*4*
翌日の朝の十一時、田中は二日酔いで痛む頭に起こされて、目を覚ました。自分の部屋の天井でないことに驚いたが、すぐに猪股の部屋の天井だと理解する。
ベッドからやっとの思いで這いずるように出て、冷蔵庫まで向かう。ミネラルウォータを取り出し、一気に半分ほど飲んだ後で部屋の主がいないことに気づいた。
「松井と外崎のアパートまで行ってくる」
そう言って、部屋を出ていったことを田中は思い出した。確か一度だけ、トイレに起きた時だった。
いってらっしゃい、と田中が言うと、猪股はため息をついていた。
「本当に田中は猫みたいだ。昨日は勝手にやる気だったのに」
「お酒で情熱が醒めたの。それと私は逃げたりしないから、夕飯は適当に私の分も買ってきて」
「はいはい」
一緒に来て欲しかったんだろうか、とも思ったが、そう考えてる内にふと二度寝をしてしまって今に至る。
犯人は現場に戻る、とも猪股は言ってた気もする。
しかしこの場合の犯人に当たる人物は外崎であるし、現場は二人のアパートということになるので、そしたらあなたは必要ないんじゃないですか、とつっこんだような、つっこまなかったような、とりあえず曖昧な記憶だ。
そこまで思い出して、とりあえず田中はシャワーを浴びることにし、タオルを探した。
シャワーを浴びた後は、ワイドショーを見ながら昼食と変わらない朝食を取り、しばらくファッション雑誌を読み更けていると、幾分か頭の痛みが和らいでいるのを感じた。
今日はバイトが休みで、現在の時間が昼の二時であることを考えると、このままここで何もしないでいることはもったいないな、と田中は思い、先程読んでいた雑誌に紹介されていた、新しいショップに行ってみようと考えた。
すぐに身支度を済ませ、玄関へ向かう。そこで違和感を覚えた。昨日履いていたバンズのスニーカーの片方がない。今度は一体、誰に当たったのだろう。
「すいません、ちょっと待ってもらえますか」
そう声を掛けられたのは、田中がハイヒールによって疲れた足を休めようと、ベンチを探しているときだった。
猪股が車を使ってしまったせいで、駅前までわざわざ二十分をかけて歩かなくてはならなくなり、そこから駅前のファッションビルを色々と巡ったものだから、田中の足はすでに疲労困憊になっていた。
その声に振り返ると、そこに立っていたのは、自分と大して年の変わらないような男性である。
大きな買い物袋を手に持つ姿はいかにも庶民的な様子であったが、日本の男性の平均身長を十センチは越えてるであろう先にある顔は、話題の若手俳優がたくさん出ている学園ドラマに混じっていても遜色なく、それどころか、固定のファンまで付きそうなくらい整っている。
「どうかしましたか」
自然と女らしい声を出していることに気づきながら、足の疲れを感じさせない笑顔を田中は浮かべる。実際、このくらいのレベルの男性に声を掛けられる自分に、優越感を抱いてはいた。
これから僕と一緒に過ごしませんか、ともしも言われていたら、喜んでお供します、とでも答えていただろうか。
猪股には悪いと思ったが、そこらのカフェでお茶をするくらいで、別に白昼から、セックス目的でホテルに行くわけでもない。
そのくらいは許されるでしょ、と田中は思った。
「この財布って、あなたのですか」
「はい?」
思わず間の抜けた声が出る。それと同時に、さっきATMでお金を下ろして、ジーンズの後ろのポケットに入れたはずの財布を探したが、その存在は見つからなかった。
確かに男性の空いたもう一方の手には、見覚えのある財布が握られていた。
「ありがとうございます」
田中が頭を下げてそれを受けとると、男性は優しいという言葉がぴったりな微笑みをする。
「近くで落としたのを見かけたもので。交番に届けるより、探した方が早いかな、と」
どれくらい探しました、と田中が尋ねると、五分くらいですかね、と男性が答える。
よく見てみると、冬の真っ只中だというのに、彼の額にはうっすらと汗が光っていた。息も若干ではあるが、乱れている。
「わざわざ走って探してたんですか」
ばつが悪そうに、はい、と男性が言う。
「本当、ありがとうございます。何かお礼を」
「別にいいですよ」彼が言う。
しかし、足が痛くて、喉が渇いてません?、と田中が話すと、しばらく考えた後で、「あー、実は痛くて、カラカラです」と笑った。
容姿の優れている男性は何をしても様になると聞いたことがあるが、自分の目の前でコーヒーを飲む彼は、まさにそれであった。
一つ一つの動作が洗練されているようで、それでいて嫌みがないのだ。猪股もその点では似てはいるが、行動が幼稚なんだよなぁ、と田中はカフェラテを口にして思った。
近くにあった喫茶店は空いており、田中たちは四人がけのテーブル席に座った。
「そう言えば、自己紹介してなかったですね。僕、阪井って言います」
それに続いて、田中も自分の名前を言う。
阪井の横の椅子には、買い物袋が置いてあった。袋にはディスカウントショップのマークが描かれている。結構多い中身は、歯ブラシなどの日用品が入っており、同じ銘柄のものが二個から三個ほどあった。化粧品も見える。
「珍しいですよね」
その言葉に、買い物袋から阪井へ視線を移す。阪井は微笑みを浮かべている。
「これ聞いて、気分を悪くしないで下さいね。女性なのにバックを持たないんですか」
普通なら持ちますよね、と田中が答える。
「何か嫌なんです、歩いてる時に片手が塞がるの。両手を振って歩きたいんですよね」
変わってます?、と田中が言うと、阪井は申し訳そうではあるが、微笑みを崩すことなく、変わってますね、と答えた。
「でも財布を落とすくらいならバックを持っといた方がいいかもしれないですよ」
「それ、彼にも言われたことあります」
彼、という言葉に阪井はしみじみとして言う。
「いいですね、恋人」
「いないんですか、格好いいのに」
典型的な返し方ではあったが、心底そう思い、田中が言う。
「そういう関係はからっきしでして」阪井が眉をひそめる。
それならさっき見えた化粧品は誰のだろうと思ったが、あえて聞く必要もないので、別のことを口にする。
「格好いい、は否定しないんだ」
田中が指摘すると、阪井は、あぁ、と答える。
「実のところ、顔には自信があります」
その言葉に田中は思わず笑ってしまった。それを見て、阪井は不安そうな顔をする。
「やっぱ、おかしいです?」
「あんまり言わないですよね、自分で。だけど、変に自信もって謙遜するよりいいです」
「嘘は嫌いなもので。自分のためにつく嘘は真っ赤な嘘ですから」
前に見た映画の台詞です、と阪井は照れたように言う。
「他人のためにつくのは真っ白な嘘、って続きもあるんですけど」
「阪井さんは、その人のためになるなら嘘をつく、ってことです?」
まぁ、と阪井は頬を掻く。
「つきますね。真実ばかりだと傷つけてしまうから」
微笑みが消え、やけに実感が隠ったように言う阪井に、嘘をつかなければならないことがあったんだろうな、と田中は思った。
「それなら私も今日、阪井さんに会ったことは彼に言わないようにしようかな。傷ついて泣くから」
再び、阪井の顔に微笑みが戻る。
「だったら、その方がいい」
今朝、邪険に扱ったばかりで、見知らぬ男性と会ったなんて知ったら、猪股は本当に泣くかもしれない。嘘も方便だ。




