白い鈴
もし、君が危険に陥ったときは俺が助けに行くよ。
だから、その時はその鈴を鳴らしてごらん――。
葵は、ぱっと目を覚ました。
頭にはまだ先ほどの声が鮮明に残っている。それはは低く落ち着いた青年の声。どこかで聞いたことのあるような声は葵の夢の中で響いて、記憶に残していった。
「なんだったんだろう?」
「何が、なんだったんだろう、なんだ?」
「げっ」
視線を上げるとそこには、葵の担任であり国語教師である若干頭の禿げた後藤が青筋をピクピクさせながら、立っていた。
そこで思い出す。今はちょうど最後の授業であるということを。
「いやぁ、なんでもないですよ。ただ……、そう! 教科書の中のおじいさん、丸一日ご飯食べていないなんてお腹すいてそうだなぁって思いまして……あだっ」
「苦しい言い訳をするな」
後藤は葵の頭を教科書で叩くと、廊下を指した。
「授業が終わるまで廊下に立ってろ。そうすれば、眠気も覚めるだろう」
「はぁーい」
葵は古風な展開だ、と内心思いながら素直に廊下へ足を運ぶ。
黒板の上にある時計をちらっと見た限りでは、授業はまだ三十分以上ある。そんなにも立てば足が疲れるだろう。それは御免被りたい。制服のスカートを押さえながら廊下に腰を下ろした。
「暑い。うちわでもいいから欲しい」
二学期始もまってまだ蒸し暑い時期。教室は冷房が効いていたから快適だったが、廊下は蒸し風呂のように暑い。数分出ていただけですでに汗でびっしょりだ。しかも腰まである髪は一層、葵の体温を上げる。葵は腕につけていた黒いゴムでポニーテルを作った。
「けど、まだ暑いなぁ」
首まわりが少しだけ涼しくなったが、この蒸し風呂のような暑さは決して和らぐことはない。
「暑さが和らぐものはないもんかねぇ」
こうも暑いと居眠りもできない。まぁ、こうなったのは元々居眠りしていたせいなのだが。けれど、眠かったのは眠かったのだ。人間、欲求には逆らえない。
色んな教室から、笑い声や歌声、先生の説明する声が聞こえる。
「あれ……?」
なんとなく耳を澄ましていると、ノイズのような耳障りな音が混じって聞こえてきた。
その音がなんなのか正体を探ろうと音のする方向に耳を傾ける。ノイズはだんだん近づいてくるように音がはっきりと聞こえてくる。背筋が凍るような音に思わず耳を塞いだ。けれど、耳を塞いでも関係ないように頭に直接響く。頭にキーンとした痛みが断続的に続き、気持ち悪くなる。
「なに、これ」
座ってもいられなくなり、廊下に倒れこむ。
助けて、という声すら出せない。頭が痛くて、声にならないのだ。
教室の中にいる生徒や先生は何も聞こえていないのか普通に授業を続けている。
目がかすんでいく。息が荒くなっていく。意識を途切らせないように、歯で唇を噛み続けるが、その行為は空しく、意識は闇の中へ沈んでいった。
「こ、こは……」
目を開けるとそこは廊下ではなかった。
あたりは暗がりに包まれ、唯一の光である紅い月が荒野を不気味にも照らしていた。
風がなびき、スカートの裾を揺らす。
ここは夏が過ぎたのか、暑苦しくもなく、冬を迎える前の秋のような気候である。
「一体どこなの?」
ここがどこなのか、という興味よりも怖いという感情の方が勝り、葉がこすれる小さな音ですら体をびくっと震わせる。泣きたい気持ちを抑え、今自分にできることを考えた。
とりあえず、制服のポケットの中を探ってみる。出てきたのは、赤い紐のついた小さな白い鈴だった。
「こんなもの持っていたっけ?」
そう、思って頭をめぐらせ朝のことを思い出す。
学校に来る前、足を枝に挟んでしまい、動けなくなった烏を助けたことを。その際に、烏が羽の中を嘴でもそもそと探し、これを葵の手に置いて、烏は飛んでいったのだ。ガラクタかと思ったが、捨てるにも周りにゴミ箱がなかったので仕方なくポケットに入れたのだった。
「あのときの」
手で鈴を転がしてみる。そして、もうひとつのことを思い出す。
夢のあの青年の声だ。
もし、君が危険に陥ったときは俺が助けに行くよ。
