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煎餅を齧った。細かな屑が散らばるが、日和は全く気にしない。煎餅が小分けにされて入っていた袋は、適当に床に放る。勿論それも全く気にしない。
夏休みに入ってから、日和は何にもやる気を出せないでいた。今だって再放送のドラマを見ながらぼうっとしている。買い置きしていたおやつの類もそろそろ底を突きそうだった。
夏休みに入るまではよかった。丁度、日本でも有数のビッグネームを誇る小説の大賞に向けて作品を執筆していたからだ。高校では期末試験が当然のように行われていたが、未来の大賞受賞者である日和が知ったことではない。それを投函してしまったときに日和の夏は終わった。
ドラマ内に意識を傾けた。この時期になると繰り返し再放送されているこのドラマは、確かに面白いと思う。登場人物も魅力的で、彼らの相互関係性も興味深い。けれど、日和にとってはこのうち一人の役者が気に入らない。役柄ではなく、あれは女優側の問題であったのだろう。自己愛しか感じられない演技に毎回辟易するのは自分だけなのだろうか。
彼女は秘めた愛を大切にする人で、あんなにあからさまに自己愛を他人に悟らせるタイプではない。そう、彼女のキャラクターなら。演技に関しては素人だが、「未来の小説家」として日和はドラマを時折こんなふうにして評価する。
煎餅を齧り、立ち上がった。おやつが切れる前に、補充しておきたい。テレビの電源を落とし、そのへんのゴミの間に埋もれた財布を掴んだ。ついでに、食材でも買いに行くか。
部屋を出て階段を降りたところで、このアパートの大家に出会った。大家とはいえ、彼は日和の親戚であった。
菜弦という名の彼は、日和の従兄である。日和の幾らか年上でまだまだ若年だが、この古池荘の大家代理をしている。元々、日和と菜弦の祖父がやっていたこのアパート、数か月前に祖父が腰を痛めてしまってからはこの従兄が代理を務めていた。
日和の通学にはこのアパートがなにかと好都合で、高校入学と同時に一人暮らしを始めた。半ば自動的に決まったことだ。
菜弦は、日和の姿を階段の方に認めると、眩しそうに目を細めた。「よお」と、軽く声をかけられる。
「こんにちは、お兄ちゃん。何か用だった?」
古池荘は二階建ての小さなアパートだ。二階に住んでいるのは現在日和のみで、菜弦とこんなところで会ったということは、きっと日和に用事があるはずだった。
「いいや。母さんが、日和のことを気にかけててさ。最近どうしてるか聞かれたんだけど、高校が夏休みに入ってから日和のこと見かけてないことに気が付いたから。様子を見に」
菜弦は、白いTシャツにジーンズといういでたちだった。この従兄はナツルなんて名前に似合わず、身体ががっしりしていて声も野太い。彼の身体から目を逸らした。彼はそんな日和の様子に気付いた様子もなく言葉を続けた。
「元気そうでよかったよ。母さんにもそう伝えとく」
菜弦はニカッと笑ってそう言う。菜弦が自分の母に伝えれば、自動的に日和の母にも伝わるのだろう。
「ありがとう。じゃあ、私はスーパーに行ってくるから」
「おう。気を付けてな」
菜弦から逃げるようにアパートから背を向けた。彼のことは得意ではなかった。日和は、菜弦が――というよりも彼のようなタイプが全面的に苦手だった。文化系と体育会系にはどこか壁があるようなものだ。勝手に壁を感じて勝手に落ち込んでいるのだからどうしようもないが、仕方ない。彼らが優しければ優しいほど一層、自分が惨めで情けなく思えるから。
親切に声などかけてこないでほしい。ああいうタイプと話すたびに自分の自信が萎んでいくのを感じる。それが悲しくなってしまう。
この夏休みを使って消化する予定のおやつのストックと、これから数日間は困らない程度の肉や野菜をそろえて近所のスーパーを出た。そこまでは普段と変わったことはなかった。
