華は歌い続ける01
母さんの手に引かれ俺は夜の街を走り続けていた。母さんに手を引かれ走ることに気恥ずかしさなんて感じてる暇はない。
「なんで……」
俺の声は複数の足音と男達の奇声にかき消されてしまった。
どれほどそうして走り続けたのか分からない。走り続けた足は感覚を失っていて、今にも倒れてしまいそうだ。それでも尚、俺達は数人の男達に執拗に追い回され続けていた。
「もう、無理……走れない」
「頑張るのよ、あと少しだから」
あと少しとはどのくらいなのだろう。だが、立ち止まればその瞬間に死んでしまうかも知れないという事だけは、俺にも分かっていた。
母さんは俺の手を強く引き走り続ける。母さんは女で一人俺を育ててくれた、優しく逞しい自慢の母親だ。色白で、よく美人という言葉で褒められていたのを聞いたことがある。
普段は朗らかに笑ってばかりいる母だが、今ばかりはその顔も強ばっていた。
「……どうして」
どうして俺達は追われているのだろう。少し前まで、自由に食べ物を食べて好きな時に温かな部屋で眠ることだって出来たのに。ろくな食事をしていない俺の体力はもう限界をとっくに越えていた。
俺が産まれた頃はまだ世界は表面上穏やかだったようだ、裏で何があったかなんて俺は知らなかったし知る必要もないと思っていた。誰かが異常気象だとか、米が水が足りないと言っていたが、それでも食事は、食べれていたし命の心配などしなくて済む生活を送っていて、それが当たり前で、ずっと続くものなのだと思っていた。
それでも多少不安を抱えていたが、街には活気が溢れ人は常に豊かさを求め追求し続けていた。誰もが今日より明日が、明日より未来がもっと豊かなものになると信じて疑わなかっただろう。俺もそんな未来を夢見ていた。
「あ……」
昔公園だった筈の場所の前を通る。その時一瞬取り残されたボールが目につく。
俺が物心ついた頃にはもう、外に行くことは禁止されていた。でも母の言い付けを破り一度だけ外に出たときに、この公園に来てみたが、ここで遊ぶ者は誰一人居なかった。昔は遊具を取り合っていた筈なのに。急速に不安が募り俺は慌てて家に戻ったのをよく覚えている。
どうして外に出れないか母さんに問うと、麻薬という人を狂わせる薬を使っている人が沢山居て、その薬を使った人は人を襲うのだと教えてくれた。 特に俺と母さんが暮らしていた都心部の荒れ具合は酷くて、それまで俺達家族と表向き仲良くしていた隣家の人間達も一人、また一人と都心にあるこの街から離れ少しでも安全と思われる地方へと逃げた。
逃げ場の無い俺達家族に揃いも揃って「あなた達も早く逃げなさい」と言い嘲笑っていたが、母さんの祖父母は死に、母さんには兄弟が居ないので親戚は居ないに等しい。父の家族とは仲良くなくて、頼るあては何処にもない上に母さんは父の思い出が詰まったこの家からどうしても離れる事が出来なかった。
俺達には何処にも行く宛が無かったのだ。
朽ちていく街に留まった俺達の生活は厳しいものとなっていく。
「今夜もこれだけ?」
夕飯として出されたのは、野菜の切れ端。それを見て俺は思わず呟いてしまった。そんな言葉に母さんは申し訳無さそうに、目を伏せる。だから俺はその日からお腹が減ってもなるべく口にしないようにした。
何故食べ物が無いのか、それも母さんに聞いてみた事がある。すると母さんはちょっと難しい言葉でこう教えてくれた。
「国を立て直そうと、偉い人達がね、何度も色んな政策を行ったせいで、生活は余計悪くなっちゃったのよ。だからご飯、いつも用意できなくてごめんね」
俺達はろくに食事も出来ず、いつ終わるのかわからないこの悲惨な状況に毎日怯えながら過ごしていた。そんな時、大きな地震が起きてたくさんの建物が倒壊した。俺達の家は奇跡的に倒壊は逃れたが、家具は使い物にならなくなってしまった。その日からまだ微かについてた電気がついに途絶えてしまい、街は夜になると真っ暗になってしまう。それが凄く怖く感じた。
肉体的にも精神的にも誰もが追い詰められていた。こんな日々を続けていたら正常でいる方が難しいとさえ思える。
そんなある日、食事として四角く少し厚めのクッキーのような物が出てきた。
あんまり美味しくは無かったが、野菜の切れ端よりは良い。だが何故急にこんな物が手に入ったのだろうか。
「母さん? 髪どうしたの」
「ごめんね」
