さらわれた。
彼女は浮かれていた。
ずっと、治らないと思っていた。けれども治った。否、彼女は治してもらえたのだ。
世界がとんでもなく美しくみえた。ようは、彼女は浮かれていたのだ。
そうでなければ、辺りの鳥が一斉に逃げ出したとき彼女も一緒に逃げていた。
(もう訳が分からないわ…。)
彼女は抵抗を諦めてぐったりとした。そんな彼女に何を思ったのか、抱える腕の主がにたりと笑った。彼女は見ていない、見ていたとしても気づかなかっただろうが。
「ひゃっ…!」
ぶわりと浮遊感が彼女を襲い、気づけば空の下。できる限り下を見ないようにしながら、抱えている腕に必死でしがみついた。
つるつる滑って全然掴めない。だが彼女が落ちることはない。強靱な腕で腹回りをまるまる一周掴まれているからだ。むしろびくともしない腕に、彼女は再度ぐったりした。
「もういいわ…。煮るなり焼くなり好きにして…」
彼女がそう言うと、腕の主、竜がまたにやりと笑った。
********************
(どうなるのかしら…)
彼女は暗い洞窟の中、柔らかな毛の上に寝っ転がっていた。そのそばには白銀の竜が巨体を丸めて眠っている。
私はただ、いつものように川で洗濯をしようと思っただけなのに。激しい風が起こったと思ったら、目の前に現れたのがこの白い竜だ。
食べられると思った。鋭すぎる手を向けられて、がぱりと大きく開けた牙を見たときは。
だけど、この竜は私の体を捕まえるとどこかへ飛び立ち、この洞窟に連れてきた。
食べるわけでもなければ、いたぶるわけでもない。ただ、柔らかい毛におかれてその近くで眠った竜。
(訳が分からないわ…)
もう何度そう思ったか。
だがそんな風に堂々巡りしているわけにもいかない。彼女は竜の寝息を確認すると上体を起こした。
洞窟の外を見てこようと立ち上がった瞬間、竜の頭が持ち上がった。
何かをしゃべったのだろうか。竜は口を開いたが、すぐに閉じた。
「…?」
彼女が首をかしげつつ肩をふるわせると、竜は納得したように頭を軽く頷かせた。
そして鋭い爪を伸ばす。
「っ!」
刺さったら致命傷になること間違いない爪が、彼女の腹に触れる。硬直すると、やがて不思議な効果が現れた。
毛は暖かかったが、それでも人間である彼女に夜の洞窟はきつい。
だが今は、足の先から手の先までほんわりとした暖かさに包まれている。思わず目を瞬かせていると竜が嬉しそうに頭をこすりつけてきた。
(……懐かれた?)
********************
「……夢じゃないのね…」
背中に感じるぬくもりに、彼女は遠い目をした。
少し仰ぐと、まだ眠っている竜の頭が見えた。
竜は丸くなって寝ており、その体に包まれるように寄りかかって彼女は寝ていた。
体は何ともない。本来なら寒さを感じているのだろうが、竜に何かをされてからはまったく感じない。むしろ、常に快適な温度を保たれている。さすが竜、というべきか。
眠っている顔は、驚くほどあどけなかった。こんな風に安心しきって眠る姿は、可愛いと思える。
だが、鋭い目も口を開けたときに見える大きい牙も、彼女にとって恐怖でしかない。
(どうしよう…)
立ち上がる前に、首だけ動かして外を見た。
晴れきって青い空だけが見える。どうやら高い山にぽかりとあいた洞窟のようだ。
帰ることは不可能だ。なら、救助を待つか?
