セイギのミカタ 上
俺、本郷ハヤタは普通の人間である。
どっかの特撮ヒーローのように変身しそうな名前なのにもかかわらず、ごくごく普通の……、いや、どちらかと言えば残念な一般ピープルだ。
平均的な体に、容姿。全くと言っていい程、俺には特徴がない。それに、仕事もなければ、彼女もいない。働く気はある。彼女だって欲しい。けど、それがなかなか上手くいかない。もう少しで大学を卒業して一年は経つと言うのに、これではヤバイ。
親が泣く。先祖が泣く。それよりも、俺が泣きたい。
今日だって、仕事の面接をふたつこなした。それに、かわいい女の子を見つけては声をかけた。変態と罵られ、警察に通報されたりもした。逆に喫茶店に誘われては、高い布団を買わされそうになった。壺もあった。掛け軸とか、パワーストーンがどうとか……、今考えると、なかなか多彩なラインナップだったな。うん。
そうやって俺なりに努力はしているんだ。
けど、報われない。
『諦めずに努力をすれば、君も僕のようにヒーローになれるよ』
昔見たテレビでそう言ったヒーロー。悪を倒し、正義を掲げ、かわいい女の子にキャーキャー言われるヒーロー。
ああ、実に羨ましい。
もし、俺がヒーローになれば平凡から脱却し、スポットライトを浴びて、女の子からキャーキャー言われる事だろう。いや。間違いなく言われるはずだ。そのためにだったら、俺は、命を掛ける! 粉骨砕身、地球の平和を守って見せる!
――なんてね。
「なあ、おっさん。正義の味方になれないかな?」
そう半ば自棄になりながら、グラスになみなみ注がれた日本酒をグイと一気に飲み干し、たまたま居酒屋で隣になった白髪のおっさんへ、俺はグラスをガンと置いて、視線を向けた。
ま、このおっさんに何ができるなんて思っちゃいないが、小一時間、投げやりな俺のくだらない話を聞いてくれたおっさんだ。もし、そこで呆れられても、ここまで話を聞いてくれただけで、俺は満足だった。
しかし――
「よっしゃ。お前の望み、叶えたるわ」
「へ?」
■■■■
あ、頭が痛い……。
昨日は飲みすぎた。
ベッドからふらつく体を起こし、洗面台へ。歩く度に、世界が揺れた。まだ全然酒が抜けていない。いったいいつまで飲んでいたんだ?
行きつけの居酒屋でひとり、ヤケ酒をあおっていた事は覚えている。けど、そこからの記憶がない。まあ、間違いなく、どこかの誰かにとっかえひっかえ絡んでいた事だろう。
限界まで飲んで、バカな事言って、潰れて、例え記憶がなくても、それでもちゃんと自分のワンルームへ帰って来る。それがお決まりのパターンだ。一度もそれを違えた事はない。一夜限りの女性としっぽり、なんて事もなく、悲しい程正確に、俺は帰宅する。そんな姿を知る人は、夢見がちな男だと、俺を罵ってくれた。
夢を彷徨い歩く俺――言葉だけなら、良い響きかもしれない――でも、俺が生きなければいけないのは、残酷なまでの現実。それはわかっている。知っている。
だから酒に逃げた次の日はこうやって、現実と一緒に鏡を見るのだ。
相変わらずの顔。黒い剛毛が、ワックスなしで天を突く。一応奥二重な目は、少しはれぼったくなっていた。顔にあざはない。どうやら、喧嘩もしていないようだ。
蛇口をひねり、顔を洗って、口をすすぐ。そして飲んだ。
溜め息が出る。
こんな生活をいつまで続けるのだろうか? そう短い廊下を眺め歩き、玄関内側の郵便受けを開けて、ごっそりとたまった手紙を手に取る。
これだけたまっているのは、俺が無精だからじゃない。これだけの就職面接を受けてきた証拠だ。それがたまたま、昨日に重なっただけ。
怪しいダイレクトメールを省きながら俺はベッドに戻り、手元に残った十数通の封筒を、ひとつひとつ、丁寧にはさみで開けて、中を見た。もしかしたらこの中に、俺の人生を変える手紙があるかもしれない――定職に就くという第一歩――それを零さないよう、念入りに、じっくりと、一言一句漏らさず――
でも……
撃沈だった。