母さんの長く綺麗だった黒髪が短く切られていた事に関係があるのかと、俺は首を傾げる。不思議に思い理由を聞いても母さんは曖昧に笑うだけで答えてはくれない。
母は髪を切った頃から、日に日に目に見えて痩せこけていった。
俺は、薄々気付いていた。母が知らない男にその身を売り俺の為に食糧を集めていてくれていたという事に。
だが、それは俺が寝てるときに行われてるみたいで、俺にはどうにも出来なかった。 夜中、声を押し殺し泣いている母さんに、俺はただ寄り添う事しか出来なかい。
ふと、母さんが何かを祈るように握りしめている事に気づく、それは父の写真だ。強く握り締められたせいで写真は皺になっている。 写真の中で笑う父の笑顔が酷く歪んで見えた。
それから暫くして、俺が起きている時に、男がやってきた。
「よう、お前の母さんはどこだ」
「アンタは誰だ?」
男は俺に自分が「ディオ」の創設者だとか豪語し厭らしい笑いを浮かべる。
当時、外の情報が上手く入って来ないという状況の中でも、「ディオ」という言葉は知っていた。政府がこの国を見捨てる最後の時に、自衛隊等の組織に属する志願者と一般人による有志を募り結成した、軍事主力部隊「ディオ」という組織があるらしい。
母さんが、その体を差し出した相手は、その「ディオ」の自称創設者という男だった。だが、確かな証明はどこにもない。それでも母さんは、藁にも縋る思いでこんな胡散臭い男の誘いに乗ったのだろうか。
男は俺達家族と、この街を守ることを約束し、母を隣りの部屋に連れて行く。俺の横を通り過ぎる母が、俺には泣いているように見えた。本当にこうするしか無かったのだろうか。俺はなすすべもなく、母の悲鳴じみた声に耳を塞いだ。
男が去った後、床に眠る母の傍にはなけなしの食糧と水が置いてあった。
俺が近寄ると母さんは微かに目を覚まし、虚ろな瞳の母さんが笑った。もう俺達は限界に近かった。
月明かり以外、明かりの無い不気味な夜。
折り重なった家具の上に肩を寄せ合い一枚の汚れた毛布にくるまり眠っていた俺と母さんは、不安を感じる程静まり返った街の静寂を破る奇声に、目を覚ました。
俺が窓の外の様子を恐る恐る見ると亡霊のようにさ迷う狂った数人の男達が、俺達の住む街へと現れ欲のまま破壊行動を始めているのが見えた。
灯りの無い、薄暗い街を彷徨う狂気に満ちた存在を、月明かりが照らす。男達の姿は確かに人の形をしているが遠目でも解る濁った赤い瞳、奇怪的な行動、その全てが獣じみていて、同じ人間だと思えなかった。
街がいつもに増して静まり返っていたのは、このせいだったのだ。俺は母さんを見る。
「大丈夫よ、あの人が、来てくれるわ、助けてくれるって言っていたもの」
「本当に、来る?」
「来るわよ、大丈夫。ここに居れば安全よ」
すっかり逃げる機会を失った俺と母は男達が過ぎ去るのを祈った。しかし祈りも虚しく、男達は一軒一軒ドアを壊し中に入り、隠れていた住民を引きずり出し、その体を簡単に引き裂いた。助けはまだ来ない。
俺は窓からその光景を見る。実際はその光景ではなく男達の動きを見ていた。逃げるタイミングを窺うためだ。それでも口からは悲鳴が洩れそうで、慌てて両手で口を塞ぐ。落ち着くために深呼吸をした。嫌な汗が背中をつたうのを感じる。俺は助けなど端っから期待していなかった。いざとなったら自力で逃げなくてはならないと分かっていた。俺が母さんを守らないといけないんだ。
狂った男達に躊躇いはない、人を人として見ているだろうか。
男達は限界と疲れ知らずといった様子で、躊躇いも見せず、逃げ遅れた隣家の人間の腕や足をへし折った。しかし狂ったがため、自分が持つ力を扱いきれていないのが分かる。男達の動きには無駄が多い。
それでも、男達の手で人が人ではない物体へと簡単に変えられていく姿は恐ろしい。吹きあがる深紅が灰色のアスファルトを紅く濡らす、玩具のように引きちぎれ壊れる体。獣のような男の唸り声。その光景は現実味を感じさせない。まるで全てが作られた映画のワンシーンのようだ。吐き気がする。
その時不意に頭に何かが触れた気がして、窓から視線を外す。気付くと母さんが俺の頭を優しく撫でてくれる。
そこで俺は、自分が震えているという事に気付かされた。これでも母さんを不安にさせないようにと気丈に振る舞っているつもりだったのだが、それはどうやら本当に"つもり"だったようだ。