だから、その時はその鈴を鳴らしてごらん――。
鈴と夢。
あの言葉が本当ならば今すぐにでも助けに来て欲しい。
その鈴、というのがこれならば、これを鳴らせばあの声の主は葵を助けに来てくれるのだろうか。
「物は試し……だよね。鳴らしてみよう」
鈴を鳴らそうと赤い紐の部分を掴んだその時だった。
いきなり強い風が吹き、立つことで精一杯の状況に陥る。
そして、風はさっと止む。しかし、今度は鼻をつくような異臭が広がった。
あまりの気持ちの悪さに吐きそうになるが、我慢し、鼻を押さえる。
嫌な予感がした。恐る恐る顔を上げてみる。
「あ……」
目の前にいたのは、どろどろとした物体がかろうじて形を保った変な生き物だった。葵を食べようと大きな口をあけている。息をする度に異臭が酷くなる。あの臭いの正体はこれだったのだ。逃げたいのに、足が震えて動かない。
ここまでか、と手を強く握り締める。そして、あることに気がついた。
「……鈴!!」
もう、これしかない。
葵は鈴を祈るように鳴らした。
チリーン、と辺りに響き渡る。
変な生き物はその音色に怯むが、機嫌を悪くしたのか、襲い掛かってくる。
――あぁ、ここまでなんだ。
命の終わりを悟り、その場に座りこむ。
しかし、変な生き物が葵に襲いかかることはなかった。羽の生えた人間が、それを遮ったのである。
「ふぅ、危なかった。もうちょっと早く鳴らしなよ。危うくそれあげた意味が無くなるとこだったよ。まぁ、こっちの世界で使われるなんて夢にも思っていなかったけど」
その声は、夢の中で葵が聞いた声と全く同じものだった。
「渡したって……。もしかして、あのときの烏くん?」
「そうだよ。あの時はどうもありがとう。助かったよ」
背に黒い羽が生えているのは烏という証拠なのか。
けれど、人間になっている意味が分からない。
葵の心を読んだかのように烏は背をこちらにし、手に持つ刀を使って、目にも留まらぬ速さで変な生き物を切りつけながら話す。
「ここは、人間の世界が陽だとしたら妖怪が住む陰の世界。俺たち烏は元々こちら側に住む動物。だからこちらと向こうでは姿形が違う」
「そう、なんだ」
「君がここに来る前、何か変な音を聞かなかった?」
変な音。あのノイズのような音だろうか。
「聞いたかも」
「それが、陽と陰の世界が繋がる合図。まぁ、その音を聞くことができる人間は滅多にいないんだけどね」
烏は、突然振り向き、葵をお姫様抱っこするように抱き上げる。
「え、ちょっ……」
「あの紅い月が陽の世界と繋がっている唯一の通り道なんだよ」
紅い月に照らされた烏の顔を見上げる。吐息がかかるほど近い距離に人懐こそうな表情があった。
「行くよ!」
烏は羽を羽ばたかせ、紅い月へ向かう。
地球から月は遠いはずなのにこちらの世界では結構近い位置にあった。紅い月の一部が空洞になっており、先の見えない洞窟になっていた。
「ここは妖怪が入ってこない。ほら、早くいきなよ」
言われるままに、葵は洞窟に足を入れる。
瞬間、世界が暗転したように真っ暗になった。
そして、はっと目を覚ます。倒れている体を起こし、その場にゆっくりと立ち上がる。
そこは、紅い月も変な生き物もない、見慣れた廊下だった。
「あれ……?」
あれは夢だったのだろうか。
しかし、夢にしてはリアルすぎる気がする。
そんな葵の思考を遮るように六限の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
ガラガラと扉を開け、後藤が葵に早く中に入れ、と声を開ける。
「夢だった、のかな?」
教室の中に入りながら、なんとなくポケットを探ってみる。
「これ……」
ポケットには白い鈴の変わりに烏の羽が入っていた。
それは、先ほどまでなかったもの。
「烏くんの羽なのかな」
葵は羽を掴み微笑んだ。
――また、会えるかな。
今度あったら、お礼を言おう。
葵は、自分の机に掛けてある鞄のチャックを開け、羽を大切にしまった。