明らかにおかしいのはこの、アパートへの帰り道での出来事の方なのだ。この暑いのに黒い長袖パーカーを着て、フードで顔を覆っている人物がいた。下は長ジャージ。狙ったかのように体のラインは隠され、日和にはかの人の性別さえわからない。
この謎の人物が、スーパーの前に立っていた。立っているだけとはいえ、奇妙な恰好は人目を引く。数人の客が、その人の姿を奇異な目でちらちら見ては通り過ぎた。
日和もそんな客の一人だったはずだ。どこの誰かは知らないが、なんだろうこの人。そんな気持ちでちらりと見て、そのままアパートに戻るつもりだった。ちらりと見るだけ。
ちらり。
その一瞬で、フードの下の相手の目と目が合ってしまったのだから仕方がなかった。びくりと体を揺らす。目が合ってしまった驚きで体が固まってしまった。
相変わらず、相手の顔は影になっていてよく見えなかったが、その目は鋭く光ったように感じた。ぞっとしたけれど、必死で平静を取り繕う。そうだ。何もなかった振りをして、アパートに帰ってしまおう。他の多数の客のように。
数分後にはアパートに無事辿りつき、日和は大きく息を吐いた。焦りがそのまま表れて手元は数回狂ったが、しっかり鍵をかける。顔は泣きそうに歪んでいたと思う。
なぜか、あの謎の人物はこのアパートまで日和に着いてきた。ストーカーのごとく、なんて比喩は当てはまらない。真後ろを、堂々と着いてきた。
黙ったまま、知らない人物が静かに後ろを着いてくる。恐ろしかったが、日和は振り返らずひたすら歩いた。他の対処法なんて思いつかなかった。これが自分の小説の登場人物だったら、ご都合主義に武道でも修得させておいて、瞬く間に撃退してしまうのに。現実の日和には、勿論武道の経験などない。
ともかく、無事アパートについてしまえば後はなんとかなるだろう。下には大家の菜弦がいる。彼は昔柔道部だったこともあるくらいだ、安全だろう。
その菜弦からは、スーパーから帰宅して二、三時間経ったあとに連絡があった。内線の電話で告げられた用を簡潔に纏めると、要は下に降りて来て欲しいのだという。「下」というのは管理人室のように使われているあの部屋だろう。何の用かは全く予想が出来なかった。
首を傾げつつも、部屋を出る。一応警戒しながら扉を開けたが、あの黒パーカーのストーカーの姿はあたりに見えなかった。アパートの下にも目線を払ってみたが、気配すら感じない。少し安心して、菜弦の待つ部屋に向かった。
部屋の前に立つと、中から菜弦とあと一人、誰か別の人の声がした。チャイムを鳴らすと、菜弦の声だけが返ってきた。
来客中なら、何も今呼ばなくてもいいだろうに。日和は、心中で文句を言いながら部屋の扉を開けた。
「ああ、日和。ごめんな、急に呼び出して」
菜弦が、本当に罪悪感を持っているのか疑うほどの軽い謝罪を入れて言葉を紡いだ。
日和は無言だった。驚きや恐怖から声を上げなかったのが奇跡だ。先程まで目の前の人物が専ら恐怖の対象であったというのに。そう。菜弦の傍らに座る、長袖黒パーカーの人物が。
「日和に頼みがあるんで、ここに呼んだんだ」
日和の衝撃の程なんて知りもしない菜弦は、平気な顔して日和に自分の要件を告げる。嫌な予感しかしなかった。
いい話なはずがなかった。
「この人と、一緒に住んでくれないか」
当然、日和は目をまん丸にして拒否した。
「は、え、なんで?」
このなんで、にはいくつも意味が含まれている。なんでこの人が住むことになっているのか、なんでここなのか。そして、なんで日和と一緒、なのか。
「というか、あなたは一体誰なんですか。なんですか。スーパーから私のあとを着いてきたのは知っています。それで、私の従兄と一体なんの話をしてこうなったんです」
日和の疑問に、相手は無言を貫いた。返事をしないことに苛立つ。この部屋に入る前に聞いた声は菜弦のものと合わせると確かに二つで、この人が喋られないことは決してないとわかっているだけに、余計に。そもそも、日和は未だに目の前の人物の性別すら計りかねていた。
「アパートの入居検査を通した」
無言の空間に耐えかねてか、日和の従兄は、微妙にずれた言葉を寄越した。日和の知りたかったことのひとつではあるものの、重要度の低い回答に頭痛がする思いだ。
