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「何でついてきたの」
決して新しくはない軽自動車のハンドルを、しっかりと両手で握りながら猪股は言う。
「彼氏の仕事ぶりを見たいのは悪いことかしら」
「いや、悪くはないけど」と猪股は言い、右手をハンドルから離して頭を掻いた。
深夜の環状線はほとんど車は走っていなかった。雪も止んでおり、ただ外灯だけが真っ直ぐと規則正しく列を作るだけで、車どころか、ここには人もいないのではないかとさえ思ってしまう。
窓越しに外を見ながら、田中は先程テレビに映っていたクリスマスのニュースを思い出して、笑いそうになった。
猪股についてきたのは、もちろんそんな理由ではなかった。
クリスマスツリーと人探し。状況は違うが、集まる人たちと自分はそう違いがない気がする。只の興味本位だ。
「そういえばさ」
急に思い出した、という言葉がぴったりな口調で猪股が言う。
「昨日、久々にじいちゃんが夢に出てきたんだよ」
田中は窓から運転席の猪股へと視線を移す。猪股の祖父は、彼が生まれる前に脳出血で亡くなったと聞いていた。
「おじいちゃんが?何で」
「それは僕も分からない」
でも最近は墓参り行ってなかったからなぁ、と間延びした声で猪股が言った。
「心配なんだろうね、孫のことが」
「一応、前にした約束は守ってるつもりなんだけど」
「約束?」
「小学校の頃、生死の境をさ迷ったことがあるんだ。臨死体験ってやつ」
たまたま通った川で小さい子が溺れていて、と猪股が話し始める。
「無我夢中で飛び込んだよ。早く助けないと、って。でも気づいたんだ。今もなんだけど、僕は泳げない」
田中は呆れて、肩を落とす。そんなの飛び込む前に気づきなさい、と言う。
本当に夢中だったんだ、と猪股は笑いながら話を続けた。
その後で、同年代の女の子が、自分と小さな子を泳いで助けたという。
「うわぁ、格好悪い」田中はげんなりして言う。
「でも彼女は、すごいねって誉めてくれたよ。今思えば、それが初恋だったかもしれない」
懐かしむように、猪股は顔を綻ばせた。
「それで彼女とはどうなったの」
「それが、その後で気を失って、気づいたら病院にいた。もちろん彼女とも、それっきり」
ずっと夢を見てたんだ、と猪股は言う。その夢で祖父を会った、と。
「僕が生まれる前に死んでた人だから、写真でしか見たことがなかったんだけど。普通に喋ってるんだよね」
「どんな話をしたの」
「一方的に怒られただけだった。くだらないことでこっちに来やがって、って」
「確かにね」
「そんで思いっきり殴られた」
自分の体じゃないみたいに重力も無視して飛んでたら目が覚めたんだよ、と車内の灯りに照らされながら猪股が笑う。
「その時の言葉、まだ覚えてるんだよね」
『ワシの分まで、もっと人を助けてこい』
生きてきた中で一番優しい声だったよ、と懐かしむようにフロントガラスの向こうを遠い目で猪股が見ている。
きっと彼の中でこの道の向こうには、祖父が立ってるのだろうなと田中は思った。
「どうしてそんなこと言ったんだろう」田中が尋ねる。
「人格者だって聞いてたけど。たぶん戦争のことを引きずってたんだろうなぁ」
「戦争?」
「戦争でたくさんの人を殺したこと、仲間を助けられなかったことを、死ぬ間際まで悔やんでたって聞いたことがある」
「でもそれってしょうがないことじゃない」
「そういう時代だったしね。戦後は死んだ仲間の家族の元へ、謝りに行ってたらしい」
「すごい人だね」
「家族の人もそう言ってたみたい。でもこういうのは誰かが許しても、自分が許せないと意味がないことだし」
田中はふと気づき、頭に浮かんだことを猪股にぶつける。
「探偵やってる理由って、もしかして」
「そうだよ。どんな小さなことでもいいんだ。探偵してたら色々な人に出会えて、助けられるかもしれないから」
子供のような笑顔で言う猪股に、田中は呆れた顔を見せながら、そういうのって嫌いじゃないな、と思った。
一本道の環状線の途中にあるコンビニを右に曲がり、しばらくして車は止まった。全国チェーンのファミリーレストランの駐車場だった。
