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華は歌い続ける19

 仄暗い建物の中でも、その鮮やかな紅は映えた。見間違う筈がないそれに、俺の思考は疑問と自分の愚かさに埋め尽くされる。

 俺は後を付けられていたのだ。何故気付かなかったのだろうか。いくら自分を責めても状況は何一つ変わらない。

 次の瞬間気付くと視界の端にあった鮮やかな紅が勢い良く銀髪の男の背後から飛びかかっていた。

「シランをいじめちゃだめっ!」

 声変わりを迎えていない少年のようなヒヨの声が狭い建物内に響く。だが、キリの時と同じ様に銀髪の男は興味も示さずに身を少し屈めた。すると考え無しに勢い良く飛びかかったヒヨの体は銀髪の男の頭上を越え、俺の上さえも越えて鈍い音を立て落ちていく。


 辺りがシンッと静まり返った。ヒヨの動く気配はない。打ち所が悪かったのだろうか、ヒヨの安否を確認したくとも押さえつけられたままの俺は起き上がる事も出来なかった。

「ははっ! なんだァありゃ……まァいい、これでお前の周りの奴等は消した。これでお前はオレのものだ。そうだろ?」

 男を強く睨み付ける。情けないが今の俺にはこれしか出来なかった。

 だがそれが気に食わなかったのか男は目を細め冷ややかに俺を見下ろす。

「その目だ、恐怖しながらもオレに抗い、諦めながらも生きようともがくその目が気にくわねぇ……オレの感情を揺さぶるお前という存在そのものが気にくわねぇ……、お前なんてそこらにいる奴等と何にも変わらねぇ筈なのに、なんでこんなに」

 男の骨ばった青白く見える手が俺の喉を撫でる。ひくりと自分の喉が上下した。一度味わった恐怖を体が覚えているのだろう。そして次の瞬間その手が俺の喉を絞めあげた。

 最初は片手で加減をしながら、だが次第に指先に力が込められていき苦しさに俺は喘ぐ。何が良かったのか男は苦痛に歪んでいるであろう俺の顔を眺め、満足そうに嗤い再び今度は両手で首を絞めてきた。気道を完全に塞がれ、苦しさに意識が薄れていく。自由になった両手で必死に男の手に爪を立てるも、びくともしない。

「オレへの恨みを抱いて、オレの事だけを思って……逝け」

 消えかけた意識に死を覚悟するも、突如として酸素がどっと入り思わず咽せる。男の指が離れたのだ。だが理由が分からない。何が起きたか全く分からずに居るも、俺の上に居た男の姿が見あたらないという事だけはすぐに理解でき、軽く酸欠気味の頭で状況を見た。



 狭い室内に鈍い音が響いている。

 不気味な音に不安が掻き立てられ慌てて起き上がった俺の視界に飛び込んできたのは、銀髪の男の髪を掴み何度も壁にその頭を叩きつけているヒヨの姿だった。まるで幼子が与えられた玩具で遊ぶように、何度も何度も繰り返しコンクリートで出来た灰色の壁に男の後頭部を打ち付ける。

 男は抵抗しようと腕を伸ばし、ヒヨの細い手首を掴んでいるもヒヨは気にもせず壁に打ちつけ続けている。次第に銀色の髪に赤が混じり、やがて男は力無く打ち付けられる度に体を痙攣させ始めた。

 見ていられない。これ以上続ければヒヨは取り返しのつかない事をしてしまう。

「ヒヨ! もう止めろ」

 気が付けば俺は後ろからヒヨの手を掴んでいた。すると呆気なくヒヨは男の髪から手を離す。男はその場に力なく崩れた。動く気配はないが、まだ息はあるようだ。

「どうして? コイツはシランを傷付けるような奴なんだよ?」

 不機嫌そうなヒヨの声に俺は思わずヒヨを見た。その額から赤い血が流れているだけで普段と何も変わらないヒヨだ、それでも俺は拭えない違和感に眉を寄せる。

「やだなシラン、人をオバケか何かみたいな目で見ないでよ、ボクはヒヨだよ?」

 クスクスと笑いながらヒヨが手を伸ばしてきた。その手が頬に触れ撫でてくる、何度も慈しむように。その手の温かみもやっぱりヒヨだ。着ている着物も、青い瞳もすべてがヒヨを「ヒヨ」と示している。だが纏う雰囲気が普段と違っていた。

