遠い旅
もうすぐ日没になろうという頃、東北自動車道を北上してきた一台のバイクが、パーキングエリアへ滑り込んだ。
大排気量の油冷エンジンが腹の底に響くような排気音を放つ。
タンクには黒い文字で SUZUKI、テールカウルには銀色の GS1200SS の文字が見える。
かなりの速度で走ってきたのだろう。黒い武骨なカウルには砂埃だけでなく、無数の羽虫の死骸が張り付いている。
リヤタイヤのトレッドは熱で溶けたように波打ち、触れれば火傷しそうだ。
バイクを降りてヘルメットを外すと、白髪交じりながら引き締まった男の顔が現れた。
まなざしは柔和にも見えるが、顎のあたりには強い意志が刻まれている。
ヘルメットを慎重にタンクへ置く。スクリーンの湾曲にちょうど収まり、タンクの上に置いただけでも簡単には落ちないのだ。それでも男は軽く揺すって安定を確かめてから、バイクを離れた。
喫煙スペースへ向かいながら、周囲を見渡す。
派手なエアロデバイスをまとったバイクを囲んで談笑する若いライダーたち。
少し離れた場所では、腹の出た中年グループが「反省会」と称して缶コーヒー片手に盛り上がっている。
さらに奥では、昔の暴走族のリバイバルのような集団が、騒音を撒き散らしていた。
群れること自体が悪いとは思わない。
ただ、群れることが目的になってしまうなら、バイクである必要はないのではないか。そんな思いが胸に浮かぶ。
「老害ってやつかもしれないな」
自嘲気味に呟きながら、胸ポケットからゴロワーズの箱を取り出す。
輸入煙草の専門店で偶然見つけた一箱。もう手に入らないと思っていた銘柄だ。
火をつけると、青白い煙がゆっくりと立ち上り、肺の奥へ染み込んでいく。
強烈ないがらっぽさが、かえって心地よかった。
十五年前。東日本大震災の年、仙台支店の復旧支援で被災地に入った記憶が、ずっと胸の奥に残っている。
2011年3月11日。その日は東京にいた。午後の光の差し込むオフィスで、床が波のように持ち上がるのを感じた。
窓の外では、高速道路の高架が大きく波打ち、縁に並んだ街灯が、今にも折れそうにしなっている。世界が壊れていく光景を、あれほどはっきりと見たのは後にも先にもあの日だけだ。
その後、仙台の支店の復興支援で、被災間もない仙台市へ入った。支店の者が手配してくれたホテルは、壁に長い亀裂が走り、エレベーターも動かない。非常階段を、毎晩、重い足で上った。
ホテルへ向かう道すがら、巨大なインテリアショップの二階の床が抜け落ちているのが見た。ソファやテーブルが、積み木のように折り重なって、一階に落ちている。
建物は、壁も床もない壊れかけた巨大な箱のようになっていて、地震の激しさを伺わせた。
一週間で、次の者と交代して、東京へ戻ることになった。
「東京の仕事があるから仕方ない」と自分に言い聞かせながらも、何も残せずに去ったこと、それが忸怩として、ずっと引け目のように背中に貼り付いていた。
年月を経てもその引け目は消えず、むしろ重さを増していった。
だから今回、長い休みが取れると分かったとき、自然と東北へ向かう旅を選んだ。
理由はそれだけではない。
息子と再会したこと。それもひとつの契機だったのだと思う。
最初は海沿いの駐車場だった。
白いキッチンカーが Coffee の、のぼりを出しているのを見て、ふらりと立ち寄った。
それが彼だった。
家を出てから、もうすぐ十年が経とうという頃だ。
中学生だった彼も、青年の顔つきになっていたが、なぜかすぐに分かった。
後で聞くと、彼もバイクを見て気づいていたらしい。
何と言えばいいか分からず、「大きくなったな」と言うと、
「あなたは老けたね」と返された。
それ以来、彼のキッチンカーが近くに来ると連絡をくれるようになり、
何か月かに一度、彼のコーヒーを飲みに行くようになった。
ぎこちなさはあったが、会うたびに少しずつ何かがほぐれていくのを感じた。
ある日、彼は言った。
「出ていったことを責める気はないよ。お金に困ることはなかったし。
それに、最近はなんとなく分かる気がするんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で長い間固まっていた何かが、ゆっくりほどけるのを感じた。
許されたわけではない。ただ、少しだけ何かが変わった。
その「少し」が、今回の旅の背中を押したのかもしれない。
思えば引け目の多い人生だ。
会社を辞め、家族を捨てて旅に出た。愚かだと分かっていても止まれなかった。
それ以前も、それ以降も、愚かな選択ばかり重ねてきた気がする。
だから今回の旅は、自分のこだわりや引け目、さまざまなものに対する清算なのかもしれない。そんな気がしている。
煙草を灰皿に落として火を消す。
空はさらに色を失い、薄い群青が広がっていた。
遠くで高速道路を走る車の音が、一定のリズムで響いている。
バイクへ戻り、ヘルメットを手に取る。
指先に触れたタンクの冷たさが心地よかった。
「さて、行くか」
誰に言うでもなく呟き、セルを押す。
油冷エンジンが目覚め、太い排気音を吐き出す。
東北の空気は夜になると急に冷える。
だが、その冷たさが今の自分にはちょうどよかった。
アクセルを軽く煽ると、黒い車体が静かに震える。
ヘッドライトが闇を切り裂き、道の先へ細い光の道を伸ばした。
胸の奥で、風がひとつ吹いた。
それは十五年前の引け目とも、家族を捨てた罪悪感とも、息子との再会の余韻とも、仕事を辞めた後の空白とも違う。
もっと愚かで、もっと正直な風だった。
「それでも、旅に出た。
愚かだと分かっていても、止まれなかった。」
バイクはゆっくりとパーキングエリアを離れ、夜の東北道へ溶け込んでいった。




