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ファミレスの店内では、猪股の言葉だけが響いていた。実際には、他の客もちらほらといたので、田中には猪股の声以外にも、後ろのカップルの痴話喧嘩が聞こえてはいる。
しかし自分と向かい合って座っている松井の表情を見ると、まさにそのような表現がぴったりだった。
しばらくの沈黙が続いた後で、「そうか」としっかり聞いていないと、ため息と勘違いしてしまうような声で、松井は呟いた。顔には落胆が隠せない。
「すいません」
猪股もまた、ため息混じりに言う。
「いや、いいんだ。こっちだって、手がかりのない状態で頼んでる。こんな短期間で、何か掴めるなんて思ってはないさ」
自嘲ぎみに、松井が苦笑する。
一週間が過ぎようとしていた。松井が猪股に、依頼をしてからの期間だ。
その内、何事もなかったように帰って来るのではないか、と始めは田中も思ってはいたが、松井曰く、この間も帰ってくる所か、電話もなく、こちらから掛けても通じないという。
「それでも誘拐のような、事件に巻き込まれてはないんだろう?」
松井は真っ直ぐと鋭い刃物のような目で、猪股を見る。少しの嘘でも、見逃さないといった視線だ。
彼には、自分から外崎が離れていった、という考えは、一厘でもないんだろうと、田中は思った。そういった自信を松井は纏っている。
「ないですね」と猪股が言う。
「あなたが最後に外崎さんを見た後、彼女は友人と会ってます」
友人、に松井は一瞬だけ眉を上げたが、それを察した猪股が、「女性ですよ」と付け加える。
「その友人の話なのですが、実は外崎さんは一昨日、一度だけ彼女と会ったそうです。変わった様子はなかったと言ってました」
「あいつに会った?」と、松井が言う。
「えぇ、会ったと言ってました」と、猪股が答える。
呆気に取られた後、すぐに松井は威嚇するような口調で言う。
「あいつに会ったって」
猪股は驚いたように、田中を見た。田中はげんなりとする。
松井の言いたいことはすぐに分かった。「何で、そのことを一番に言わないんだ」
案の定、松井は田中が心で思ったことを言った。
「外崎さんが何処にいるのか、分からなかった。それが重要だと思って」
猪股の言葉は蜜を吸う蜂のようだった。松井は怒りを吸われて、枯れた花のような顔をする。
「あいつが元気なことが分かっただけで、よしとするよ」
すっかりと、怒る気が失せたようだ。無理もない。恋人である田中なら、ある程度は慣れっこのことだが、時折、猪股は驚くくらい間の抜けたことを言う。
「明日も引き続き、調査を続けますので」
「そうか」と、今度は安堵が滲む声で、松井が言う。きっと外崎が、普通に生活を送っていることへの安堵だろう。
思慮が浅いな、と田中が思う。その友人が嘘を付いているかもしれないし、もしかしたら犯人かもしれない。
そう思ったのは、つい最近、そういったミステリーを読んだからだった。
猪股の職業上、田中はそういった小説を読む機会が増えた。もちろん、自分の人生にそういった類いのことは起きないだろうとは、思ってはいる。
実際、猪股も「事の真相なんて、実際は大したものじゃないことが、多いんだよ」と、笑っていた。
猪股の軽自動車は走ることなく、ファミレスの駐車場に止まっていた。真冬の車内のヒーターは心もとなく、中々、暖かみを感じられなかったからだ。
ワイパーがまだらにフロントガラスに付着した雪を払うのを運転席で見ながら、田中は言った。
「あれ、どういうこと」
「何が」
猪股は、カーラジオから流れる音楽を目を瞑って楽しんでいた。昔、ビールのコマーシャルで流れていた、アメリカのロックバンドの曲だった。
「何であんな大事なことを、一番に言わないわけ」
松井と同じことを言ってるよ、と猪股は言う。
「僕は大事だと思わなかったからさ」
「何それ」田中はうんざりする。
「だって本当に大切なのは、外崎が今どうしているかってことでしょ。二日前に外崎がどうしていたか、だなんて重要なことじゃないよ」
「松井にとっては重要だったのよ。第一、依頼人でしょ」
「そうだけど。僕は松井より、外崎に比重を置いている」
探偵として駄目かな、と猪股が素直に聞くので、駄目だね、と素直に田中は言った。
そもそも、そこまでこだわる理由が分からない。
「松井が出てきた」
そう猪股が呟いたのは、車が暖まってきた為、田中がアクセルを踏もうとする時だった。
友人と会う約束があるとのことで、二人がファミレスを出た後も、松井は店内に残っていた。
何となくアクセルに乗せた足を離して、田中は松井の動きを確認する。猪股も同じように、松井の方を見つめていた。
出入り口のドアをゆっくりと開けて、松井が店内から出てきた。肌を刺す冷たさに肩をすぼめながら、ダウンジャケットのポケットに手を入れて、小走りに歩いてくる。
二人の車に気づいていないのか、または気づいていたとしても気にしていないのか、一度もこちらに目を向けることはない。そのまま、駐車場をほぼ一直線の導線で、車の助手席に乗り込んだ。
その黒のトールワゴンは、松井と同年代が好むような装飾や、フロントガラス一杯にぬいぐるみが置かれているわけでもなく、本来の姿で薄暗い駐車場に佇んでいる。
ライトで間接的に照らされていて、目を凝らせばようやく見えるくらいの松井は、口角だけを上げて笑っているようだ。清ましているようでもあるし、無理に笑顔を作っているようにも、田中には見えた。影になっていて、運転席の人物はシルエットしか分からない。
男性かな、と田中は思った。今の状況で、松井が外崎以外の女性と会うとも考えられない。それにシルエットではあるが、骨格は案外、がっちりとしているように見える。
しばらく雑談した後に、松井を乗せた車は、走り出した。そして出口付近に止めていた二人の車の前を通る。
二人の車のライトに照らされて、運転席に座る人物の顔が一瞬だけ、暗闇から浮かび上がる。
その横顔に見覚えのあった田中は、思わずその名前を叫ぶ。
「阪井さん」
猪股は自分の隣に座る田中が、超能力者になったかのように驚いて、振り向く。
「阪井って、誰?」
「知り合い、でもないか。この前、色々とあって一緒にお茶を飲んだ人」
「あ、浮気だ」
猪股がわざとらしく頬を膨らますが、別にやましいことはなかったので、「そういうのはいいから」と、田中は強気に出た。
「二人って知り合いだったんだ」
一週間ですっかりと阪井の存在を忘れていた田中は、彼を会った日のことを、思い出した。コーヒーを飲む姿が格好よかったが、相変わらず、運転している姿も絵になる。
そしてあの時は嘘をついている印象があった。それと誰のか分からない化粧品。
そこで田中の心に一つの仮定が浮かんだ。
「もしかして、そういうことかもしれない」
自分自身に確認するように呟く田中を、猪股は気持ち悪がって見ている。
阪井の車は、こちらに気づくこともなく、国道へと消えていった。
「そういうことって、どういうこと」
お気に入りのおもちゃを取られたようにむくれた猪股は、自分だけ取り残された状況に異を唱える。
田中は今浮かんだ仮定を、猪股に伝えた。
「正解!」
クイズ番組の出題者のように高らかな声で、猪股は田中を指差した。しかし田中が嬉しく思えないのは、自分の仮定は事実とは違う気がしたからだった。
しかし気にする様子もなく、猪股は旅行の予定を決めるように言った。
「阪井のことを調べてみよう」