彼女は住んでいた村を思い浮かべて、首を振った。自分にされた行為を思い出して、顔を思い切り顰める。帰りたくなんてない、と強く思った。
(でも、あの人…)
また会いに来る、と言った人を思い出す。だが、彼女は再度首を振った。
また、と言ったが彼は結局一ヶ月やってこなかった。きっと社交辞令だったのだろう。もしくは忘れているか。
彼女を治してくれた大恩人なので会えないのは申し訳ないが、帰れそうもない。
そして、帰りたくない。
いつのまにか目を開けていた竜に、安心させるように笑うと彼女はもう一度竜に体を預けて眠った。
********************
竜との不思議な生活も、早三週間。彼女は不思議なほど平和な日々を過ごしていた。
ただの毛の上で寝てしまった上で体を痛めた彼女に、どこからか寝台を持ってきてくれた。
食べ物も竜が用意してくれた。良くて牛の丸焼き、悪くて魔物の丸焼きでも出るんじゃないかと思ったが、菜食主義なのか果物やきのこ、山菜を持ってきてくれるのだ。
初めは恐ろしかった容貌も、見慣れてしまうと可愛く見えてくる。元々、トカゲ類の顔は好きなのだ。
だからあくまでほだされたのは竜。
彼女は今、心底おびえていた。
視界に移るのは、浅黒い肌にそれと対照的に白い白髪。瞳は燃えるように赤い。その色の組み合わせは確かに竜と同じものだ。ちなみに、その他に映るのは天井のみだ。早い話が押し倒された。この人物に。
その日、朝から竜は落ち着きが無かった。そわそわとする仕草も可愛いと思えてしまっている自分に驚きつつ、その様子を眺めた。
しかし、その夜。満月の光を浴びた竜は変化を起こした。
何が起こったのかも分からずに、彼女は竜と思わしき男に抱きしめられて押し倒されたのだった。
「な、なな…」
「やっとこっちの姿になれたな。」
「ひぃっ!」
聞いているだけで腰砕けになりそうな声が、耳元でささやかれる。
男慣れしていない彼女はそれだけで泣きそうになった。
完全におびえている彼女に、竜は目を瞬かせた。
「…どうした?お前も望んでいたことだろう?」
「えっ、この状況が!?」
そんなはしたない女になったつもりない、と震える声で叫ぶ彼女に竜は一度首をかしげてからゆっくり退いた。
サササーっという音が聞こえそうなほど素早く逃げていく彼女に、竜はもう一度首をかしげる。
「言っただろう? 嫁になってくれと」
「…………はい!?」
彼女は壁に背をつけたまま、これ以上ないというくらい距離を開けたまま、恐る恐る言う。
「私はそんなことを望んではいません」
「…言ったろう?好きにしてと」
きょとんとした竜に、思わず脱力した。
竜は始めに会ったときのことを言っているらしい。確かにそんなことを言ったような気がする。
だがあれは、食べるならすっぱりと!という意味で、間違っても嫁になるなどという了承ではなかった。
「確かにそれは言いましたけど…。でも、嫁にきてくれ、なんて今始めて言われましたよ」
「………」
竜は眉を寄せて首をかしげた。
「ああ。そうか。人は竜の言葉が通じぬのだったな」
「…え、そこから?」
深く納得したような声でうんうん、と頷く竜に呆れた。二回も呆れたので、大分落ち着いてきた。壁に手をついて深呼吸する。
「とりあえず、嫁にこいなんて言われても困ります。」
「とりあえず、こちらを向け」
「嫌ですっ!」
彼女は壁に顔を向けていた。
竜は全裸だった。竜の時に何も着けていなければ人間になっても変わらないのはある意味当たり前か。だが、異性の裸など花の乙女である彼女には刺激が強すぎる。
「さんざん見ていただろうが」と後ろから声がかかったが、竜と人は全然違う。
竜は少女の向きを直すことは諦めて、努めて真摯な声を出した。
「なら、嫁には来てくれないのか?」
「ッ……そもそも、どうして私なんですか?三週間前に始めてお会いしましたよね?」
まっすぐとした声に逃げるようにごまかすと、不意に沈黙が落ちた。
「え?あの、どうしました?」
「…こちらを向け」
「だから嫌だって…わっ!?」
少女は強引に顔を向けられた。男の顔が間近に迫っている。
背けたかったが、顔は両手で固定され至近距離で視線が合う。
「…初めて、か?」
「は、はい」
なにやら今までと違う雰囲気におびえながら、男の顔を凝視する。
「……覚えていないのか?」
低い声が呆然としたように呟かれた。
その悲痛をはらんだ声に、彼女の胸がチクリと痛んだ。痛んでやる義理なんて無い、と言ってやりたいのに、その言葉は出てこない。
竜の顔が、泣く寸前のようにゆがめられていたからである。
「…そうか。なら、いい。明日にでも村へ送る」
手が離される。
解放されたのに。顔から、頭からぬくもりが引いていってどうしようもない気持ちになった。
(嫌われた…?)