「……ヒヨなのか?」

「それ以外の誰に見えるの? ただ、ちょっと昔の事思い出しただけさ」

 そう言って自嘲したヒヨが、ゆっくり月明かりの差す入り口を見据える。

 やがて複数の足音が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけたのか血の匂いに誘われたのか、瞳が虚ろな己の欲に狂った男達が姿を現す。

「こんな時に」

 俺は身構え、床に転がるダガーを取りに振り返る、だがヒヨが一歩前に出た。

「……ヒヨ? 危ないから下がってろ」

「もうシランばかりに戦わせない、……その手を血に汚させない」

 凛としたヒヨの声とその背に俺は言葉を呑む。


 ヒヨがそっと両腕を広げる。まるで全てを受け入れるように、やがて空気が震えた。

 仄かに赤く色付いた形の良いヒヨの唇から次々に音が紡がれていく。それは鼓膜を揺さぶる、優しくも激しいあの時の歌。それをヒヨが歌い始めたのだ。直接心に響く歌を。

「あの時の歌……、ヒヨが歌っていたのか」

 歌詞は分からない、ただ優しい音が心にある感情を奪っていく。奪われた後、心にあるのはただ穏やかな限りなく無に近い感情。ふと狂った男を見れば、男達の瞳に光が宿っているのが見える。

 探していた歌に再び巡り会ったと言うのに、もっと聴いていたいと言うのに俺の意識は優しく溶かされていく。

 途切れる意識のなか最後に見たのは、いつか見た空のように青い瞳だった。




「ん……」

「目、覚めた?」

 目を覚ました時、俺はヒヨの膝の上に頭を乗せていた、最早こうして目覚める事にも慣れてしまった。慣れとは恐ろしいものである。目を覚ました俺の顔をヒヨがのぞき込んできた。ヒヨ越しの空にぼんやりとした月が見え、ここが建物内ではない事が分かる。俺はゆっくりと起き上がり周りを見た。

 銀髪の男も狂った男も居ない。全てが夢だったのではないかと思わず錯覚してしまいそうになる。誰も居ない、建物もろくにない灰色が支配する寂れた街。まるでこの世界に俺とヒヨだけ取り残されたかのようだ。だが、これは決して夢ではない。

 意識が途切れる前聴いたヒヨの歌は、確かに俺が探し求めていた歌だった。

「さっきのあの歌……あれはヒヨしか歌えないのか?」

「そうだね、ボク以外にあの歌を歌える人はもう居ないからね」

 そう言ったヒヨの表情はどこか寂しげに見える。「もう」と言う事は以前は誰か他にも歌える者が居たのだろうか。言葉を待つように俺は静かにヒヨを見る。

「どんなに人が狂って、建物を破壊し、人間同士が争い無意味な略奪を繰り返し、最後は爆撃で街ごと吹き飛ばすなんていう安易で異常な事が当たり前に起きる世界でも希望を捨てない人間が居たんだよ、自分より他人を思いやる人間が」

 そう言ったヒヨはどこか呆れたような表情をして空を見やる。俺もつられて空を見るが、深い闇に浮かぶぼんやりとした月しか見えない。

「まあ、それはボクの両親でね。精神科医をやっていた二人だから人が狂ったのは精神疾患の一つで治す方法が必ずあるって治療法を研究してたんだ、それでたどり着いたのが音楽療法……あの歌だよ」

「だからあの歌を聴くと狂った男が反応を示すのか」

「うん、高ぶった感情を沈静化させる力があるんだよ、簡単に言えば元の状態まで戻せる力がね、両親にはあったの。その歌にたどり着いた二人は命が尽きるまで歌い続けた。だけど無理だったんだよ、二人の人間がどれだけ歌おうとも最早どうにもならなかったんだ」

 視線を空から俺へと移したヒヨの青い瞳からは、何の感情も窺えない。

「それでね、二人を失ったボクは歌を引き継ぐ事もなく、一人静かな場所を探していたんだ。そしたらどこからか助けてっていう声が聞こえた気がしてその声の主をボクは何故か探したんだ、それがシランだった」

 実際その時に声を上げていたかは覚えていない。俺の縋るような祈りがヒヨを呼び寄せたのだろうか。だとすればこれは奇跡と呼ぶに相応しいだろう。いや、運命だったのかも知れない。