どれひとつとして俺を採用するといった内容は書かれていない。ご縁がなかったと綴り、不採用と断言していた。
「またかよ……、クソ!」
吐き捨て、それらを放った。まるで、俺をあざ笑うかのようにフローリングに散らばる。
溜め息が、また、漏れた。
仕事もない。彼女もいない。何もない。
これが、俺の現実なのだ……。
と、その時、インターホンが鳴った。ピンポーン。と、ひとつ。
時間を見る。もうすぐ昼だ。しかし、こんな時間に来客なんて、あり得ない。あり得ないとは言い切れないが、俺に利益のある物じゃない筈だ。
もしかすると宗教の勧誘か、訪問販売か、はたまた、NHKの集金だろう。このまま居留守を決め込むのが吉だ。
しかし、インターホンは、しつこかった。
連打。
連打。
連――
ダダダダダ……。
ピンポーンの“ピ”が、次の“ン”を言わせない。それが、十数分……。それにたまらず、俺は玄関を勢いよく押し開けた。
「うるさい! 聞こえてる!」
そう叫んだ先には、たたんだ白い日傘に繊細な指を添えた女性がいた。白いワンピースに身を包んだ若い女性は少女のようにも見え、肩から斜めに掛けた黒いカバンが、彼女の胸を強調している。そんな彼女の薄い唇が、明るく安堵の息を吐き出した。
「あ、よかった。てっきりお留守かと……」
「なら鳴らすな!」
怒鳴る。けれど、黒く長い髪と、綺麗に整いシンメトリーな彼女の表情は変わらなかった。少し見下ろさなければ目線が合わないけれど、覗きこむように、見上げるように向けられる黒く大きな瞳は、澄んだ輝きを放ち、俺を見ている。そして、ふっと微かに頬笑みをたたえ、凶器とも取れる上目づかいで、俺を攻撃してきた。
「ちょっとお時間いいですか?」
ドッキーン!
い、一撃で俺の心を鷲掴みだと!?
な、何者だ? 宗教か? 宗教の勧誘か? いや、しかし今までの経験上怒鳴っておけば、勧誘に来たおばちゃんはそそくさと帰っていった。集金とも考えにくい。偏見かもしれないが、あれには変な機械を持ったおっさんが来る。なら、訪問販売か? 壺を売る気か? 掛け軸か? それともパワーストーンか?
だがしかし、俺の心に直球ドストライクな子に“お時間ありますか?”と聞かれたら、“ある”と答えるのが男だろう。いや、紳士として当然の振る舞いだ。
「あの、ちょっと……」と彼女が急かしてきた。おっと、これは失礼。紳士としてはあるまじき間の取りかたでしたな。一度喉を鳴らし、咳払い。
「ええ、もちろん。ありますともさ」
百八十度態度を変え、良い声を使ってニッコリスマイル。俺ができる最大の攻撃だ。しかし、それを彼女は無視し、カバンの中から冊子を取り出し俺の前に、笑顔とともに差し出した。
うぅ。やはり、訪問販売か……。
「これを、あなたに」
「なに? これ?」
一見カタログに見えるそれには、“正義の味方選別試験について”と書かれていた。あまりにも突拍子もない事に、俺はたまらずカメラを探した。どこかで隠し撮りをされていて、後々ドッキリでした。なんて、素人参加型番組的なオチがあるんだろうと、きょろきょろ見まわしたが、それらしいものは見つからない。
「正義の味方になりませんか?」
微笑む彼女、それを横目に出た結論――
正義の味方になってみませんか詐欺。
とりあえず笑った。彼女の頬笑みに合わせ、はははと――
「間に合ってます」
きっぱりと冊子を突き返す。そして流れるように玄関と鍵を閉めた。
完璧だ。彼女の美貌には後ろ髪を引かれる思いだけれど、仕方ない。どうして誰が、今のこの時代に正義の味方を募集しているというのだ。
正義の味方はテレビの中にしかいない。それが世間の常識だし、大人の反応だ。君子、危うきに近寄らず。怪しい人には、帰ってもらうのが大吉だ。
しかし……。
再び連打が始まった。今度は“ピ”が半分も鳴らない内に、次の“ピ”が鳴っている。なんて反応のよいインターホンだ。まさかマグネットコーティングがされているのか?