深夜と言うこともあり、客はそういなく、参考書を枕にして眠っている学生、他愛もない話で笑っているカップル、そして何をするでもなく遠くを見つめている男だけであった。
「依頼人はあの男だろうね」
猪股が自信満々に言う。でもそんなことは誰にでも分かることであった。
人を探してる人間が参考書を下敷きに寝たりしないし、ましてや異性と楽しげに過ごしたりしない。
そのことを告げると、猪股は残念そうな顔を浮かべる。その顔には愛嬌があって、田中は思わず笑いそうになった。
それを見て、猪股はふくれたように言う。
「探偵らしいところを見せようと思ったのに」
はいはい、と矢継ぎ早に返事をし、田中はすたすたと店内へと入っていった。数歩遅れて、納得いかない表情で猪股はそれに続いた。
人探しの依頼をした男は、二十代前半の容姿をしているのだが、雰囲気はそれよりも上のような気がした。
大人びているわけではない、酷く疲れて老いているように見える。それでも目付きは鋭さを隠し持っていて、一つ間違えば、誰にでもその牙を剥きそうだ。
「お待たせしました。私が依頼を受けた猪股です」
男は一度顔を上げると、テーブルの向かいの席に視線を向ける。猪股は無駄のない動作で、その席へ座る。田中もそれを見て、隣に座ることにした。
「遅くに悪かったな。早速、詳しい話をしたいんだが、隣の女は誰だ」
男が田中を睨む。無理もない、自分は興味本位で来ただけの部外者だ。
「私は彼の恋人ですけど」
真実を告げただけなのに、男の目は不信感で、より鋭さを増す。そして猪股の方へ視線を向けた。
田中の方を呆れたように一瞬見た後、誤解がないように慎重な口調で猪股は言う。
「確かに恋人なんですが、私の仕事をよく手伝ってもらっているんです。言わば、助手のようなものですよ」
好青年を絵に描いたような笑顔を男に向ける。無理に作ってるな、とすぐに田中には分かった。所謂、営業スマイルというやつだ。
それに自分は助手ではない。確かに、猫を探すのを手伝ったことはあるが。
男はふーん、と興味のないような返事をする。そしてすぐに話を移した。
「俺にも恋人がいる、探して欲しいのはそいつだ。ここ一週間、連絡もつかなければ、部屋にも帰っている様子もない」
起伏のない、環状線のような一本道の口調で男は話す。ただ感情は明らかに苛立っていた。その証拠に話している間、ずっと爪を噛んでいる。
「何か心当たりは?」と猪股は尋ねた。男は少しも考える様子もなく答える。
「ないな。そりゃ、小さな喧嘩はあるさ。でもそれくらいはあんたたちだってあるだろ」
「まぁ、そういったものならありますね」
曖昧に猪股が言う。しかし田中には彼と喧嘩をしたなど思い当たる節はなかった。こちらが頭にきたとしても、猪股が上手くいなすため、二人の間に喧嘩らしい喧嘩はなかった気がする。
しかし他の恋人同士はどうだろうか。片方が小さなものだと思っても、相手にとってはそれがブレットにもなり、トリガーにも成り得る。
女は男が思うよりも複雑なものよ、と思ったが、自分の立場は野次馬であることを思い出して、田中は口をつぐんだ。
「しかし万が一、お相手が別れようと思って出ていったという可能性は」
自分の考えていたことを、食事を摂るくらいあっさりと口にした猪股に、喉に小骨が刺さったようなつっかえが取れていく感覚を田中は覚えた。
しかし次の瞬間、それも何処かへ飛んでいく。男が急にテーブルを強く叩いたからだ。
その上に置かれていたコーヒーは少しの間、重力を忘れたようにカップごと、宙へ浮かぶ。カップが先に元の位置へ戻り、少し遅れてコーヒーも戻る。数滴がカップの外を出て、テーブルに落ちた。
カップルは話を止め、こちらを向く。寝ている学生はそのままだった。
瞬間湯沸し器。昔、そう言われていた政治家がいたな。そんなことを田中は冷静に考えていた。何故なら、男はもう既に、先程までの姿に戻っている。
「そんなはずないだろう」
「そうですか」
ここまでの一連の流れを顔色一つ変えずに見ていた猪股が、テーブルの端に置かれていたナプキンを取りながら言う。
それで零れたコーヒーを拭く。男の次の言葉を待っているようだった。
「あいつは俺の子を身籠ってるんだ」
しばらくして男は口を開いた。それは、世界は俺の手にかかっているんだ、という響きに似ていた。