「そう。なら、適当に入れてしまえばいい。部屋ならまだ空きがあるはずだし」
「いや、じいさんが、代理の時の条件で『俺が帰るまで新しい住民は断れ』って」
日和はとうとう頭を抱えた。
「なら、その言いつけを守りなよ。兄ちゃんは元々代理でしょ」
「だけど、この人困ってるんだよ! 」
訴えるような悲痛な声だった。まるで、突き放す日和が悪者のようでいたたまれない。
「行く場所がなくて、ここに来てる。お前さえ同居を呑んでくれたら、金なんかの世話は俺がやる。とりあえず! とりあえずでいい。お試しで同居を認めてくれ」
菜弦の傲慢な瞳が日和に突き刺さる。この類の人間の目が嫌いだ。自分は間違っていないことを真っ直ぐに信じていて、自分の要求が通らないことなど一切ないと思っている。事実、日和のような弱者サイドの人間がこうまで言われて断りきることなんてできないのが厄介だった。きっぱり断れるような性格なら、菜弦に苦手意識を持つことなんてなかった。
「なんでお兄ちゃんが一緒に住んであげないの」
日和が問うと、菜弦が気まずそうに視線を彷徨わせた。助け船を出したのは、渦中の人物だった。
「仕方ないよ」
透き通った声が日和と菜弦の間に流れた。不思議と、この場を支配する声音に感じた。
フードに手をかけ、顔を晒す。その人の顔を見て、私は今度こそハッと小さく声を出して息を吸い込んだ。
「ま、こんなでも一応女だからさ」
こんなでも、なんてとんでもない。黒くて真っ直ぐのセミロングの髪、深くて艶のある黒の瞳。陶器のように白くつるりとしているけれど、うっすらと紅に輝く頬。紛れもない美人の姿がそこにあった。
もしかして菜弦は、この容姿を見て入居許可を出したのではないだろうか。――あり得る。
「大家サンは私を追い出す気がないみたいだし、私はなるべくあんたとうまくやってくことにするよ。えっと……日和ちゃん」
「日和で構わない。見たところ年上みたいだし」
ここで冷たくしたところで状況は変わらないと判断し、日和はそう返した。剣呑とした態度はやめられなかったけれど。
ここで、新たにチャイムが鳴った。珍しいこともあるものだ。どちらかというと寂れたアパート、しかも大家不在中にこうも用事がある日など滅多にない。
「……じゃあ、上がるわ」
「おう、頼んだ」
従兄妹同士で軽い挨拶を済ましている間に、女はさっさと部屋を出て行こうとしている。随分身勝手だ。
彼女は扉を開けると、少し硬直した。
「どうしたの……あ、香椎さん」
「日和ちゃん。古池はいるかな」
客は、菜弦の同級生だった。職業までは知らないが、社会人だ。時々ここに顔を見せる人で、日和とも面識があった。彼とは非常に話しやすい。数回の会話の中で日和はそう感じていた。
彼を奥に誘導している隙に、俯きながら女は出て行ってしまった。彼女の後姿を見送りながら、香椎が首を傾けた。
「あれ……あれは」
「お知り合いかなにかですか?」
「あ、いや。見間違いかなー」
綺麗な人だからつい目で追っちゃったんじゃないですかーと茶化すと、彼は否定をせずに曖昧に笑っていた。
「きったない部屋ね」
彼女は日和の部屋に入るなり言った。その苦情は聞かなかったことにして、日和はチャンネルを拾い上げてテレビをつけた。昼に見たドラマの再放送は、どうやら一挙放送という方針でやっていたらしい。まだ放送の続いているドラマは、丁度佳境に差し掛かっていた。
主人公の親友の泣き顔がアップで映った。
「ねえ、私、あなたの名前聞いてないけど」
日和は女に聞いた。さすがに一緒に住まうのだから、そのくらい教えてもらわないとやってられない。
女はテレビに目を向けたままだった。聞こえないふりをしているのか、熱中しているのかわからない横顔に、もう一度問いを投げかける。
「ねえ」
「カヅキ」
えっ、と思わず声が漏れた。
「名前。カヅキでいい」
投げやりに告げられた名前。それは、まさにそのときドラマで海に沈んでいった主人公の親友の名前だった。