いやいや、今はそれじゃない。この機械音をどう止めるかだ。
悩む事二十五分――。永遠に鳴り続けるのかと過った時、インターホンが止んだ。それに胸をなでおろし、覗き穴から外を見ると、彼女の姿は……、まだあった。
しかし、今度は違う人も一緒にいた。それは割烹着にサンダルのおばさん。パーマのあてられた茶色い髪に鋭い眼光。
なんだ、ここの大家さんじゃないか。きっと、隣が苦情を言ったんだろう。
これは願ったりかなったりだ。この人を相手に口で、いや、拳でも勝てる人間なんてそうはいない。冷徹で、家賃の取り立てには情けなど欠片もない人だ。いつもは敵として認識しているが、反面、訪問販売キラーでもある大家さんがいれば百人力。地上げのヤクザですら拳ひとつで半殺しにした大家さんならば、俺がなにかしなくても、彼女は帰って行く事だろう。
そうやって扉に耳を当てれば、向こうの会話が聞こえた。
「ちょっと、近所迷惑でしょう。訪問販売なら、どこか違う所でやっとくれ。まだ続けると言うんだったら、こっちにも考えがあるよ」
おお、大家さん。頑張れ!
「すいません。でも、わたし、どうしてもハヤタさんに言いたい事があって……」
ん? ど、どうして俺の名を知っている? もしかして、今までに声でも掛けたか? いやいやそれなら、覚えていてもおかしくない。あの美貌、千載一遇と俺は見る。そんな奇跡的な事を俺は忘れているのか? それとも――
なんて思考を扉越しに、外の会話は進んで行く。
「どうしたんだい? なんだか、深い事情でもあるのかい?」
「話せば長くなるんですけど、わたし、わたし……」
そこで、何故だか嗚咽が聞こえた。穴から覗けば、俯いて前髪を垂らした彼女の姿。
「ああ、泣かないで。どうしたのよ。おばさんに話してみなさい」
急に優しい抑揚になる。これって、まさか、あの無情の大家が情にほだされた?
「ハヤタさんが、責任を取ってくれなくて……。今日は、どうしても、その話をしたかったんです。でも、全然外に出てきてくれなくて……」
は!? お腹をさすって何を言ってるのこのお嬢さんは? もし、そんな事があったならば、忘れるわけないだろうに! って、大家さん、顔、変わってるよ。それ、鬼の顔。ね、ちょっと、マスターキーは反則ですってぇ。
「本郷ぉ……」
地を這うような魔物の唸り声と共にガチャリと開いたロック。キイとノブが回り、ゆっくりと扉が開いて行く……。
鬼が、顔を覗かせた。
「この甲斐性なしが! 定職にもつかんと、家賃も滞納して、こんなかわいい子を孕ませるとはいい度胸だな! いっぺん地獄、見てみるか?」
「か、か、か、勘弁してくださいよ大家さん。俺は無実です」
「無実ぅ!? 家賃も払えない人間に、弁解はさせないよ!」
「そんなぁ。ね、ねえ君。ちゃんと説明し上げてよ。大家さんは誤解しているんだ。って、誤解も何も、俺は何もしていないだろ?」
そうやって大きな大家さんの脇から覗きこむように、彼女へ助けを求めた。けど、それがいけなかった。
「無理矢理……、だったわ……」
ぼそりと彼女が言った。けど、効果は抜群だ。
「な!? なんですってぇ!?」
俺と大家さんの声が重なる。驚きが玄関に充満し、大家さんの表情が、静寂をもたらした。
空気が――変わる。
「本郷……」
「あ、あのですね。さっきのはですね。か、彼女が――」
「黙れ……」
「へ?」
「もういいと言っている」
呟くような大家さんの言葉――目を閉じ、噛み締めるように、言葉が続いた。
「残念だよ本郷、わたしは今まで人を手に掛けた事がない――」
ジリと踏みだされる大家さんの足。ギリリと握り締められた拳が、段階的に関節を鳴らし、それに合わせて膨張する筋肉――世紀末が、やって来た。
