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 日和は文芸部員だ。定期的に小説を書いている。正直、部内で最も上手な小説を書くのは自分であると自負していた。けれど、見る目のない他の人々にはどうやらわからないらしい。

 日和は、真っ黒な髪を三つ編みのおさげに結い、眼鏡をかけた今どき考えられないくらい「文学少女」という感じの風貌の同級生を脳裏に描いた。三瀬という。容姿は地味だが、瑞々しい文体と奇抜な展開運びが受け、部内では断トツの人気を誇っている。日和はそれを苦々しく思いながら見ていた。

 大賞応募を決めたのは、そんなときだ。文芸部には見る目のある者がいない。だが、専門家が見ればすぐ日和の文章の中に光るものを感じるはずだった。

 手の中に掬い上げた水を、思い切り顔に叩きつけた。多少、目が覚めた気がする。それでも気分は相変わらず優れなかった。それもしょうがないことかなと思う。

 前日、日和が作品を出した小説大賞が第一次の選考結果を発表した。なんと、日和のペンネームはどこにも見当たらなかった。考えてもいなかったことだが、一次選考すら通らなかった。

 洗った顔を拭きながら、鏡を見た。お世辞にも綺麗とは言えない造形の顔が映し出される。大違いだ。今、自分が同居している、女性の中でも最高級ともいえるほどの人物と。

 カヅキと呼ぶよう言った女は、今も日和の部屋に住んでいる。

 菜弦の言葉通り、日和には負担はほとんど掛かっていなかった。カヅキから日和に求められたのは、下着と月のモノの準備くらいだ。流石に男に言うのは躊躇われたのだろう。こういうところを見ると、非常識人だと完全には言えないことがわかってしまって嫌だった。「なるべくうまくやっていくことにする」という言葉通り、日和には最低限の手間しかかけさせないようにしている。それが助かる反面、苛立つ。もっとうまくやれない奴なら、こんな風に思わなかったのに。

 彼女も菜弦とは方向性が異なるものの、日和の嫌いなタイプの人間に相違なかった。

 そんなだから、未だに一緒に住んでいけない理由を探しかねていた。嫌いな人間なのに、うまくいっているから菜弦に一緒に暮らしていけないと言い出せない。そういうジレンマも相まって、よりカヅキを嫌いになっていくのだった。


「あんたの空想は馬鹿げてるね」

「空想?」

 起きて早々、カヅキは部屋の片付けをしながらそう言った。曰く、片付けでもしないと常人は暮らしていけない部屋なのだそうだ。

掃除中、カヅキは時折思い出したように冷蔵庫から牛乳を出して飲む。ドラマのカヅキは牛乳が大嫌いだが、そこまで設定を忠実に再現するつもりはないらしい。

 日和は、パソコンから「できそこない」の原稿データを消去していたところだった。世が認めなかった原稿など日和には何の足しにもならなかった。

「自分が認められないのは世間に見る目がないからだと信じ込んでいる。私の作品を認めない専門家なんて本当の価値がわかる人間ではなかったのだと鼻で笑う。そう思うことで自分を慰めてるってわけね」

 気味の悪い妄想よ。吐き気がする。そう言って、また掃除に集中しはじめた。反論の余地すらもらえなかった。


 ある日の夕方の話をしよう。

日和が帰宅する少し前まで菜弦が部屋に来ていたようだった。律儀にカヅキの生活費等の面倒を見ている菜弦は、向こう数日の彼女のぶんの食材を持って来たらしかった。

彼は本当に、どういうつもりだろう。カヅキに気があるのか尋ねてみたこともあるが、

「昔、いろいろ後悔したことがあって。ああいう人は放っておけなくてな」

と言われただけだった。つまり、彼女をその人の代わりにして、今こそ献身的に尽くしたいということだろう。

とはいっても、わざわざ日和のいない時間を狙ってくるのだ。全く下心がないことはないだろう。こんな美人の生活の頼みの綱が、自分だけなのだ。持ってもおかしくないと睨んでいる。

