第9話「暗雲の兆しと驕れる刃」
王都から遠く離れた北の国境付近、険しい山々に囲まれた岩肌の露出する峡谷地帯。
厚く垂れ込めた灰色の雲が太陽の光を完全に遮り、昼間でありながら周囲は夕暮れのように薄暗かった。
峡谷を吹き抜ける風は氷のように冷たく、岩の隙間を縫うようにして不気味な低い音を立てている。
空気はひどく乾燥し、呼吸をするたびに喉の奥が張り付くような感覚があった。
この荒涼とした大地を進むのは、銀色の豪華な鎧を身にまとったギルベルトと、彼が率いる高ランク冒険者たちのパーティだ。
彼らは国の騎士団からの依頼を受け、この峡谷に巣食う強力な魔物の群れを討伐するために派遣されていた。
ギルベルトは革の手袋をはめた手で苛立たしげに馬の轡を引き、後ろを振り返る。
「遅いぞ、もっと足場をしっかり固めて進め。名誉ある討伐依頼だというのに、お前たちのそのたるんだ態度は何だ」
冷たく響く声は、険しい岩肌に反響して不快な余韻を残した。
同行する仲間たちは疲労で顔を青ざめさせながらも、ギルベルトの権力と癇癪を恐れて何も言い返すことができない。
彼らの足元は崩れやすい岩で覆われており、一歩踏み出すたびに細かい石が谷底へと転がり落ちていく。
本来であれば、斥候役が前方の安全を確認し、周囲の気配に警戒を払いながら進むべき危険地帯だ。
しかし、かつてその役割を担っていたレオンを迷宮で切り捨てた彼らには、周囲の微細な変化を感じ取る目も耳も残されていなかった。
「あのような無能なテイマーがいなくなって、かえって動きやすくなったというものだ」
ギルベルトは鼻で笑い、腰に帯びた黄金の装飾が施された剣の柄を撫でた。
自分の剣技と仲間たちの魔法があれば、どんな魔物であろうと容易に蹂躙できるという絶対の自信が、彼の目を濁らせていた。
峡谷の奥深くに進むにつれて、風の音が徐々に変わり始めた。
ヒューヒューという乾いた音の中に、微かな獣の唸り声のような、地鳴りのような重い響きが混ざり始めている。
周囲の岩肌にへばりついていた乾燥した苔が、異常な熱気を帯びて黒く変色し、異臭を放ち始めていた。
焦げた肉と硫黄が混ざったようなその匂いは、鼻を突くほど強烈だ。
しかし、驕り高ぶるギルベルトは自身の装備の手入れに気を取られ、その明らかな異変に気づこうとしない。
仲間の一人が恐怖に顔を引きつらせ、震える声でギルベルトに声をかけた。
「ギ、ギルベルト様……なんだか空気がおかしいです。それに、魔物の気配が一つもありません。まるですべての生き物が、何かから逃げ出しているような……」
「黙れ、臆病風に吹かれたか。魔物どもが我々の威風に恐れをなして隠れているだけのことだ」
ギルベルトは部下の言葉を冷たく一蹴し、さらに奥へと歩みを進めた。
その時、谷底から突き上げるような巨大な震動が彼らの足元を揺らした。
崩れかけた岩肌から土砂が雪崩のように降り注ぎ、馬たちがパニックを起こして嘶きを上げる。
ギルベルトが目を見開いて谷の奥を見据えると、そこには彼の想像をはるかに絶する光景が広がっていた。
漆黒の瘴気が地面から間欠泉のように噴き出し、空を覆う灰色の雲をさらに黒く染め上げていく。
その瘴気の海の中から、赤い目を爛々と輝かせた無数の魔物たちが、津波のように押し寄せてくるのが見えた。
ゴブリン、オーク、そして彼らが相手にするはずだった強力な魔獣たちさえもが、何かに追われるように狂乱状態に陥り、峡谷を埋め尽くしてなだれ込んでくる。
それはもはや単なる群れではなく、あらゆる生命を蹂躙する黒い濁流だった。
「な、なんだこれは……こんな数の暴走など、聞いていないぞ」
ギルベルトの顔から血の気が引き、手にした豪華な剣がカタカタと震えた。
圧倒的な数の暴力と、空気を震わせる狂気の咆哮の前に、彼のちっぽけなプライドは瞬く間に砕け散っていく。
立ち向かうことなど不可能だ。
逃げなければ、確実に命はない。
ギルベルトは仲間たちに撤退の指示を出すことも忘れ、懐から緊急用の高価な『王都帰還の転移石』を取り出し、躊躇なく握りつぶした。
空間が歪み、魔法の眩い光が彼一人だけを包み込む。
残された仲間たちは「ギルベルト様! 置いていかないでくれ!」と絶望の悲鳴を上げながら、押し寄せる魔物の濁流に瞬く間に飲み込まれていった。
転移の光に消える直前のギルベルトの目には、彼の身勝手な判断によって引き起こされた、国を揺るがす未曾有の災厄が黒い影を落としていた。
同じ頃、遠く離れた王都の宿屋のベッドで休んでいたレオンは、不意に目を覚ました。
窓の外はまだ深い夜の闇に包まれているが、空気が微かに震えているのを感じる。
肩元で眠っていたティアも起き上がり、北の空に向かって低く警戒の唸り声を上げていた。
レオンは窓辺に立ち、冷たいガラスに額を押し当てる。
研ぎ澄まされた感覚が、はるか遠くの地で起きている異様な魔力の奔流と、血の匂いを孕んだ不吉な風を捉えていた。
『何か、とても恐ろしいものが動き出した』
レオンは胸の奥がざわつくのを感じながら、北の夜空を覆い始めたどす黒い雲を静かに見つめていた。
それは、王都の平和な日常が崩れ去る、静かで確かな前兆だった。