「だが今日、その禁を破る!」
「破らないでぇ!」
叫び、繰り出される必殺の拳を何とか避けた俺は、大家さんの脇をすり抜けると、とっさに美女の細い手首を掴み、逃げ出した。
俺は走った。必死になって走った。
それは、あの大家さんから逃げるためじゃない。俺の前を走る白い美女に手を引かれ、全力疾走だ。
周りの風景は俺が住む住宅地を抜け、繁華街を通り、高層ビルが立ち並ぶオフィス街へと姿を変えた。
ちょうど、お昼休みとも重なったのだろう。行き交うスーツの人々の合間を猛スピードで駆け抜ける俺たちを物珍しそうな目で、見ている。そんな中で羨ましそうに顔を歪めたサラリーマンに優越感を抱きながら、躓きそうになった体をグッと踏ん張り、大地を蹴った。
目線を上げると、中が見えそうで見えない絶妙な動きを見せる白いスカート。それを振り乱しながら走る白い少女が見えた。
最初は俺が彼女の手を引いていたのだけれど、いつしかそれが逆転していた。無理矢理に引っ張られる腕。何度か、彼女の早さについて行けず、すっ転んでは、引きずられた。
彼女の細い四肢のどこにそんな力があるのかと、不思議に思う暇もなく、アスファルトを猛スピードで引きずられ、体も、心もボロボロになりながら、何とか体制を立て直し、とりあえず転ばないように全力疾走だ。
体中が痛いが、痛いとも言っていられない。諦めればそこで、市中引き回しが再開されてしまう。
どうして、こうなった……?
いやいや、それはたぶん、その、あれだ。彼女が俺を抜き去る前に言った言葉――「その気になってくれたんですね。嬉しい」――が関係しているのだろう。
ようやくそれに対する質問の準備が整った俺は、彼女の背中を見据えて言った。
「ちょ、ちょっと待って、ど、どこ行くの?」
「まず、わたしのお父さんに会ってもらいます。ご説明は、その後致しますね」
「“ね”って、言われても、俺、何が何だか……」
「そうですか。では、簡単に説明しますけど……、これからあなたには“正義の味方選別試験”を受けていただきます」
「は? 何それ?」
まだあの詐欺は続いているんだろうか? 真面目に正義の味方と言われても、それはそれで、信じがたいし、嘘臭い。
もし、もしだ。百歩……、いや、千歩譲って正義の味方になれるのだったら、そりゃあなってみたい。昔テレビにかじりついてみた特撮ヒーロー。カッコ良くて、女の子からキャーキャー言われる存在。彼のようになれるのだったら、俺は……、って、この話し、どこかでしたか?
首を傾げてみたが、思い出せない。ま、それはいいだろう。この際関係ない。
そんな俺に彼女は言った。
「これ以上は、わたしの口から言えません。ですから、お父さんに聞いてください」
「聞いてくださいって。もしかして、最初から俺を連れて行くつもりだったの?」
「もちろん。その為になら、手段は選びません」
「選びませんって、その為に大家さんを殺人者にする所だったのか? あんな風になっちゃったら、もう、俺、帰れないじゃないか!」
「でしたら、帰らなければいいんですよ。もしハヤタさんがよろしければ、わたしの方に空き部屋がありますから、そちらで」
ポク、ポク、ポク――チーン。
は!? ま、まさか、これは計画的だったのか? 同棲のお誘い。ちょっと強引だけど、そう考えれば辻褄が合う。正義の味方試験なんて口実で、実はプロポーズ! どうだ。俺の完璧な推理。
しかし、それにしてもこんなかわいい女の子とひとつ屋根の下だなんて――
これほど美味しい事はない。
例えば、お風呂場でばったり――
「あ、お風呂入ってたの?」
「今からですけど、どうですか一緒に……」
それからもしかして、あんなことやこんなことが、なんて……。むふふ。
って、俺はアホか!
