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優しい声  作者: 七夜月
3/9

*3*

「これからどうするの」

 帰り道の運転を交代した田中がウィンカーを出して言う。男とは、その場で別れた。帰り際に男は、自分の名前を松井と名乗っていた。

「どうって、家に帰るけど」

 寄りたいところでもあるの、と猪股が尋ねる。てっきりこのまま調査でも行うのかと思っていた田中は、がっかりしてため息をつく。

 それに気づかない様子で、猪股は松井から渡された封筒に入った写真を、じっと眺めていた。

 写真の中で相変わらず無表情な松井の隣では、とろけそうな笑顔でピースサインをする女性が写っていた。これが松井の前から姿を消した恋人の外崎だろう。

 白いワンピースに身を包んだ外崎は、モデル風というには体のラインが少し崩れているものの、充分に美人の部類に入る容姿をしていた。

「この顔なら言い寄る男はいそうだね」

 赤信号で止まる間、写真を見ていた田中は、青信号でまたアクセルを踏み出す。

「こういうのタイプなの?」と田中が言うと、考え込むように猪股は両手を組んだ。

「どうかな。僕は顔とかそういうの、どうでもいいから」

「それって、私の前で普通言うかなぁ」

 でも田中は綺麗だよ、と取って付けたかのように、猪股が言う。表情に焦りは感じられない。

「別に気にしてないけど」

「だろうね。そういう性格をしてる」

「いい性格でしょ」

「お酒を飲んで酔っぱらわないかぎりは、ね」

 それを言われると田中は黙るしかなかった。度々、彼にはそれで迷惑をかけている。

 道端で大声を出したり、寝たり、この前は履いてたハイヒールを投げて、通行人のサラリーマンに当てたこともあった。自分では覚えはないので、本当にそのサラリーマンには申し訳ない。

「でも、彼女のことは助けたいな」

 猪股の言葉には、決意が感じられた。

 松井じゃなくて?、と田中が問うと、どちらかと言えばね、と濁すように猪股が答える。

 そして追求を逃れるためか、さも、思い出したように言う。

「そう言えばさっき、田尻さんから電話があったんだ。今、一人で飲んでるから来ないかって」

 田中は自分の足元を見た。大丈夫、今日はハイヒールは履いてない。


 本町1丁目から海側へと少し走ったところに、田尻の待つバーがあった。白い外装の一軒家のような建物に、小さく店名が書かれている。

“truth”

 猪股は何回か来たことがあると言ったが、田中は初めて訪れる場所だ

 ドアを開けると店内はカウンターと奥にテーブル席が二つあるだけの小さな店であった。青白いライトが、店内を照らしている。

 田尻はただ一人の客としてカウンターに座り、グラスで口を濡らしていた。黒のスキニージーンズに、黒のカットソー。相変わらずの格好だ。

 猪股は田尻の名を呼んで、隣の席へ座る。見せる笑顔はまるで父の帰りを待っていた子供のようだ。

「今、仕事終わりで少しやってたんだ。迷惑じゃなかったか」

 全然ですよ、と猪股は笑う。彼が犬ならきっと、尻尾が切れんばかりに振っているはずだ。

「田中さんも座って、何か飲むといい。今夜は奢るよ」

「いいんですか?私、すごく飲みますけど」

 そう言い、白く塗装された近代的なデザインの椅子に腰かけると、バーテンダーがオーダーを取りにきた。

 田中は適当にメニューから選ぶと、しばらくして淡いピンク色をしたカクテルがテーブルに置かれた。

 その間、猪股は田尻に今終わったという仕事の内容を聞いていた。田尻も同業者、つまり探偵をしており、猪股は彼に憧れているようであった。

「今回の依頼は少し変わっていたな」

 田尻がグラスに口をつける。つられるように田中もカクテルを飲んだ。桃の味がして、甘過ぎず、素直に美味しいと感じた。

「依頼人には死んだ昔の恋人が見えるらしい」

「それって幽霊ってことですか」

 猪股の言葉に、田尻は黙って頷く。そんなことってあるのだろうか、と思ったが、自分の言葉より田尻の言葉が猪股には影響が強いことを知っていたので、黙ってカクテルを飲み、話に耳を傾けるだけにした。

