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 カヅキは、たまに何かを書いている。

 そのノートと筆記具は日和には見覚えがないもので、ということはカヅキが菜弦に要求したものなのだろう。生活必需品以外のものは殆ど請求しないカヅキだから、これは彼女に欠かせなかった品であろうと日和は推測する。

「あんたと同じ、金にもならない、誰にも認められない創作活動だよ。見る目を持った、価値の分かる人間ならひょっとしたら食いつくかもしれない程度の、ね」

 何を書いているのか聞くと、僅かに悲しそうな目をして言った。言っていることは、以前言われたこととそう変わりがない。でも、このとき件のノートを胸に抱きしめてその言葉を口にした彼女からは、深い悲壮が漂っていた。

「見せては貰えないの」

「見たいの?」

 見たい。日和は、カヅキのことが知りたかった。カヅキには、この世界がどう見えているのか知りたかった。

 カヅキは、照れもせずそのノートをこちらに見せた。ノートには五本の線が均等に描かれていて、それでようやく日和はこれが五線譜ノートだったと知る。手書きのオタマジャクシが、その線の上で泳いだり跳ねたりして動き回っていた。

 日和には、曲の良し悪しはわからない。ピアノを習ったりしていたわけでもなければ、自らの書く登場人物のように絶対音感などという気の利いた設定を持ち合わせてもいなかった。よって、内容については言い及ぶことは出来なかった。

 楽譜の書かれたところから更に数ページ捲ると、歌詞まで書かれているのを発見した。カヅキはその美しい顔に似合わず、随分乱れた字を書くらしい。


『誰かが消えることが 誰かの幸せになるのなら 喜んで消える側の人間になろう

世界の幸せはそうやってバランスを保っていることを知る』


 流し見ただけで閉じた。充分だ。書くのを躊躇った跡のないところを見ると、心の赴くまま一気に書き上げたのだろう。

 つまり、彼女の核心に近いものがここには詰まっている。

 顔を上げると、カヅキがニヤニヤとこちらを見ていた。

「何」

「んー、未来の作家さんはこの詩を見てどう思ったのかなって」

 日和は、その言葉に一瞬詰まった。酷いとは思わないし、これは詩だから少々文法が可笑しくても問題にならない。ひとつ言えること。これは真に迫っていた。下手なことは言えない。これは、カヅキという人そのものだと感じたから。

 日和が答えに困っていると、カヅキは軽く言ってのけた。

「ま、あんたの読んでたやつはボツだけどね。こんな出来の粗いもの、他人に見せるわけにはいかないよ」

 日和が多少なりともカヅキという人間に心動かされた文章を、彼女はすんなりボツだと言い切った。自分も似たような切り方をするけれど、それを棚に上げて日和はむっとした。カヅキのこういうところがまた苛立つ。

 とはいえその前に、気になったことを尋ねた。

「私は、他人じゃないの」

 カヅキは目をまん丸にした。珍しい仕草だ。日和のこの反応は、カヅキの予想から大幅に反していたらしい。

「他人だよ、赤の他人。でも、かけがえのない隣人ってところかな」

 かけがえのない隣人。カヅキのような人物が、そんな言葉をつかって自分を表現したことに驚く。

 日和はそれに対するうまい返事を思いつかなかった。そこで、さらりと話題を変える。

「……カヅキって、アーティストでも目指していたの?」

「それはない」

 即答だった。至って明確な意志を彼女は付け足す。

「私は、音楽を発信する側にはきっと一生ならないよ。それはもっと向いている人たちがするべきだ」



 日和が風呂から出ると、一足先に風呂から出ていたカヅキが、首にタオルをかけてテレビを見ていた。水を含んだ髪が、昼間より濃く艶やかに光っていた。カヅキは真剣な顔でテレビを見ていて、日和も自然と目線がそちらに吸い寄せられる。

 彼女が見ていたのは音楽番組だった。CDの最新シングルヒットチャート。カウントダウン方式でランキングが発表され、日和が見たときには既に一位から十位までがずらりと出揃っていた。並んだ曲とアーティストを眺めて、日和は気になったことを口にした。

「今回のフラグメンツって、十位以内にも入っていないのね」

 フラグメンツは、デビュー当初は五人組だったバンドであるが、作詞作曲をしていたメンバーが抜けたことで四人組になっている。支柱を失い、一時は解散も囁かれていた彼らが、それでも曲を出し続けてランキングを賑わせていることは称賛に価するが、言ってみれば今やそれだけのバンドである。