確かに彼女は可愛い。もろに俺のタイプだ。けど、ネジが一本飛んでないか? こんなの普通じゃない。同棲ってのは、こう、順序を追って、愛をはぐくんでだな、ご両親に挨拶をして、結婚を前提に……。
ん? なんだ。全然変じゃないじゃないか。ちゃんと彼女は順序を追っている。ただ少し、スピーディーなだけだ。
「ねえ、君?」
「はい?」
「お父さんにはなんて挨拶をしたらいいかな? やっぱり定番な方がいいかな?」
「そうですね。わたしのお父さんはちょっと変わっていますけど、そちらの方が喜ぶと思います」
そうか、やっぱり定番がいいんだ。よし、決めた。挨拶はこうだ。
“お父さん。娘さんを僕に下さい”
一応心の中で練習しておくか? いやいや、ぶっつけ本番の方が、緊張感が伝わっていいかもしれない。
っとその前に、俺の奥さんになる――いや、まだ気が早いか――彼女の名前を聞いておかねば。
「あのさ、ところで今更なんだけど、君の名前、教えてくれない?」
「あ、まだ言ってませんでしたか? すいません。わたしの名前は、小山内七海と言います。よろしくお願いしますね」
七海ちゃん。いい名前だ。何と言うか、彼女にぴったりだと思う。
「こちらこそ、末長くよろしく」
と、言った時だった。目の前に川が見えた。オフィス街と、その先の工業地域を区切るように流れるお世辞には綺麗と言えない川だ。川幅はそうだな、だいたい二十メートルと言ったところか。とにかく、そんな川が目の前にあった。
なんでここまで俺が川を連呼するかと言うと、橋がかかっていないからだ。横に目をやれば、遠くに橋が見えた。けど、俺の手を引く彼女はそっちの橋には目もくれず、真っ直ぐその川へと突き進む。
と、その時、川の中心が流れを裂くようにせり上がり、黒く四角い煙突が突き出してくる。
「なんだ? あれ?」
そして、そこから人影が飛び立った。いや、もしかしたらミサイルだったのかもしれない。一瞬赤く輝き、青空へ飛びさる。
発射台だったのか、役目を終えた煙突が、ゆっくり沈み込み始めた。って、おかしいでしょ! 街はずれだからって言っても、そんなものがあるなんて……。
そんな状況を少ない通行人たちもそれを見ていた。けれど、ミサイルが放った赤い光を浴びてから、俺と七海ちゃんを除いた皆の動きが不自然だ。まるで、何も見ていないように、動いている。至って自然に。
「どうかしてるって、みんな……」なんて零した時、彼女の擦り切れそうな声が、微かに流れてきた。
「……香蘭」
瞬間、俺を握る手に力がこもり――七海ちゃんが加速した。
「ね、ねえどうしたのさ? ちょ、ちょっと。そのまま行けば川だって!」
「わかっています」
「じゃ、じゃあ……」
「跳びますよ」
「へ? ちょっと、七海ちゃん!」
川を隔てる二メートル弱の鉄柵。その手前で彼女は踏み切った。そして、鉄柵の上を蹴り、更に跳ぶ。俺は鉄柵にしこたま体をぶつけてから、彼女に引っ張られ、きりもみ、力なく宙を舞った。
「もう、好きにして……」
凄く高い。いや、実際にはそんなに高くはないんだろうけど、そう感じた。時間もなんだかゆっくり流れている。放物線の頂上。そこでは股間のあたりがひやっとした。体もねじれて、空が見える。ああ、いい天気だ。
「ちゃんと地面を見てください。着地に失敗しますよ」
彼女が言った。そりゃそうだけど、こんな大ジャンプ体験した事がないんだから、着地もできるわけがない。そう思いながらも、体を戻し視線を下へ――
「見えた!」
白だ! 服装に合わせ、パンツは白だった。先ほどまで見えそうで見えなかった彼女のそれが、落下の風に煽られて、御開帳された。片手で前のスカートを押さえているが、もう一本の腕で俺を引っ張っているせいで、後ろはノーガード。形のいいお尻が、俺の目の前で、着地の態勢を作り出す。
って、しまったぁ!
