華は歌い続ける07
ダガーの刃がギルドラの体に埋もれていく。ダガーを伝い手に感じた人を刺すという感覚に俺は言葉を失っていた。
傷口から温かな血が止めどなく溢れ出ている。ギルドラが生きていたという証が無情に俺の目の前でこぼれ落ちていくのは確かに見えていたのだが、俺はその場に凍り付いたように動けずにいた。
「……何故……」
「俺は……もう、半分狂っちまってる、狂った……獣に成り果てるくらいなら……俺が俺であるうちに」
「ギル……」
「シラン、……忘れるな……その感情を」
ギルドラは最期に「ありがとう」と呟きゆっくり後ろに倒れていく。俺は血に濡れたダガーを握り締めたまま立ち尽くした。いつの間にか手からゆっくりダガーが落ち、床にぶつかり冷たい音を立てる。灰色の床がギルドラの温かな紅に染まっていく。
俺はその傷口を塞ぎたくて、零れる命をつなぎ止めたくて気付けば傷口を両手で塞いでいた。俺の手が赤く染まる。それでも指の隙間から命が零れ落ちていった。
「うわあああああ!」
俺は叫んだ、泣き喚き声の限り叫び続けた。
俺はどのくらいそうして泣いて居たのか分からない。声が涸れ涙も尽きた頃、何故だか俺の頭は冷静さを取り戻しつつあった。
胸が酷く痛む。突き刺されたようにだ。だがこれが、死を目の当たりにして人として普通の反応なのだろう。
何も感じなくなったらそれこそ俺は狂った獣と何ら変わらない生き物になってしまう。
俺はふらふらとギルドラに近寄る。
「ギル、アンタはやっぱり勝手で腹の立つ奴だな」
ギルドラの頬に触れる、その頬はまだ温かい。いつものように俺をからかっているだけで、少ししたら笑いながら起き上がり嘘でしたと俺の頭を撫でてくれるんじゃないかと思わせるほどに、ギルドラの死に顔は穏やかに見えた。視界がまた滲んでしまいその姿を目に焼き付けたいというのに俺の目にはギルドラの姿ははっきりと見えなかった。
俺は手を伸ばしギルドラの黒髪に触れてみる。つくづく綺麗な黒髪だと感心しながらその髪の僅かな乱れを整える。俺がギルドラに出来る事なんてこれくらいだ。
ふと胸ポケットからはみ出す何かに気付き、俺はそれを取り出す。それは、以前ギルドラが見ていた写真だ。そこには男の肩に腕を回し笑っているギルドラと、ギルドラが「アイツ」と呼んでいた男であろう人物が照れたように笑っている。男は黒髪に、どこかあどけない瞳。だがその瞳には強さを感じる。俺はこの人物に会ったことはない。ましてや写真一枚では、何も分からない。不確かではあるが、どこかこの人物と自分に共通するものがあるように思えた。それは身に纏う雰囲気とでも言うのだろうか、俺にははっきりと言い切れない。だが、ギルドラは何かを感じていたのかも知れない。
そう思うと少しだけ胸が痛む。だが胸が痛む理由を、俺が知ることは一生無い。
何故ならギルドラはもう居ないのだから。
ギルドラは自らの命を絶つ事で、自我を保ち人のまま最期の時を迎えた。そして残された俺に人の命を奪う事の痛みを、殺しきれない人の感情を教えてくれた。
これから、俺が生きていくこの世界では、生きるために生を奪う場面がどれほど訪れるのだろうか。俺には予想も出来ない。
だが俺が人であり続けるならばその度に、例え見知らぬ相手であっても胸を引き裂かれるようなこの痛みを忘れる訳にはいかない。自分を見失わずに生きなくてはならない。それだけは確かに分かっている。
俺は落ちているギルドラのダガーを手に取った。
「ギル、これを貰ってもいいか?」
当たり前だが返事はない。俺はそのダガーを鞘に仕舞い腰に付け立ち上がった。
ギルドラに背を向け俺は、廃墟ビルを出る。ギルドラを残して。振り返ったらもう、俺はきっと二度と立ち上がれなくなるだろう。
廃墟ビルを出た俺を出迎えたのは冷たい雨だった。
雨音がアスファルトを強く叩きつける。
俺は祈るように空を見上げ、雨に打たれた。冷たい雨粒が頬をつたう。泣いているのは空の方だと俺は、一人呟いた。
◇◇◇◇
男が呻きながら地面に倒れる。命は奪ってはいない。足を貫いただけだ。
だがこの男は死ぬのかもしれない、俺には分からないが。そこまで見届けてやる義理はない。
廃墟ビルを出た後、俺は随分歩いた。
歌を探すといっても何も手掛かりがない俺には歩みを止めないという事しか出来なかった。