「依頼の話を詳しくするのは、俺のポリシーに反するからあまり言えないが、あれは本当に見えてただろうな」

 ついさっきまでのことを思い出すように、田尻は言った。

「怖いですね」

 グラスが半分になったところで、田中は初めて口を出した。

「どうしてだい」

 田尻がポケットからタバコを取りだし、その内の一本を口にくわえて、火をつける。

「私、苦手なんですよ。昔から霊的なものが、呪われそうで」

「今回はそういう側の霊ではなかったから、大丈夫さ」

 田尻が細く煙を吐きながら言う。

「幽霊は怖いもの、そういう固定概念が、考えを狭くするんだ。探偵としては致命的なことだよ」

 ですよね、と猪股は田尻に賛成を求める。上機嫌だが、アルコールは飲んでいない。

「そうだな」苦笑に近い顔をして田尻は答える。

「私は探偵じゃないから、別にいいんだけど」

 興味のないように舌を出した後でグラスを空にし、田中は同じものを頼んだ。

「それならもう少し考えたらどう、依頼のこと」

「それは、まぁ」頑張りますよ、と猪股が言う。

 一度会っただけで、あまりいい印象はしなかった松井ではあるが、わざわざこんなやつに依頼しなくてもよかったのに、と同情してしまう。

「お前も依頼持ちか」灰皿にタバコを置いて、田尻が尋ねる。

 猫が人になったんですよ、と田中が悪戯な笑みを浮かべる。ほんの一瞬、田尻は考える素振りをしたが、勘が鋭いのか、すぐに人探しと気づき、納得した。

「探偵業の基本だな」

「でも猫を見つけられなかった彼に、人が探せるかどうか」

 猪股に目を向けると、大丈夫だよ、と笑う。

「猫の顔の見分けはつかないけれど、人の顔の見分けはつくからね」

「それを聞いて、余計心配になったわ。もし事件とかに巻き込まれてたらどうするのよ」

「事件って」

「実は彼女は誘拐されて、そいつに殺されてたりとか」

「縁起でもない」猪股が怪訝そうに言う。構わずに田中は続けた。

「そしたら呪われるよ、彼女に『どうして、早く見つけてくれなかったの』ってね」

「そういうのは、本当に止めて」

 少し強い口調で、猪股が言う。少し冗談が過ぎたかな、と田中は思った。

「もしそうなったら、俺は探偵を辞めるだろうな」

 ついさっきからオカルトを信じるようになったんだ、と二人の話を聞いていた田尻が言う。

 場の空気を察しての冗談だった。

「田尻さんまで、何言ってるんですか。そんなのドラマとか小説の話ですよ。毎回、探偵が事件に巻き込まれたらたまったもんじゃない」まだ猪股がムッとしたように言う。

「そういうのも固定概念って言うんじゃない?」

 アルコールで少し赤らめた頬をしながら田中が笑うと、猪股は何も言い返せなくなってしまった。

「第一、人探しなんてしたことあったっけ」

 ないです、と猪股は不満げな表情をする。

「じゃあ、田尻さんに教えてもらえば。何から始めればいいのかを」

 俺は人に何かを教える立場じゃないよ、と田尻は言う。下手ほど人に教えたがるという言葉が本当であるなら、きっと田尻は優秀な探偵なのだろう、と田中は思った。

「ただ探したい相手の顔と名前は分かってるんだろう」

 そうですね、と猪股は外崎が映った写真をテーブルに置く。田尻は手に取ることもなく、写真を眺めていた。

「彼女の情報もここにあるんですけど」

 猪股はそれを書き留めたメモ帳を上着から探して、田尻に差し出す。

「充分だな。これだけでどの辺りにいるのか、分かるんだ。絶対ではないが」

「田尻さん、すごいっすねぇ」 少年のようにキラキラとした憧れの目で、猪股は田尻を見る。

「俺じゃないよ。霊の話はしたが、生憎、超能力なんてものはない。すごいのはコンピューターさ」

 ハッキングってやつだな、と苦笑して田尻は言う。

「俺の知り合いに、それで食ってるのが一人いるんだ」

 田尻の話によれば、個人情報から割り出して、クレジットカードの使用履歴や携帯電話を使用した場所など、ハッキングによって分かるとのことだった。

 自分とはかけ離れた世界のことのようで、猪股と田中はお伽噺でも聞かされてるような感覚になる。

「もしも誘拐されていたら話は別だが」と最後に田尻は付け加えた。

「だったらすぐに見つかりそうね。外崎って人」と能天気に言う田中の隣で、何か進み過ぎてて怖いなぁ、と猪股は呟いた。

「それって、幾らでも悪用できますよね」

「するやつもいるかもしれないな。でもそれを商売にしてるやつはしないさ。プロは自分の庭を荒らさない」

「頼んじゃえばいいじゃない」と田中は言うが、猪股は乗り気じゃない様子であった。

「最後の手段として取っておきます」

「確かに、無償でというわけにはいかないしな」

 田尻から相場を聞いて、田中は驚いたが、人のプライバシーを考えるとそんなものか、とも思う。

「やっぱり僕は、自分で外崎を探したいんだ」

 呑気にそう宣言する猪股に呆れながら、田中は田尻の方を見た。

 田尻は満足そうに笑っていた。



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