慌てて見下ろした地面はまだ、川の中腹だった。このままじゃ、あの煙突の中に――四角く切り取られた暗く、ぽっかり空いた穴に――まさかと思うけど、彼女の美尻は真っ直ぐそこへ降下している。
そのまさかなのだろう。しかし、それがわかった所で、俺に何ができると言うのだ。
景色が、明るい世界から暗い闇へと切り替わる。けど、まだ落下は止まらない。
壁に付けられているであろうガイドビーコンのような明かりが、ものすごい速さで流れて行った。
そして――
びたんと地面にチューをする。地面を見ていなかったのだ。いや、違う物を見ていたせいで、着地なんてできるはずもない。スーパーマンのように俺は、地面に叩きつけられたのだが、悔いはない。多少痛い程度だ。眼福、幸せの方が上をいった。
けど、そんな俺を彼女は引きずった。そのままずるずる、ずるずると暗い通路を進んで行く。
掛け足で進んだ時間。もうなんだか世界が壊れかけていた。俺の現実が、どんどん何かに浸食されている。俺の普通が通用しない。ありえない。目覚めてからというもの、突拍子のない事が起こりすぎている。世界が違う。そう思った。
それに七海ちゃん。彼女は少なくとも十メートルは跳んだ。ひとりでも凄い事なのに、俺も一緒に引っ張って跳んだ。そして、華麗な着地。どれだけ落ちたか知らないけれど、何もなかったように、それが当然であるというように、俺を引きずる姿。どんなオリンピック選手だと言うのだ。少し前から思ってはいたけれど、彼女は、可愛い顔をして、超人的な身体能力を持っている。
それはまるで、昔見たテレビのヒーローのようだった。
ま、ヒーローは、俺を市中引き回しなどしないだろうけど……。
だったら何者なんだよ、七海ちゃん……。
暗い通路はまだまだ続く。けど、七海ちゃんは俺の手を引く速度を落としくれていた。いや、ちょっと違うか。俺の手を引く力自体が、弱くなっている気がする。表情や、行動には出ていないけれど、太陽の下ではあんなに活発だった彼女が、ここでは走らないと言うより、走れないと言った方が妥当に思える。
しかしそのおかげで俺は、自分の足で進んでいる訳なんだけれども。
四角く空洞になった通路の上隅に、規則正しく並ぶ青白いライト。その中を進む彼女の姿は、幽霊のようにぼやけ、発光し、不思議な感じがする。
そんな彼女がライトに照らされ、入り組んだ複雑な通路を進む。そして、何度目か忘れた十字路で立ち止まると、ゆっくり振り返った。
「すいません。ここから先はハヤタさんひとりで、進んでください」
そう言って彼女は、俺に真っ直ぐ進めと言わんばかりに、体を開き、腕を奥に伸ばした。
「え? どうして? 一緒にお父さんに挨拶するんじゃ?」
「ごめんさい。これ以上わたしは進めないんです」
と、彼女が俯く。
「どうして?」
「それは言えません。ごめんなさい……」
かすれるような声だった。きっと、何か深い訳があるのかもしれない。触れられたくない過去とか、親子の確執とか……。
きっとそうだ。彼女とお父さんはケンカ別れしていて、その間を俺に取り持ってほしいんだ。うん。間違いない。その暁に、俺と七海ちゃんは晴れて同棲と言う訳だな。
理解した。必要以上に理解した。
「わかったよ。きっと、七海ちゃんも大変だったんだね。じゃあ、お父さんと、しっかり話をつけてくるよ。心配しないで、上手くやってみせる」
そして、一緒に住もう。
そんな気持ちが伝わったのか、七海ちゃんは俺の両手をさっと掴み、凶器と称したあの上目遣いで、俺を見上げる。
「ありがとうございます。でも、ハヤタさん。これだけは約束してください。わたしに導かれてここまで来たと、絶対にお父さんへは言わないで。そして、試験を必ず合格してください。ヒーローになってわたしを助けて」
「ああ、もちろんだとも。じゃあ、七海ちゃん。また会おう」
そう俺は、彼女の指を名残惜しみながら、感覚だけを握り込み、示された通路を走った。
