華は歌い続ける02
こんな世界で誰が助けてくれるだろう。皆、自分が一番大切だ。俺だってそうだ。
わざわざ危険を冒し人を助ける者など居るはずがない。それでも俺は助けを求め続けてしまう。死ぬのは恐ろしく怖い。
「嫌だ……、誰か」
男の手が届きそうなくらい近付いて来て、もう駄目だと俺は強く目を瞑る。だが不思議なことに何時までも痛みが襲ってこない。
それどころかどこからともなく歌が聞こえてきた。どこか懐かしく、少し寂しそうな独特な音。それは心に響く不思議な歌だった。生憎、俺には歌の意味は分からなかったが、その歌が優しく心地よい不思議な歌だという事だけは俺にも分かる。不意に俺は体の震えが不思議と止まっている事に気付いた。
それだけではなく、俺の心をざわめかす不安をその歌は包み込もうとしていた。こんな状況にも関わらず、俺は歌に興味を惹かれていた。
だが母さんの死に対して悲しいと感じていた気持ちまで、歌に消されていきそうで少し怖くなる。次第に歌は聞こえなくなり俺は、ゆっくり目を開けてみた。先程の銀髪の男はもうどこにも居ない。それから視界に先ず見えたのは、動きをピタリと止めてなにやら戸惑っているような男達の姿だ。逃げるなら今だが、それより俺は歌が気になった。歌はどこから聞こえるのだろうか。俺は周囲を見渡したがぼんやりとした月明かりだけでは何も分からない。そうしている間にいつの間にか男達は俺に興味を失ったように視線を逸らすと、ふらふらとその歌のする方へ歩いていった。
静寂が訪れる。
急速に体が冷えていく気がした。今までの事は全て夢だったのではないか、と思ってしまう。だが、動かなくなった母さんが確かに現実を突きつけていた。
俺は死を免れる事は出来たが、狂いだした世界で生きる術を俺は知らない。
震えが止まりやっと動けるようになった俺は母に走り寄る。俺は茫然と立ち尽くしていただろう。何度見ても同じだと分かっていたが、やはり母さんは死んでいるのだ。母さんを失った俺はこれからどうやって生きればいいのだろうか。俺は全く分からないでいた。
ショックからまるで、俺は強く頭を殴られたように意識が遠のくのを感じる。いっそ俺もこのまま母の隣りで共に長い眠りにつくべきなのではないだろうか。
そう思ったその時に脳内であの歌が再生される。あの優しく不思議な歌。その歌を思い出した俺は不思議と俺の考えは間違いなのではないかという気持ちになっていた。
夜風が冷たく吹き付けるがそんな事は気にもならない位に俺は母さんの傍で立ち尽くしていた。一人立ち尽くした俺は時に残される方が辛いのだと感じていた、きっと母さんも父を失った時そうだったのかも知れない。感情を抑え込むのは得意だ、父が死んだ日だって泣かなかった。それなのに、涙は止まってはくれない。「これから俺は、どうしたらいいのか」その言葉が頭を埋め尽くし、誰かに答えて欲しかった。でも、もう誰も居ない。まるでこの世界中で俺はたった一人になってしまったような気がした。
涙が枯れた頃、母さんとの思い出に浸りながら母さんのそばに寄り添う。俺はそっと母さんの見開かれたその瞳を閉じさせた。足は無く、腕は不自然な形に曲がっている。組ませてやる事も叶わない。せめてと、体についた土を払いのける、見慣れた母さんの姿はそこに無くとも、俺はその姿を目に焼き付けておく、多分母さんを見るのはきっとこれが最後になるのだろう。そう思ったらまた泣きそうになってしまった。
何時までもここには居られない。あの男達が戻って来ないとは言い切れないのだから。死ぬのは怖い。 俺は立ち上がろうとした。だがもう体力も気力も何も残って居ない。立ち上がろうと力を入れた筈なのに俺は地面に倒れ込んでいた。
情けないが、俺の体はどうやらもう限界を超えていたようだ。
俺もこのまま死ぬのだろうか。意識が薄れゆくなかでぼんやり男の姿を見る。男は俺を見下ろして
「生きたいか?」
と、問いかけてきた、ような気がした。
――生きたい。
言葉になったのかどうか俺にはもう分からなかった。そのまま俺の意識は闇に溶かされていく。
どうやら俺の意識は暗闇をさまよっているようだ。右も左も黒で塗りつぶされた世界に俺の意識だけが存在する、漠然とした不安が込み上げてきた。 暗闇のなか突如目の前にぼんやりと光を背負った母さんが現れ、俺を手招いている。
――母さん。
優しい母さんが自分を呼ぶのだから俺は走り行くべきなのだろう、だが体が重たく思うように動かない。
俺が戸惑っていると後ろからあの歌が聞こえ、俺は思わず振り返り歌を探していた。深い深い闇が手招いている、闇の向こうに僅かに光りを見つけた俺は、気付けばその歌の聞こえる闇へ走りだしている。
――その先には死より辛いことが待っているかも知れませんが……貴方が選ぶ道なら。