「お兄ちゃん来てたんだね」

「うん。……今夜は鍋にでもするか。いい?」

 季節はまだ秋で昼間は暑いとはいえ、日が落ちると結構冷え込む。鍋はそんな今の季節にも十分向いていることだろう。

「構わない」

日和の短い返事に、満足そうに頷いてキッチンに向かうカヅキ。その後ろ姿は、水色のエプロンを纏っていた。日和のものではない。おそらく、菜弦が買ったものだろう。一体、どういうつもりで、どんな気分で。考えすぎると、気分が悪くなる。

日和は、無言で見送ろうとした後ろ姿に、思わず「ねえ」と声をかけていた。

 カヅキが振り向く。エプロンに、ファンシーな天使のワッペンが縫い付けられていた。あの大柄な従兄には似合わないチョイスで、ますますどういうつもりなのか聞いてみたくなった。

「私。私は、あなたのこと、嫌い」

 突然の話題だった。カヅキは、顔色を曇らせることさえなく、自然体でその言葉を受け止めた。

「ほー」

 好かれているなんて思ったことはないけれど。そう言ってカヅキは笑った。ああ、また日和の遥か高みから微笑んでいる。日和の自尊心を傷付ける笑顔だった。何を言われても意外性など感じないのだろう。そう思いながらも、日和は続ける。

「何も持たなくても生きていけますって顔して。実際、自分は名前すら満足に他人には伝えない癖して、時には大人の顔をしてこっちに否を突き付けてくるわけ。自分は、こんなにうまく世の中を渡ってきてるんですよーって。そういうところが嫌い」

「うん。日和には無理だよね。全てを投げ出して、チャラにして、それからでも生きてくなんてことはさ。だから、その点についてあんたは私を羨ましく思ったことなんてないんでしょ」

「……そうやって、見透かしたような顔をしてくるとこも嫌い」

 素直に告げると、カヅキは声を出して笑った。彼女はたまに「チャラにする」という言い回しをする。それは、この笑い方や日和の前にいる「カヅキ」が、作り物だということだろうか。いずれ、今回の人生も、投げ出してチャラにするのだろうか。

「私だって、わかんないことだらけだよ。全て終わった後に、ああこれは間違いだったと気付いて、後悔することだってある。ただね、私は後悔しても、もう一度ゼロに戻して生きていくことができるの。そのぶん、人よりも失敗したときの選択肢が多い。この思い切りの良さと、何にも執着しない心が私の長所よ」

「欠陥でしょ」

「そう言う人もいるでしょうね。けれど、一度失敗した人生に一体いくらの価値があるというの。日和も、誰にも見出してもらえなかった小説のデータを消してた。あれと同じことよ」

 そう語る彼女は、日和と一切視線を合わせようとしなかった。彼女の横顔は、額から頬にかけての曲線、鼻のラインまで完璧だった。

 改めて日和は思う。カヅキは、日和の前ではカヅキとして生きているこの女性は、何度過去をリセットしてきたのだろう。

 カヅキは真剣な顔をふっと緩めると、いつもの調子に戻って楽しげに大口を開けて笑う。

「まあまあ。あんたにはとれない選択肢をちらつかせたところでどうしようもないよね。あんたはなるべく後悔しない道を歩めるように。『青年のもつエネルギーは、傷つくことをおそれているようでは、何事をもなし得ない』ってね」

 何かの引用のようだが、日和にはよくわからなかった。このようにしてカヅキはいつも、のらりくらりと日和を煙に巻く。本当の彼女の幻に近づいたと思った瞬間、また隠れている。

「……やっぱり嫌いだわ」

「うん。日和はそれでいいのよ。あんたはずっと、私のことを嫌いでいて」

 嘆願するようにカヅキは言った。

 そのあとカヅキは、やろうとして止まっていた鍋の準備を進めた。何事もなかったかのように、鼻歌なんて歌っている。澄んだ歌声が、漂い始める湯気に溶けた。

 やはり、日和はカヅキがわからない。けれど、これだけは確かだった。カヅキは日和から好かれることを恐れている。


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