「日和はフラグメンツが好きなの?」

「特に考えたことがない。中学の時の友達が好きだったかな」

「……そう」

 その中学時代の友達が、今も彼らを好きかどうかは保証できない。日和が中学のとき、まだ彼らは五人組バンドだった。

「でも、珍しい。確かに、四人編成になった当初は空振りしたような曲ばかりだったけど、ここ一年はそうでもなかった気がするんだけどな。今回、こんなにランキングが下だなんて」

 日和の言葉に続くように、テレビが、ギリギリ二十位にランクインしたフラグメンツの曲を流した。それは、お粗末とまでは言わないが、確かに全てを上滑りしたような曲で。

 これでは二十位に留まるよりなかっただろう。

「当然ね」

 曲を聴いていたカヅキが、甘く溜息を吐きながらもう一度囁いた。

「当然だわ」

 彼女の台詞のひとつぶひとつぶに、この世界に対する絶望が滲んでいた。




 季節は秋から冬に移ろうとしていた。夏の頃からずっと日和の部屋から出ることなく、間服のような長袖を着用していたカヅキだが、そろそろ菜弦より冬の服を与えられ始めることだろう。そんな時期のことだった。

 菜弦から、内線で電話が入った。

「日和に、客だ」

 重々しく告げられた菜弦からの言葉に、日和が「はあ?」と言ってしまったのは仕方ないことだろう。日和に客など、通常ならば来ない。なにせ、親でさえこのアパートまで押しかけてきたことがないのだから。

「お前の客なんだ」

 菜弦が再度そう言ったことで、それが聞き間違いでなかったことを知ると、急いで下に降りて行った。音を立てて電話をその辺に投げていると、カヅキが小さく欠伸をして起き上がっているところが見えた。

 下の部屋に入ると、待っていたのは菜弦と香椎だった。

「……なんだ。私にお客って、香椎さん?」

 拍子抜けにもほどがあった。菜弦の言い方にはもっと重大な、取り返しのつかない響きがあったから。

「そうだよ。こんにちは、日和ちゃん」

 そこで、ようやく日和も気が付いた。この部屋に入ってきてから、菜弦も香椎も一切笑っていない。菜弦は、友人が訪ねてきたようには見えないほど硬い顔をして奥の事務用椅子に腰かけていた。

 手前に座っていた香椎は、自分の向かいに日和を座らせた。ここまでくると、日和もさすがにいつも通りの態度などとることは不可能だった。一体何が始まるのか読み切れない。

「……日和ちゃんに聞きたいことがあってここに来たんだ」

「はい」

 日和は淡々と応対する。

「まず、今日は古池の知り合いとしてきたわけじゃないから、俺の身分から説明しておこうと思う。多分一度も言ったことがないけど、俺は普段こういう仕事をしてる」

 硝子のテーブルの上に、スッと一枚の紙が滑った。日和の目の前に差し出されたそれは、香椎の名刺だった。

 名前の横に、有名な芸能プロダクションの名前が添えられていた。香椎の身分――マネージャーの文字と共に。

「俺は普段、フラグメンツというバンドのマネージャーをしている。フラグメンツは……流石に女子高生なら知っているかな」

「はい」

 今度の返事は語尾が若干震えていた。フラグメンツ。その名前は以前、カヅキとの会話で出たことがあった。

「うんうん。……それでね、俺はこの仕事の関係で、ある人を探しているんだ。数か月前に居場所がわからなくなった人なんだけど、なんの偶然か、そっくりな人をその頃にここで見かけたことがあってね」

 もう、何が言いたいかの予想はついていた。香椎は、名刺の隣にある写真を並べて置いた。

「彼女……彼女を知っているかな」

 それは日和の予想通り、見覚えのある綺麗な顔が満面の笑みを浮かべた写真だった。先程、欠伸をしながら日和が部屋から出て行くのを見送った彼女。この数か月間、日和と一緒に暮らしていた彼女に違いなかった。

「その人なら、いま私と一緒に暮らしてる」

 何の躊躇いもなく告げると、香椎は不意を突かれたような顔をした。まさか即座にそう答えられるとは思っていなかったらしい。残念ながら、日和には誤魔化したり隠したりするような理由が何一つなかった。

 この人にバラしていいものだろうかとか。伝えたらカヅキは困らないだろうかとか。そんなことは一ミリも思わなかった。

「そうか」

「ねえ。彼女がどうしたの?あんな美人だもの。契約前に芸能事務所から逃げ出したとか?」

 日和の問いに、香椎は肯定とも否定とも取れる笑顔で答えた。

「まあ、そんなところかな」

 香椎は更に一拍置いて、聞き返す。

「彼女の本名は?」

「知らない。カヅキと呼んでと言っていたから、ずっとカヅキと呼んでた。本名は勿論違うんでしょう」

「ああ、そうだ。彼女の名前は、水無更紗という」


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