振り返りはしない。きっと彼女は泣いている。感動して泣いている。泣き顔なんて、見られたくないだろう。だから、俺は振り返らない。
って、カッコつけすぎだよな俺。
そんな感じでしばらく走ると、目の前に扉があった。とっても出っ張りもない金属製の扉。立ち止りそれに触れると、上下に分かれ、扉が開く。
零れ出るまばゆい光――、真っ白になりそうな視界の中で、ひとりの人影が見えた。それに目を細めると、やがて目が慣れ、扉の先が――スチール製のロッカーやベンチのある――何かの控室みたいな造りの部屋だとわかった。
そして、光の中で見えた人影は、白衣を着た白髪、初老の男性だった。
「あ、あなたは!?」
と、声を上げると、男性の目が俺に向いた。鋭い眼光。皺の刻まれた広い額。通った鼻筋に、白い口髭。白衣の下は、はだけたカッターとスラックスを細い体にまとい、黒く光る革靴が、遅れてこちらに向いた。
全容を見て、考える。とりあえず驚いてはみたものの。別に何か感慨があるわけでもない。しかし、この人は七海ちゃんのお父さんなんだろう。だったらまず、俺は言わなければいけない事がある。
「お父さん。娘さんを俺に――」
「断る!」
気合のこもった、妙に迫力のある拒絶だ。漫画だったら集中線が引かれている事だろう。と言っても、漫画なんて詳しくない俺だが……。それよりもだ。最後まで言わせてくれないあたりが、なんとも頑固おやじだろう。いや、間違いなく、頑固野郎だ。
しかし俺も、引き下がるわけにはいかない。
「お父さん――」
「わしはお前の親父とちゃうわぁ! ボケェ!」
今度は迫力だけではなかった。長身から繰り出されたチョッピングライトが、俺の顔面を捉え、振り抜かれた。
あまりの衝撃に俺は転がり、転がり、三回転。けたたましい音を立て、ロッカーにぶち当たった。
「いきなり何すんだよ。この野郎!」
「いきなり? 貴様ぁ! どっちが唐突だぁ!? あ? いきなり入ってきて、娘をくれ? 例えお天道様が許しても、このわしは絶対に許さへん。切り刻んで東京湾へ沈めたる」
「いや、そこまで言わせてくれてないじゃないですか……」
「うるさいわボケ!」
はいつくばる目前に、革靴がダンと床を鳴らす。見上げれば、睨み見下ろす男性の顔があった。口髭が怒りでひくついている。
「それにしてもや、遅れてきた思たら、ええ身分やのぉ本郷ハヤタぁ!」
「遅れて来たって? それより何で俺の名前知っているんですか? お父さん!?」
「踏むぞコラボケカスぅ! 昨日の夜、居酒屋で、あれほど手順を説明したやろが! 結局お前の正義はそんなもんか? ああ?」
昨日の夜? 居酒屋で? ああっ! 見た事あるぞこの人――
「あの時のおっさん!」
「よもや、忘れとったんちゃうやろなぁ?」
震える声と共に、俺の眼前で拳がギリリと握られる。こ、これは第二撃の予感……。
「わ、わ、忘れるわけないじゃないですかぁ!」
そうは言ってみたものの、何を忘れているかがわからなかった。そりゃあ、そうだろう。忘れてるんだから。
だけど、おっさんの顔は“それよりも”と、真面目な顔を通り過ぎ、焦りの色を見せていた。
「ええか、もう時間がない。総帥は本部に帰ったし、開会式は終わっとる。エントリーは済ませてあるから問題はないけどな……、本当やったら、お前にこれを熟読してもらう予定がパーや」
色々と引っかかる単語がちらほら――と一緒に差し出された紙っぺら一枚。それを受け取り、目を向けると不思議な言葉が目に留まる。
「取扱説明書?」
「そうや」
「何の?」
「決まっとるやろ、“お前の”や」
「俺の?」
そう聞き返すと、おっさんの顔が曇った。
「お前、忘れとるな。――自分で言うたんやぞ。正義に味方に成りたいて。せやからわしが、手早くあの後改造人間にしたったんやないか。地上最強のバイオサイボーグ、それがお前や、本郷ハヤタぁ!」
ビシッと向けられた人差し指、それをひとつ冷静に受け止める。
って、できるわけねぇ!