呆然と彼女は寝床に向かう男の背を見つめる。
どんなに見られていても我関せずと背を向ける竜に、彼女は今までとは違う感情を抱いた。
ふつふつと腹からわき上がる感情の名は。
悲しみでも罪悪感でもない。圧倒的な怒り。
「だったら貴方の名前を教えてくださいよ!私はもと盲人です!顔なんて分からないんですよ!」
彼女はばっと立ち上がって叫んだ。
男はぴたりと立ち止まる。
「いきなり連れてきて、勝手に懐いて……挙げ句の果てには急に嫌って!何なんですか貴方!」
声は少し涙が混じっていた。こぼれそうになる前に乱暴に袖で拭いた。
泣きたくなんて無いのに、感情が容量を超えて涙となってあふれ出てくる。
乱暴にこする手を止めたのは、たくましい腕だった。
手が優しく目尻残る涙を拭く。
「泣くな…悪かった。」
仕草のように声も優しかった。
「…泣いてません…」
「泣いているだろう。…顔も赤くなっている」
「とりあえず何か着てくれませんか」
顔をあげられない彼女は、怒りが残る声でビシッと男に言ってやった。
「話はそれからです。」
********************
「お前は目が見えなかったのか…」
今度はしっかり服を着た竜が、申し訳なさそうに呟いた。
先ほど知ったことだが、竜は亜空間から物を取り出しているらしい。ベッドがどこからか盗んだものでなくて彼女は小さくほっとした。
だけども、これだけは言っておかなくてはいけない。
「そうですよ。だから、顔で判別するのは不可能です!」
今度はしっかり顔を見て言った。だがよく見てもこんな顔、記憶には残っていない。
とはいうもの、彼女は目が見えて三週間しか経っていないのだ。つまり、目が見えるようになって初めて森に行ったときに竜にさらわれたのだった。
彼女は男をしっかりと見つめる。
(村の人じゃないことは確かだから…)
彼女は今まで出会った人間を思い返していた。
彼女は村育ちだが、村にだって使者や旅人だって来る。その人全部の声を覚えている訳ではない。声で判別することは不可能そうだ。
「名前を教えてください」
少しでも思い出すきっかけがあれば、と思ったが竜は首を横に振った。
「俺に名は無い。……会ったのは大分前だったな。」
竜は思い出すように少しだけ仰向いた。
「お前が大けがをしていたからそれを治したのが始まりだな。あれだけ治療に時間がかかるのにお前は普通に活動していたから不思議に思っていたが…盲目だったのか。」
「………」
「どうした?」
竜は返答しない少女に顔を向けた。
少女は小さく口を開いてぽかんとしていた。そんな顔も可愛くてしょうがないのか竜は少女の頬に手を添える。
「貴方、魔法使いさんでしたか…」
呆然とした声で紡がれた声に、竜は歓喜した。その気持ちのまま少女を抱きしめる。
「覚えていたか!」
「覚えてましたけど、繋がらなかったというか…」
少女はなんだか脱力してしまった。
よくよく考えてみれば、不治の病と言われたこの目を治してくれた術士がただ者であるはずがない。
森にいた術士といくつか会話したあと何故か気に入られ、目に何か施すとしばらくしたらもう一度来ると言って去ってしまったのだ。
だが、竜の姿で来たって分からないだろう。
いろいろツッコミたかったが、久しぶりに泣いて疲れてしまった。
「で、嫁に来るか?」
竜は一度顔を起こし、至近距離で言った。
(そ、そういえばそんな話だった…)
色々あって忘れかけていた。
(嫁か…)
少女は目をゆっくり伏せた。竜はそれに気づいたのか、また強く抱きしめた。それが、不安がる子供のように思えて、可愛いと思ってしまった。
そう思う自分に気づいている彼女はとっくのとうに答えを見つけていた。
「行きます。…ふふつかものですが、よろしくお願いしますね」
少女は自分の顔が赤くなるのが分かった。照れそうになるのをごまかして笑う。それをじっとみていた竜は彼女を肩にかつぎあげた。
「わっ!?」
降ろされた先は寝台。視界いっぱいに映る竜に彼女は自分のおかれた状況を悟った。
「ま、待ってください!ゆっくり、ゆっくり…」
ゆっくり夫婦として歩んでいきましょうよ、と言うつもりだったのに。
「ゆっくりか、分かった。」
「や、違いますから! って…やっ!」
いつからか、神山としてあがめられている山の頂上付近には小さな家が建てられた。そこでは、元盲目と元竜神の夫婦、そして最近生まれた双子の子供が幸せそうに暮らしているという。