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阪井の体に生命の危機がないことを確認してから、外崎は泣いていた。正確には、泣きじゃくっていたと言った方がいいのかもしれない。あまりに泣き止まないので、田中はお腹の赤ん坊のことが心配になる。
「田尻さん。偽物は偽物なんですけど、趣味が悪すぎますよ」
猪股が床に落ちていた松井のナイフを拾う。そして指で刃先を押すと、赤い液体がその都度、勢いよく飛び出す。田中は染みにならないかと思ったが、この状況では、誰もそんなことを気にする様子はなかった。
「それには発信器もついてるぞ。これは俺からのサービスだ」
田尻は言う。青汁に枕が付いてくるように、オモチャのナイフには発信器が付いてくる。おかしな時代だな、と田中は思った。
「だったら、僕がずっと外で張り込んでたのは、意味がなかった、ってことですか」
猪股がむくれる。意味ならあるだろう。お前にとっては、と田尻は返した。
この二人が自分の知らないところで何をしていたのか、田中は考えがつかなったが、帰りに全て話してくれるだろうと思い、聞くのをやめた。
「どうなってんだ。意味が分からねぇよ」
阪井を刺したときから、放心状態で膝を付いていた松井が、唸るように言う。
意味が分からないのは、田中も同感だった。
「こいつの腹の子は、俺の子じゃないんだろう」
否定を望むように松井は阪井を見たが、阪井は目を伏せる。つまりそれは、肯定だった。
松井が項垂れる。
「俺、これからどうすればいい?好きなやつを失って、友達まで刺したんだ。どうすればいい」
部屋にいる誰に答えを求めるでもない独り言を、松井は繰り返して呟いた。田中は内心、驚いていた。松井は自分が思ったより悪い人間ではなかった。ただ感情の天秤が過度に傾くだけなのだ、と。
その様子を見て、ゆっくりと田尻が松井の元へ近づく。手にはいつの間にか、USBが握られている。
あの時のだ、と猪股が言ったが、田中にはいつのことだか分からなかった。
「これはお前を制す毒だと思っていたが。違ってたな、こいつは無毒だった」
田尻が猪股に向かって微笑んだ。父親が子供に向けるような笑みだったので、こんな顔もするんだな、と田中は目を丸くする。
「この中には、お前がクラッキングした企業の帳簿が入っている」
松井の顔色が青ざめていく。しかし田尻は責めるような口調ではなかった。あいつらも中々、悪どいことをしてるな、と笑った。
「よく一人でこんなものを調べられたな。相当腕のいい証拠だ」
そう言って、田尻は松井にUSBを手渡す。
「俺に手を貸すつもりはないか。時々、仕事を手伝ってくれるだけでいい」
そこで田尻は部屋にいる全員を見た。
「みんな、それでいいか?俺は仕事が捗るし、こいつに見張りがつけば、安心だろう」
阪井と外崎は頷く。猪股は驚いて固まっていた。
これは面白いことになったな、と田中は心で笑った。
USBを見つめながら、しばし考えた後で、松井が呟く。
「よろしく頼みます」
俺は田尻だ、と田尻は微笑む。
「よろしく頼みます、田尻さん」
松井が田尻の手を借りて、ようやく立ち上がる。そして阪井と外崎を見て、その後に外崎の腹部に目をやった。
「本当に悪いことをしたな。二人とも幸せに」
そう言い残して、振り返り、二度とこちらの方を見ないまま、部屋から出ていった。その姿はやはり寂しそうではあったが、しっかりと前を向いているようにも見えて、田中は安心する。
「そろそろ俺も帰ることにするよ」
そう言って、田尻も玄関へと歩き出す。
「色々とありがとうございました」と猪股が頭を下げる。
そして頭を上げた猪股の表情を見て、田中の鼓動が速くなった。なんだ、人間が輝くにはスポットライトなんか要らないのか。こんな薄暗い蛍光灯に照らされても、彼はこんなに輝いてるじゃないか、と。
清々しい笑顔を見せる猪股に、田尻も同じことを感じたのか、目を少し見開いた後で、軽く笑った。
