあるものなのかと思った。これが、フラグメンツで現在、ギター&ボーカルをしているユキノリに違いなかった。
「風岡茉穂と話がしたくて来たんです。会わせてくれますか」
勿論、日和には会わせない理由もない。鍵を開けると、「どうぞ」と言って彼を部屋に招き入れた。
「ただいま」
「おかえり。……あら。珍しいお客さんをお連れね」
カヅキは、いつものように掃除をしていた。その手を止めて顔を上げ、彼の姿を目に入れたところで、眉ひとつ動かさなかった。ユキノリの方は、彼女を見てから体中を震わせている。
「マホ。ここで何をしているんだ。帰るぞ」
「……突然来て、一体何を言い出すのかと思えば。遺書なら置いてきたでしょう。マホは死んだの。私はもうマホじゃない」
「見たさ。『風岡茉穂は死にました。』……あんな手紙で、俺たちが納得するとでも思ったのか!」
ユキノリは、怒鳴った。安アパート内に声がこだまする。
ここでは日和はただの部外者でしかなかった。彼らは、マホとユキノリとして話しているのだ。日和は黙って、二人のためにお茶を淹れることにした。
それにしてもカヅキは、能面のように無表情だった。その目は、既に「終わった」ものを見る目だった。今更過去が追いかけてきても、もう帰るつもりはない。カヅキはマホとしての人生をチャラにしてきたのだから。
「なあ、戻ってきてくれよ。俺たちみんな、それを望んでる。お前がいないと、フラグメンツは成り立たない」
「そうでしょうね。……ヒデとは、仲直りしたのかしら」
「ヒデも……ヒデだって、俺と同じ気持ちさ。お前がいてくれて、ようやくフラグメンツの曲が出来上がるんだって」
ヒデは、ユキノリと同じくギターを弾いているメンバーだ。
「そこだけ結束、ね……。立派なものだわ」
「頼むよ、なあ。戻ってこいよ。何が不満なんだ。俺か?ヒデか?それとも他のメンバーの誰かか?」
「誰が不満って。そんなことは昔から決まっている」
きょとんとした顔で、あるいは「当然だ」とでも言いたげな顔で。カヅキはこう言った。
「私だけよ。私なんて、そもそもいない方が良かったのよ」
冷たく言い放たれた一言に、ユキノリは絶句した。カヅキは、そんなユキノリを一瞥すらしないで、次の言葉を繰り出した。
「私があなたたちのために曲を書いていたのも、私を拾ってくれたトモヒロさんに恩を返したかっただけのこと。トモヒロさんが大事にしていたバンドが、彼の脱退によって世から消え去ってしまうのは我慢がならなかっただけ」
気付けば日和も、ユキノリと一緒になって彼女の言葉に耳を傾けていた。お茶を出すタイミングは完全に逃し、それは急須の中で温くなっていることだろう。
「私が風岡茉穂として大事にしていたのは、トモヒロさんだけだったの。彼がいなくなったとき、私も一緒に消えてしまえばよかった。そうすれば、こんな思いをさせなくて済んだのに」
もう、ユキノリは彼女に何も言い返しはしなかった。黙って、カヅキの整った顔立ちを目の裏に焼き付けていた。今を逃せばもう二度と会えなくなってしまうとでも言いたげに。
そんな彼と見つめ合うカヅキは、冷たいような、それでいて慈悲深いような視線をユキノリに注いでいた。
その晩のことだった。ユキノリはあのまま、何も言わずにふらふらとこのアパートを去っていった。ユキノリが帰っていくと、すぐにカヅキは「カヅキ」に戻った。ここに来てからの、日和の知るカヅキに。
カヅキは、出来る限り床のゴミを掻き分けてスペースを作り、そこに布団を敷いて寝る。日和はベッドがあるのでそこまでする必要はない。カヅキは寝づらいかもしれないが、そもそも居候の彼女に寝床についての発言権はなかった。
暗い部屋で、毛布に包まる。風通しの悪い古池荘では、この時期はこの程度の防寒で十分眠れるのだった。
「……起きてる?カヅキ」
「起きてる。……来ないかと思った」
「なにが」
「日和からの質問」
どうやら、日和が何かを聞くのを待ってくれていたらしい。いくらなんでも、何かしらの疑問は持っているだろう、と。
カヅキは、それに答えてくれる気でいるらしい。
「こんなときだけど、あなたのそういうところも嫌いよ」
闇の中で、カヅキがくすくす笑った。
「それで、なにかしら」
「……ユキノリと、なにがあったの」
日和の言葉に、カヅキは「ああ」と言って軽く話し始める。