微かに聞こえた母さんのか細い声を背に振り返らず俺は走っていた。そして闇の先に見えるその光に手を伸ばす。瞬間、体が光りに包まれるのを感じた。
「……っ……」
目を覚ます。どうやら夢を見ていたようだ。俺の選んだ道は果たして正しかったのか俺にはいくら考えても分からない。ぼうっとした意識の中体を起こし周りを見渡す。そこは薄暗い廃墟ビルの中のようだ、割れた窓ガラスが床に散乱しているだけで、そこに母の姿はない。
「やっと起きたか、ガキ」
壊れたドアの向こうから不意に男が現れ、近寄ってくる。俺は思わず体を強ばらせ男を睨んでしまう。
「生意気な目しやがって、……命の恩人に礼くらいしたらどうだ」
若い男は大袈裟な仕草でやれやれと首を振る。男はきっちりとネクタイを締め、質の良さそうな青みがかった色合いのスーツのようなものを羽織っている。それだけでも充分目をひくが男は艶のある黒髪で顔の左半分を覆い隠していて俺から見えるのは右目だけ、なんとも個性的な姿だ。艶やかな黒髪は腰の辺りまであり後ろで結ってある。邪魔ではないのかと他人事だが俺はぼんやりそんな事を思っていた。
だが、その突如現れた男からは敵意を感じない。狂った男とは違うようなので俺は少し警戒を解いた。俺を此処まで運んだ物好きはこの男だろう。
「……ありがとう」
「ぷっ、素直で宜しい! 子供は素直が一番だぜ?」
「…………」
「それにしても、女なんて久々に見たな。まだ居たのか、まあ冷たくなってたが」
男は母の事を言っているのだろう、俺は母がもう居ない事実を改めて実感させられる。チクリと胸が痛んだ。だがそれ以上何も感じなかったのはきっと、色んな事が一気に起きて心が麻痺をしているからなのだろう。
「…………」
「悪い、軽率だったな」
俺が黙っていたからだろうか、男は申し訳無さそうな表情をして、軽く髪を掻く。暫く居心地が悪い沈黙が続き俺は堪えきれず何か話題を探そうと口を開いた。
「……女を久々に見たとはどういう意味だ?」
「そのまんまさ、女は狂った男の恰好の獲物だからすぐ食われちまう……だから今じゃもうお目にかかれないのさ」
「野郎ばかりでやだやだ」と男は首を振り、不意に悪戯な笑みを浮かべた後男の大きな手が俺の頭を撫で回した。その手は優しく暖かい、失ったばかりの母を思わせる程に。
俺は助けられ、こうして命は救われたがこの先どうやって生き延びればいいのか分からないままだった。
俺はその暖かな手に抑え込まれた感情が溢れ出すのを感じていた。
「だが……、助けてなんて言ってない」
「……あ?」
「アンタは勝手に助けて良い気分になっているだろうが、俺はあのまま死んだほうが楽だったかもしれない」
俺が言った言葉のせいか空気が変わったように感じる。ピリッとした空気が張り詰め、男が腰からナイフを取り出し俺に突き付けてきた。
俺は思わず小さな悲鳴をあげてしまう。
「お前は確かに生きたいと俺に言ったはずだ。それに死ぬ事は簡単さ、人なんてすぐ死ねる」
男はナイフを突きつけたまま静かに話している、その瞳はゾッとする程鋭い。
「死にたくなくたって死ぬときゃ死ぬ」
「…………」
「それなのに、折角生き残ったってのに……勿体無い奴だな」
男がナイフを下げ、代わりに俺は思いっきり抱き締められていた。
「な、なに……しているんだ」
「そんな泣きそうな顔しながら、平然ぶるなよガキ。……泣きたいなら泣けよ、無理に感情を押し殺すな」
俺はつい先程聞いた言葉と似た言葉をかけられた事に、きっと情けないくらい驚きを隠せずにいるだろう。俺の凍らせた筈の悲しみも不安も簡単に溶けだしていく。気付けば俺の溶け出した感情は涙となって頬を伝っていた。一度溢れたらもう止まらなかった。
「何故、……母が死ななきゃならなかったんだ!」
「…………」
「俺はこの先どうしたらいいか分からないんだ、……それが怖くて怖くてたまらない」
「……生きる理由が見付かれば怖くねぇさ」
今まで黙って話しを聞いていた男がぽつりと俺に言葉をかけ、離れる。その瞳を見た俺は驚いた、男の瞳がひどく優しげだったからだ。だからだろうか、俺の溢れ出した感情がゆっくり落ち着いていく。
「理由……?」
「ああ、ここに居る間に見付けてみろ、生きる理由を。理由さえ見つかりゃ悩んでる暇なんてなくなるぞ?」
そう言って男は壁に寄りかかった。俺もその傍に近寄る。
複雑な思いを抱きながら、男の隣りに腰掛けた。この男は俺の凍らせた筈の感情を簡単に溶かした。男に対しての警戒心などとっくに消えているという事に、俺はまだ気付いていなかった。
理由を探せと言われても何も思い浮かばない。だが俺は、男に言われた通り理由を探すことにした。俺は、生きたいと強く思っていた。