さて、と田中は思った。さて、どうしようか。
田尻が部屋から去り、今は猪股と田中、阪井と外崎しかいない。いよいよ、自分たちが此処にいる理由はないように思えた。
「そろそろ私たちも帰ろうよ。二人とも、もう安心でしょ」
猪股は一度、外崎を見た後で頷く。その視線に気づいて外崎は、礼を言って頭を下げた。
そして、どうして、と言う。
「どうして見ず知らずの私たちに、ここまでしてくれるんですか」
その言葉に猪股が苦笑する。覚えてないか。隣にいた田中に、辛うじて聞こえる程度の声で呟く。そして何と答えようか迷い、腕を組む。しばらくして、何か思い付いたように表情を明るくした。
「一つ質問していいですか。外崎さんは泳げます?」
田中は何を言ってるんだと、拍子抜けした。そして猪股が泳げないことを思い出す。
この前、猪股の祖父の話をしたときに聞いたことだった。
そこでふと、考えが浮かんだ。松井と阪井が友人だと知った時に感じたものと似ていた。
「そういうことね」と思わず、小声で洩らす。
猪股が外崎を助けたいと、こだわってた理由。それは彼が外崎に助けられたからじゃないか。いつ?恐らく、小学校の頃に溺れたとき。
猪股を泳いで助けた女の子は、外崎だったのだ。つまり彼にとっての初恋の人となる。
根拠はなかった。これはあくまで推測でしかない。そして田中の願望でもあった。そうであればいいな、という願望だ。
「泳げます。小学校の時には全国大会にも出ました」
しばらく虚をつかれた顔をしていた外崎が言う。
やっぱり、すごい速かったもんなぁと、猪股は思い出したように呟く。やがて、回りを気にしない大きな声で笑った。その姿を見て、田中もつられて笑ってしまう。
あの時の外崎はどんな思いで猪股と小さい子供を助けたのだろう。きっと今の猪股と同じ気持ちだったんだろうな、と田中は思った。
「それが理由ですか?」
信じられないといった様子で、外崎は言う。
「そうです。でも僕にしたら十分すぎる理由ですよ」
まだ笑いが収まらないまま、猪股は答えた。それは田中にとっても、十分な答えだった。
猪股が床にゆっくりと腰を下ろす。そして後ろに両手をついて、天井を見上げながら言った。
「よかった。やっと助けられた」
その声は、田中が今まで聞いたどんなものよりも、優しい声に聞こえた。
まずは、『優しい声』をお読み頂き、ありがとうございました。加えて、こんな稚拙な文章で、すいませんでしたという気持ちです。
何を書こうと考えたときに、探偵物にしようと直感で思ったのですが、あまりその必要がない話になってしまいました。
またオチについても、最初は何も考えないで執筆していたので、登場人物が揃ったときに、こうやって繋がってれば面白いんじゃね、って感じでした。
別に本になるわけでもないし、思い付きでいいや、と。そんな状態で一応、僕の処女作は仕上がりました。
いきなりですか、僕には趣味がありません。小説を読むことは読むのですが、月に一冊から二冊くらいを読む程度なので、恐らくは趣味といえるものではないでしょう。
あとはゲームでしょうか。これは結構してます。これを書く前、ついさっきもしてました。しかし、「それって趣味なの?」と、昔好きだった女性に怪訝そうに言われた為、公には口にしてません。
でもひねくれている僕は、ドライブが趣味と、ゲームが趣味は似てると思うのです。
操作という面では、ハンドルとボタンだって同じだし、景色だって、画面で流れます。
話が逸れました。何が言いたいかと言いますと、小説を書くのを趣味にすればいいんじゃないか、と思ったのです。
しかし考えが甘かったです。話を考えて、文章に起こす。言葉にすれば簡単ですが、すごく労力を使いました。読み返すと、もっと描写に対して踏み込んで書かないとダメだな、と感じてます。
小説家ってすげぇな、とつくづぐ思い知らされました。
これからは気が向いたときに、少しずつ執筆していこうと思います。
今度はこの話に出てくる『田尻』を主人公に置いて、短編を書きたいな。




