2_06
エミディールの執務室を出たスークレヒトは、まっすぐその足でダシェルの館へと向かった。
ダシェルの館は郊外にある。
彼は、他の多くの大天使とちがい、宮殿からかなり離れた郊外に住んでいる。
べつに、素行不良で中央から追い出されたわけではない。
自分が好きでそこにいるだけだ。
敷地はそう広くなく、屋敷自体も小ぢんまりしている。
それがいかにも、機能重視派のダシェルに似合っていた。
スークレヒトは、そのダシェルの家の正門に立って呼び鈴を鳴らす。
彼の家を訪れるのは久しぶりだ。
「はい、いらっしゃいませ」
「へ?」
玄関から現れたのは、まるで人間のような姿をした何者かだった。
ダシェルではない。
スークレヒトは呆気にとられ、しばし固まってしまう。
仮に人間であれば、十四、五歳の少女といったところだろうか。
だが、人間がこんなところにいるはずもない。
大天使でもない。大天使は全員顔見知りだし、こんな姿のものはいない。
しかも、レースとフリルだらけの、ピンクのエプロンドレスを着ている。
こんな大天使はいてほしくない。
ならば中天使だろうか。しかし、なぜダシェルの家にいるのだろう。
中天使の家の使用人が中天使というのも、あまり聞かない。
(誰だ? 誰なんだ、いったい?? ――恋人?)
スークレヒトは混乱している。
彼の知るかぎり、ダシェルは一人住まいだったはずだ。
(そうか! 家をまちがえたとか!)
しかし、いくら考え直しても、ここはやはりダシェルの家だ。
こんな野原の一軒家を、どうまちがっても訪ねまちがうことはできない。
大天使ともあろうものが、狐にでも化かされているのだろうか。
あるいは、案外これがダシェルだったりして。
そうだとしたら、ずいぶん性質の悪いいたずらだ。
「スークレヒト様でいらっしゃいますね?」
ものも言わずパニックになっている彼に、「少女」は緊張した様子でたずねた。
「あ。え、ええ。ダシェルはいますか」
「はい。主人は中でお待ちしております。どうぞお入りください」
そう言うと、彼女はたどたどしい手つきで門を開け、スークレヒトを屋敷内へと案内した。
彼は警戒心全開で「少女」のあとにつづいて廊下を歩きながら、無遠慮にまじまじとその姿を観察する。
(小天使だろうか)
しかし、それにしてはずいぶん輪郭がはっきりしている。
小天使はふつう、漠然とした光の玉みたいなものだ。
まれに複雑な形をしていても、多くはぼやけて揺らめいているか、透きとおって見える。
これほど輪郭を保った人型はめったにいない。
それに、表情の暗さも気になった。
まだ多少のあどけなさを残した顔は、緊張し、ひどく強張っている。
瞳には、周囲への疑念と嫌悪が見てとれた。
天使、とくに一般に無邪気な小天使には、まずありえない思いつめた表情だ。
おまけにあの妙な服装。
ふつうに考えれば地上人の影響だろうが、いったい何のイメージを具現化しているのか理解しかねる。
表情の硬さとあいまって、いっそうちぐはぐな印象だ。
考えているうち、彼女はいつもの応接室の前を素通りした。
どんどん家の奥へとスークレヒトを導いていく。
スークレヒトは警戒した口調で鋭く言った。
「おい、どこへ行くんだ?」
「こっちだよ」
質問に答えたのは、当のダシェルの声だ。
そのとき、廊下の突き当たりで、ようやく「少女」が立ち止まる。
その奥は、ダシェルが「工作室」と呼んでいる部屋だ。
めったに入ったことはないが、いつも窓を全開にしてある半屋外状態の場所で、部屋というより物置に近い。
「どうぞ、お入りください」
「少女」はそう言い、にこりともせずに、ドアの手前で一礼すると廊下をもどっていった。
スークレヒトは工作室のドアを開ける。
あかるく夕陽が差し込む部屋は、ガラクタと工具の山だ。
その奥に、しゃがみこんだダシェルの背がわずかに見える。
何やら忙しそうにいじっている黒い影に歩み寄り、スークレヒトは開口一番こう言った。
「おい。誰だ、あれ」
するとダシェルは振り向きもせず、怪しげな機械に向かったまま応える。
「リーナのことか?」
「……リーナ?」
「うん。今の案内係だろ」
スークレヒトはおもわず一歩あとずさる。
引きつった顔で矢継ぎ早に言った。
「……何なんだ? 小天使じゃないのか? 中天使? 君の部下?」
「部下ってわけじゃないが、小天使さ。かわいいもんだろう」
ダシェルは振り向きもせず軽い調子で答えたが、スークレヒトは一瞬、背筋がさむくなる。
小天使にはふつう、固有の姿も名前もない。
多くの場合、彼らには個別性がないのだ。
たしかに、特定の小天使に、いちいち姿や名前をあたえて喜ぶ上級天使もいるにはいる。
もしダシェルと「リーナ」がそういう関係なら――あの小天使ばなれした、くっきりした容姿や妙な服装にも、まあ納得がいく。
だがそれは、一般的な天使の感覚として、お世辞にも誉められた趣味とはいえない。
「君……そういう趣味だったか?」
「へ?」
ダシェルはようやく、スークレヒトの疑惑の視線に気づいたようだ。
めずらしく慌てた顔をした。
「誤解するな。俺は変態じゃない。あれは、もとが人間なんだ。人間時代の姿と名前をそのまま残してる」
「人間!」
スークレヒトはますます動揺した。
ダシェルがそれを、しっ、と強く制する。
「バカ、大きな声を出すなよ!」
人間の魂を転生させずに飼うなんて、変態に加えて犯罪だ。
魂の私物化は大罪である。
「黙れ、いくらきみでも訴えるぞ」
「ちがうってば。ちゃんと許可をとってる!」
「……許可?」
「そう! いま、小天使だって言ったろう。ちゃんとお役所で承認済みだ」
「じゃ、どうしてそんなにあわてたんだ?」
「おまえが騒ぐから、ついつられて」
「まぎらわしいんだよ。初めからそう言ってくれればいいじゃないか」
「聞かなかったじゃないか」
「……」
それにしても、とくに功績あるともおもえない少女の魂を、天上界が天使として承認するなど珍しい。
イレイン・ヴェイア並みの英雄ならともかく、スークレヒトはリーナなんて聞いたこともなかった。