時には狂った男に追われたりもした。最初は上手くダガーを使いこなせずに居たが、一撃でも男に食らわせられれば十分に逃げるチャンスが生まれる。その一瞬の隙をついて俺は大抵戦わずに逃げていた。勝てないと分かっているなら、戦わない。それは生きる為の選択だと俺は考えていた。実際、俺はそうして今日まで死を免れ生きてこられたのだ。
だが最近はダガーもだいぶ使いこなせるようになった、戦うという選択を選ぶ事も多くなったように思う。
こうして今日まで生きてこられた事は奇跡に近い。それを奇跡と呼ぶなら、ギルドラに出会った事を含め今こうして俺が生きている事は全て奇跡なのかもしれないが。
暫く感傷に浸っていたが俺は我に返り、その場を後にする。再び歩き始めて俺はふと奴の事を思い出していた。
「ギルドラ……」
『あの日』からどれくらい経つのだろうか。一ヶ月か、一年かそれ以上か。
時計がない今正確な時間を刻む物は無い。
太陽は気紛れに顔を覗かせるだけで時の流れを感じる事はなかなか出来ない。その上、気候も変わりつつあり今となっては、四季を感じることも出来なくなっていた。
ただ確かなのは、大きいと感じていたダガーが今では俺の手に合った大きさになっている事、それに俺の視線があの日より高くなり、髪も伸び、余り喋る機会は無いが声も低くなったように感じる。それに、服も靴もそろそろ窮屈だ。これは確かな成長であり唯一俺が感じられる確かな時の流れでもある。だがまだギルドラより背は低いだろう、悔しいが。
しかし我ながらこの姿は随分と不格好である。そろそろ限界だということは分かっていた。
「商人なら何か新しい服を持っているだろうか……」
俺はぽつり呟く。以前のように追い払われる事もなくなり、商人から物を交換条件で買うという事にも随分慣れたが商人は苦手だ。交換条件は大抵次の街までの護衛だったり、材料の調達だったりする。だが、一番苦手なのは望まない行為を強要される事だ。俺は思い出して苦笑いをする。これだけは避けられるようにと祈らずにはいられなかった。
歩き続けていたが不意に柔らかな風を背中に感じ俺は立ち止まる。どうやら俺は随分遠くまで来たようだ、それは距離だけではない。振り返ると相変わらず寂れた色合いの崩れかけた街並みが広がっているだけだ。人の声も、音も無い。緑を見つけるのは前より難しくなった。
遠い昔に見た、笑い声に溢れ賑わっていた街はもう何処にも無いのだろう。
暫くその景色を眺めた後、前へ進むべく視線を戻し、俺は固まった。
目の前に灰色の布で体を覆い隠した男、商人が立っていたからだ。この布で体を隠す衣装は商人の証らしい。いや、何のんびり分析しているんだ。この男は一体いつから居たのだろう。しかも全く気配を感じなかった。
商人を訝しげに見つめると商人は笑いながら手をぱたぱたと左右に振る。
「怪しいものじゃありませんよー」
商人はニヤニヤ笑いながら言うが、怪しいを絵に描いたようなその姿に俺の警戒は高まる一方だ。
その怪しい男、商人は何やら懐から物を取り出そうとして俺は思わずダガーに手をかけていた。
だが、商人の手にあるのは黒地の衣服と衣服と同じ色のブーツだった。
「これが必要なんでしょう? 見れば分かりますよー」
「……それで、タダという訳ではないのだろ?」
男は曖昧に笑い、また忙しなく手をぱたぱたさせている。
「まあまあ、それは後で話しますから先ずは着てみて下さい」
商人はどこか信用出来ないが、俺はその衣服を手にした。素材のせいか手にした服は軽い。黒地に金色の模様が入っていてなかなか個性的だ。袖が無い代わりにアームカバーがついている。
「しかもなかなか切れにくい素材になってますぅー」
商人は間延びした話し方で俺に服を勧める。俺は商人に勧められるまま、その服を身に纏ってみた。
――着心地は、……なかなか良いな、それに動きやすい。
「気に入っていただけました?」
「ああ、なかなか良いな」
俺は、素直に感想を述べてみる。男は唇の端をつり上げ笑いながら頷き。
「それで交換条件なのですが」
「……ああ」
暫くの沈黙の後男が口を開く。
「幽霊退治をお願いしたいんですよ」
どうやら、折角手に入れたばかりの衣類を返さなくてはならなくなりそうである。
「それはダガーで倒せるのか?」
商人は、ただ笑うだけだった。