震える俺に母さんは何時もの優しい「母親」の顔で笑いかけてくれた。俺は母さんのこの笑顔を守らなくてはならない。
――それは父と交わした最初で最期の約束だから。
流行り病に倒れた父の最期の言葉は「母さんを守ってくれ」だった。
それは父さんの勤めだろう。そう言いたくなるのを俺は堪え父の最期を母と看取った。最後に弱々しい動きで父のごつごつした手が、俺の母譲りな黒髪を優しく撫でた事は、昨日の事のように覚えている。
あの日からきっと俺は子供らしくなくなっただろう。母さんに迷惑をかけないため甘えを捨て、年相応の我が儘を抑えつけ、極力感情を表に出さないように心掛けてきた。
今だってそうだ、本当は泣きたいくらい恐怖している。だが俺が泣くわけにはいかない。でもきっと目は涙ぐんでいるのだろう。視界が歪んでる。
「貴方はまだ十二歳だというのに、一人で何でもかんでも抱えすぎよ」
気付けば、母さんの手が俺の手に触れる。それが温かく思わず瞳が潤むのを感じて俺は思わず母さんから目を逸らした。だが恥をしのんで一瞬母さんを見ると、嬉しそうにしていた。
「なんで、嬉しそうなんだ?」
「あなたが表情を見せてくれるからよ。泣きたいときは泣きなさい。あの時お父さんが何て言ったのかはわからないけど。貴方だけが頑張る必要はないのよ」
だが、いつもは優しく大きく感じる母さんの手も、その時ばかりは僅かに震え、緊張からかじっとり汗ばんでいた。
助けは未だに来ない。こうして逃げずに隠れている事は正しいのだろうかという疑問が浮かぶ。
母さんも気付いていたようだ。
騙されたという事に、そして俺達は見捨てられたのだという事実に。
男達に捕まれば間違い無く殺される。慈悲などは微塵もない筈だ。ここに留まり、来ない助けを待ち続ければいずれ、俺達も命を弄ばれるに違いない。
俺は母を見た。母さんは黙って小さく頷く。それを合図に俺達は一か八かの賭けに出た。
男達が他の家に入っている間に俺達は裏口から全速力で夜の街へ飛び出す。
しかし呆気なく足音に気付かれた俺達は、すぐさま追われる羽目となった。
血に濡れたアスファルトを蹴り上げ必死に走り続ける。上手く肺に酸素が届かない。苦しい。だが立ち止まる訳にはいかない。逃げなくては殺される。でも何処へ逃げれば良いのか、どれだけ逃げれば良いのか、母も俺も分からなかった。
公園の前を通り過ぎ、俺の走り続けた足が限界を迎えた頃、男の手が母さんの白く細い腕を掴んだ。
瞬間、しっかりと握られていた筈の俺の手が放され、勢いあまり俺は惨めに地面に転がる。
何かが砕ける音。吐き気を誘う、独特の匂い。母の悲鳴。
顔をあげると、そこに母さんは、……俺の知る「母」の姿はなかった。
代わりに母さんだったであろう物が転がっている。
それが母さんだと理解するのに時間が掛かった。母さんが物言わぬ骸に成り果てたという事実を、俺の脳が拒絶し、理解する事を拒んだのだ。こんな一瞬で先程まで動き、会話をし、微笑んでいた筈の人間が人形のように変わり果ててしまえるものなのか。思考が追い付かない。
絶命し、目を見開きこちらを見ている母さんはまるで「逃げなさい」と言っているようだ。
地を濡らす母の血。俺は何も出来ずただそれを見ている事しか出来なかった。声すら出ない。体が自分のものではないくらいに震え全く動かない。母に近寄ることも、この場から逃げる事も出来ず俺はただ震えていた。俺は力が抜けてその場に座り込んでしまった。唇が震え、ガチガチと歯が鳴るのが聞こえるが、それが自分のものなのか理解出来ない。
こみ上げる吐き気を抑えるのが精一杯だった。
ぼんやりとした月明かりが妖しく男達を照らす。
照らし出された男達の姿はまさに狂った獣そのものだ。動かなくなった母の体を数人の獣が貪っている。
だが一人、母には興味を示さずゆらりと立ち上がった銀色の髪の男がゆっくり振り返り、嗤った。
その男の狂った赤い瞳が俺をしっかりと捉え、離さない。
俺はその男に全てを奪われたような錯覚に陥る。呼吸すら男に奪われたのか息苦しい。
――――殺される。
その言葉が頭の中を埋め尽くす。同時に俺の中の警鐘が鳴り続け「逃げろ」と脳がひっきりなしに命令を出すが、体は言うことをきかずにただ震えているだけだ。
男がゆっくりと近寄って来る。足音が俺を追い詰める。俺は、それこそ狂ったように助けてと心の中何度も唱えた。
その間にも、男との距離が縮む。