「最初は面倒ごとに巻き込まれたくないから無視しようと思ったんだけどね、未だに不思議だよ……なんでか気付いたら歌ってた、助けてって縋る君を助けたいって心から思ったんだ」

 不意にヒヨの手が俺の頬に触れ、思わず体が大袈裟に反応を見せる。

「あの時はボクも小さかったから、沈静化は出来なかったんだ……ただ男達の気を引く事しか出来なかった。その後の記憶は曖昧で覚えてないけど、多分誰かに頭でも殴られたのかな。歌も記憶も全部忘れてもね、シランの事だけはボクの記憶に微かにだけど残っていたんだよ」

「……ヒヨ」

「まあシランの事どころか自分の人格や言葉すらも忘れちゃってたけどね。……それにしてもシランはあの時からあまり変わってないね。すぐに分かったよ、シランだって。ああ、身長は伸びたみたいだけど」

 ヒヨはタツミの所を抜け出した。着物を着せるのは気に入った証。タツミの事だからきっと気に入った相手であるヒヨを大切に扱っただろう。それに面倒見の良いレンも居たんだ、きっとあの生活は悪いものでは無かったのかも知れない。だがヒヨは危険を冒してタツミの元を離れた。それは記憶や言葉を忘れてもヒヨの中に微かに残っていた「俺」という存在を捜すためだったのかも知れない、なんて俺は自惚れているのだろうか。

 だが、だとすれば互いに互いを探し求めていた事になる。ヒヨの歌は間違い無くあの時の、俺を救った歌だ。俺はずっとヒヨを探していたのだ。

 俺は頬に触れるヒヨの手に手を重ねた。

「俺はずっと……アンタの歌を探していた…」

「歌だけ? ボクには興味ないの?」

 ヒヨが悪戯っぽく笑い、俺の顔を覗き込んで来た。思わずその言葉の意味を考えてしまい顔に熱が溜まっていくのを感じる。

 するとヒヨはクスクスと楽しげに笑って俺から離れた。

「ボク、行かないと」

「行くってどこにだ? 行くなら俺も」

「シランはダメだよ、待ってなきゃダメ」

 そう言ってヒヨは、唇に人差し指を当ておどけて笑う。俺を安心させようとしているのだろう。しかしヒヨによって気付かされ芽生えさせられた新たな感情が、ヒヨから離れることを酷く拒み、俺は嫌だと情けなくも首を振った。

 これでは俺が以前のヒヨみたいじゃないか。ヒヨの立場になってみて、置いていかれる悲しみを感じた。この悲しみを俺は知らない訳じゃなかったのに、あの時俺は--。

 温かなヒヨの手が俺の手を握り締め、指先が絡み合う。

「この手を血に汚させたりしない。シランを、もう悲しませたりしない……そんな世界をボクは作りたいんだ」

 空のように澄んだ青いヒヨの瞳を見てしまえば、どんな言葉も無意味に思えてしまう。それほど強い意志が、ヒヨの瞳に宿っている。

「だが……ヒヨを一人にしたくない。俺も一緒に行きたい」

「ダメだよ、シランはボクが変えていく世界を見る役目があるんだから。だから待ってて、世界を変えたらまた会いに来るから」

 簡単にヒヨは世界を変えると言う。もちろんそんな事が簡単に出来るとは思えない。だが不思議とヒヨの自信に満ち溢れたその言葉を聞くと、ヒヨなら実現してしまうのではないかと、そう思ってしまう。

 今までにないくらいにヒヨが優しく笑って、絡み合った指がほどけた。

「俺は、ヒヨの歌を探すことを生きる理由にして今まで生きてきた。……理由が無くなってしまったら俺はどうしたらいいか分からない」

「なら、ボクとの再会を生きる理由にすればいい……、きっと再び会ったときシランは理由なんてなくても、生きたいと思えるようになるから」

「なら、もう一度あの歌を聴かせてくれないか?」

 ヒヨは優しく微笑んで、ゆっくりと唇を開いた。その唇から紡がれる澄んだ歌声。耳に心地よい音。

 俺はその歌をずっと聴いて居たいと切実に思う。不安を溶かす音、前に踏み出す勇気を与えてくれる。

 歌い終えたヒヨが俺に背を向け歩き出した、俺は手を伸ばす。しかし何も掴むことなく、ただ小さくなっていくヒヨの背を見送る事しか出来なかった。

 ヒヨと出会ったあの日を俺はゆっくり思い返していた。


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