「私が風岡茉穂になったのは、フラグメンツの前ボーカルだったトモヒロさんに出会ったときよ。トモヒロさんは、音楽に希望と夢を持った人だった。彼は、バンドをすごく大事にしていた。トモヒロさんにはお世話になったから、彼の大事なものを私も大事にするんだって思ってね」
トモヒロは故人だ。睡眠薬服用による、事故か自殺か判断の出来ない死を遂げていた。彼の脱退後、フラグメンツの人気は下降した。原因は、トモヒロが一手に引き受けていた楽曲制作を、安定してできるメンバーがバンドの中にいなかったこと。
そんなとき、トモヒロに手ほどきを受けていたカヅキ――マホに白羽の矢が立ったという。幸いにも、マホには曲創りの才能があった。
「ゴーストライターというやつね。表向きは、フラグメンツのメンバーが共作という名目で作詞作曲してる。でも、どちらもやっていたのは私。その関係で、フラグメンツのメンバーとも頻繁に交流をするようになったのだけど、ここで問題が」
「ああ、想像つくわ」
大方、ユキノリとヒデがマホに惚れてしまったのだろう。マホは当然どちらも選ばなかったが、お互いヒートアップしてバンド内で内部分裂を引き起こしてしまった。それで、風岡茉穂は死を選んだに違いない。
『誰かが消えることが 誰かの幸せになるのなら 喜んで消える側の人間になろう』
いつか見た、五線譜のノートに殴りかかれた詩を思い出す。
香椎たちが堂々と風岡茉穂を探せない理由もやっと理解した。人気バンドのゴーストライターが行方不明だなんて、大手を振って探し回れないだろう。
「ねえ。私、ここにいるのは楽しかったよ」
カヅキがぽつりと零す。
「日和も、大家さんも、必要以上に干渉してこなかった。ここにいる間、私にはただ安らぎがあった。私はずっと家に籠っていただけだったけど、でも充実した時間を過ごすことができた。ありがとね」
そう語る言葉のどれもが過去形で、日和はある予感を感じ取った。勝手に人の家に上がりこんで、勝手にいなくなるなんて、なんて勝手な奴。
「カヅキ、ここから消える気なんでしょう」
返事はない。彼女に届いたことにして、日和は言葉を続けた。
「消えるのは別にいいけど、一つだけ。遺書なんて縁起でもないもの、ウチには置いていかないでね」
日和の言葉に、カヅキが噴き出す音がした。やはり聞こえていたようだ。
「日和は、私のことを嫌いだって何度も言ったね。でもね。私は、あんたのこと好きだったのよ」
知らなかった。
「何言ってるの。わかってたよ、そんなこと」
でも、もうきっと最後なのだ。最後くらい、日和もカヅキに全てわかっていましたという顔をしていたい。
「わかってたか。そっか」
カヅキは日和の言葉に満足げに笑った。
日和が次に目を覚ました時、カヅキはいなかった。五線譜のノートを含めた数少ない菜弦からの贈り物を持って、彼女は跡形もなく消えていた。
***
日和は、帰宅するとすぐパソコンの電源を立ち上げた。ゴミ溜めのようになった部屋の床からテレビのリモコンを拾い上げ、テレビも付ける。
カヅキがいなくなった後、香椎が一度だけマネージャーとしての立場で訪ねて来ていた。カヅキはいなくなった後だと言うと、安堵のような落胆のような複雑な表情をして帰っていった。
パソコンが立ち上がる。目当ては、数か月前に出した小説大賞の結果発表だ。タイトルは「かけがえのない隣人」。日和とカヅキのことを、ぼかしながら綴った小説だった。
画面をスクロールする。最後の行までスクロールしたとき、日和の胸には失望が大きな影を落とした。
第一次選考落ち。
なにが問題だったのかはわからない。所詮、世間からすれば日和とカヅキの共同生活ことなどは目を向ける価値のないちっぽけな出来事だったのだろうか。そんなことを考えながら、日和はその小説のデータをパソコン本体から消去した。
床にごろんと寝転がる。昨日食べたクッキーの包み紙が、背中の下でカサリと音を立てた。
「十六位!フラグメンツで『エトランゼ』!」
流しっぱなしのテレビから、フラグメンツが先週出したという新曲が流れている。そういえば、彼らはどうなったのだろうか。このテレビから流れてくる音楽は、カヅキが作ったものかそうでないのか、日和にはわからない。
日和は結局、カヅキを理解できないままだった。
テレビからボーカルであるユキノリの歌声が聞こえる。日和は、背中を丸めて、重い瞼を伏せた。