「いやいやいや、おっさん、正義の味方とか、サイボーグとか、改造人間だとか、夢の見過ぎだって――」
と、そこで俺の思考が脅威の演算能力を見せた。俺が改造人間――その根拠があるすぎる。七海ちゃんの市中引き回しで負ったはずの傷。それが、ない。アスファルトをガスガス引きずられたはずなのに、痛みだけで、傷がない。それよりだ。かなり深い煙突へ落下して無事だった。普通なら、その時点で死んでいる。
ま、まさか……、ホントに俺は改造人間?
「――って、俺、正義の味方になれるの?」
「アホかっ!? その為にお前はここへ来たんやろが。通称“虎の穴”――我らが正義の味方闘技場へ」
「へ?」
何が何だか……、と向けた視線に、おっさんは、手早く説明してくれた。
つまり、あれだ。虎の穴で行われる無差別格闘トーナメントで優勝すれば、晴れて正義の味方に採用されるという事らしい。一応、ルール無用のデスマッチとの事らしいが、いちいち驚いていても話が進まない。ので、とりあえず、冷静に聞いて、冷静に対処する。
「実にわかりやすい説明、ありがとうございました」
ぺこりと一礼。そして――
回れぇ、右。
「どこへ行くつもりや?」
「実家に、帰らせていただきます」
「ええんか? こんなチャンス二度ないで」
背中越しの言葉に、俺は首を横に振った。
「いいんです。俺、ケンカとか、からっきしダメだし……」
「そうか……」
力ない言葉をおっさんが言った。もし俺を本気で正義の味方にしようとしてくれていたのだったら、なんだか悪い気がする。けど、採用人数ひとりの狭きデスマッチを乗り越える事なんて、俺にはできない。何が何でも、命あっての物種だろう。
できるだけ申し訳なさそうな表情を作り、俺は振り返る。すると、おっさんはひとつ溜め息をついた。そして、白衣のポケットから、大きい赤く丸いスイッチがひとつ付いた――かなり昭和臭のする――リモコンを取り出し、肩をすくめて俺を見る。
「なら、無理強いはせえへん。せやけど、残念やなぁ……、できればこれは押したくなった」
スイッチに触れるおっさんの指。できればって、そのスイッチで何ができると言うのだろうか? 一応、聞いてみる。
「それは?」
「自爆スイッチ」
「は?」
“何の?”と浮かんだ疑問は、すぐに“誰の?”と変わった。いや、考えるまでもないのかもしれない。俺のなんだろう、ってオイ!
「さっき、無理強いしないって言っただろうがぁ!」
「言うとくけど、お前には口に出せやん技術が至る所に組み込まれとる。まあ、組み込んだんがわしやからな。天才的に開発した技術がぎょうさんはいっとる。それをこのまま外へ出せるとでも思っとるんか? ちゃんと漏えい対策を講じるのが、本当の天才や――」
ニヤリとおっさんの顔がゆがんだ。
「――どないする? 帰るか? 闘うか?」
これは、逃げ場のない選択――ですね。もう……。
「……闘わさせていただきます」
「よし、もうすぐ一回戦が始まる。ちゃんと取説読んどけよ」
そう満足げに、おっさんはリモコンを白衣にしまった。それにしても漏えいって、俺家に帰ってたし。それじゃあ、意味ないんじゃ……。
「あの、もし、俺がここに来なかったら……」
「決まっとるやろ、周りを巻きこんで一緒にドカンや」
そうマッドサイエンティストはカカカと声を上げた。




