風の底から
松島基地のフェンスの外に立って、滑走路を見つめている。
ゆっくりとタキシングしてきたF-2戦闘機が、滑走路の端に着こうとしていた。青と灰色の迷彩をまとった機体は、午後の光を受けて鈍く輝いている。
夏も終わろうとしているはずだが、アスファルトの照り返しはまだ強い。陽射しの芯にはまだ夏の名残が感じられる。
さっきまで走ってきたGS1200SSは、道路脇の空き地に停めてある。黒いカウルには高速道路で浴びた虫の痕跡がまだこびりついていた。
ヘルメットをタンクの上に置き、視線を滑走路へ戻した。
十五年ぶりに見る仙台の街は、すっかり復興が進み、震災前と変わらぬ賑わいを取り戻していた。
駅前には新しい商業ビルが建ち、ガラス張りの外壁が午後の光を反射してまぶしい。歩道には買い物帰りらしい若い夫婦がいて、ベビーカーの中の子どもが足をばたつかせている。
信号待ちの高校生たちは、制服のままアイスを食べ、何でもないことで笑いあっている。
ロードサイドにはチェーン店の看板が並び、駐車場にはミニバンや軽自動車が隙間なく停まっている。
あのとき完全に崩落しているのを見た巨大な家具店の建物もすっかり改修されて、何事もなかったかのように営業している。
広い駐車場には家族連れの車が並び、店内には明るい照明が灯っている。
あの崩落の記憶が、まるで幻のようだ。
よそ者である自分には、この街の光景を復興したととらえてよいのか分からない。
表面が元に戻ったからといって、何もかもが元通りになるわけではない。
季節の変わり目や、雨の降る前だけ疼く古傷のように、失われたものたちは、風景の裏側に沈殿したまま、簡単には消えない。
この街並みは、震災の傷跡を覆う大きな瘡蓋なのかもしれない。
だがその瘡蓋は、人々の復興にかける思いだとか、意地だとか、もしくは人間のしたたかさだとか、そういったものが年月をかけて積み上げ、作り上げてきたものなのだと思う。
何もできなかった一人でしかない自分は、ただ、その努力に、人々の意地に、敬意を払いたいと思った。
誰かの人生を外から眺めて、分かったような顔をする資格はない。
だから、分からないまま、分からなさを抱えたまま、頭を下げる。今の自分にできるのは、それだけなのだと思う。
海沿いの道を北上し、松島へ向かう。
かつて津波が押し寄せた場所には、今は防災緑地が静かに広がっている。
震災後に新しく植えられた松の木が、風に揺れながら影を落としていた。植えられたときは頼りない苗木だっただろう松の木は、10数年の時間を経て立派な樹木になろうとしている。
大きな被害を受けた海沿いの町も、今は観光客の姿が戻り、店の軒先には土産物が並んでいた。
観光船のエンジン音が静かな湾に響き、海鳥がその上をゆっくりと旋回している。
松島基地は地震と、それにつづく津波で甚大な被害を受けた。
あの時、仙台駐屯地や松島基地は、救援の拠点として昼夜を問わず稼働していた。
自衛隊員たちは、食料も暖房もない職場で、握り飯を分け合いながら復旧に当たったのだろう。
自分の家が流されたかもしれない。連絡のつかない身内がいたかもしれない。そんな状況でも、必死の復旧作業が続けられた。
まず基地を立て直し、飛べるものを飛ばし、動けるものを動かす。そうしなければ、もっと多くの人間が困ると知っているからだ。
自分は、あの時、仙台の街を一週間だけ訪れ、何も残せないまま東京へ戻った。
その引け目は、十五年経った今も、形を変えながら胸の奥に残っている。
滑走路の向こうで、F-2戦闘機が停止した。
機体の下で、整備員が最後の確認をしている。
青い機体は、朝の光を受けて、まるで海と空の境界線のように見えた。
やがて、エンジンの回転が高まり、機首がゆっくりと沈む。
胸の奥まで響くような低い振動が、地面を伝って足元へ届いてくる。
F-2は加速を始めた。
最初はゆっくり、次第に速く、そして一気に風を切り裂く。
青い機体が滑走路を駆け抜ける。
前輪が浮き、次いで主脚が地面を離れる。
青い機体は、陽光の中へまっすぐ上昇していく。
翼が白く輝き、機体は空の青へ溶け込むようにして遠ざかる。
やがて、ひとつの点になり、青空へ滲むようにして消えた。
しばらく呆然とその空を見つめていた。
羨望に似ていた。
あるいは、嫉妬だったのかもしれない。
それは、明確な役割を持ち、その役割のために地上で支えられ、飛び立っていくものに対しての羨望だった。
近くで離陸を見ていた男の子が、父親に向かって小さく叫んだ。
「すごいね」
父親はうなずいた。
「ああ、すごいな」
その何でもないやりとりが、妙にまぶしかった。
すごい、でいいのだと思った。
尊いとか、象徴的だとか、再生のメタファーだとか、そんな言葉を並べる前に、まずは、すごい、でいい。
人が立て直したものに対して、人が飛び続けることに対して、まっすぐにそう言える素直さが、まぶしかった。
フェンス越しの風が少し強くなった。
黒いGS1200SSは、陽を受けて相変わらず無愛想な顔をしている。丸目二灯の奥に感情などあるはずもないが、長い時間を一緒に走ってきた機械には、ときどき妙に人間じみた沈黙が宿る。
どこかへ着いたようでいて、まだ途中でもある。
終わったようでいて、何も終わっていない。
ヘルメットをかぶる前に、もう一度だけ空を見上げた。
F-2の姿はもう見えない。ただ、深く澄んだ青だけが広がっている。雲は高く、薄い。
自分はまだ走る。走れるうちは走る。何かを償うためでも、何かを証明するためでもなく、今はただ、自分の速度で前へ進むために。




