第8話「酒場の喧騒と広がる噂」
西の空が深い茜色に染まり、王都の石畳に長く伸びた影が夜の訪れを告げていた。
通りに面した建物の窓には次々とランプの灯りが点り、夕暮れの空気に温かなオレンジ色の光を滲ませている。
1日を終えて家路につく人々の足音や、屋台から漂う香ばしい肉の焼ける匂いが、街路を満たしていた。
レオンは森での依頼を終え、冒険者ギルドの重い樫の木の扉の前に立っている。
金属の取っ手は昼間よりも冷たく、夜気を含んで結露していた。
扉を押し開けると、むせ返るような熱気と、数十人もの人間が発する様々な匂いが入り混じった空気が全身を包み込む。
エール酒の甘酸っぱい香り、汗と土にまみれた革鎧の匂い、そして焼けた獣肉の強烈な匂いだ。
酒場を兼ねたギルドの1階は、1日の労働を終えて羽目を外す冒険者たちでごった返していた。
ジョッキを打ち鳴らす音や、テーブルを叩いて大笑いする声が、高い天井に反響して渦を巻いている。
レオンは肩に乗るティアがその喧騒に怯えないよう、指先でそっと背中を撫でながらカウンターへと向かった。
昼間と同じ、眼鏡をかけた細身の青年職員が、山積みの書類仕事に追われて忙しそうに羽根ペンを動かしている。
「すみません、依頼の報告をお願いします」
レオンの静かな声に、職員はわずかに肩を揺らして顔を上げた。
疲労で少し影の落ちた目が、レオンの顔と差し出された革袋を交互に見つめる。
「ああ、レオン様ですね。薬草の採取とゴブリン討伐の依頼でしたが、もう終わられたのですか」
職員の声には、明らかな疑念が混ざっていた。
ソロになったばかりのテイマーが、たった半日で森を往復し、薬草採取と討伐を両方こなして帰ってくるなど通常では考えられないからだ。
レオンは何も言わず、カウンターの上に革袋の中身を並べていった。
まず取り出されたのは、傷一つなく根まで完全に保たれた20本の月影草だった。
淡い青色の葉は萎れることなく、まるでつい先ほど森から引き抜かれたかのように瑞々しい光沢を放っている。
「これは……見事な月影草ですね。葉の裏の産毛まで完璧に傷つけずに採取されている」
職員は眼鏡の奥の目を丸くし、月影草を手に取って光にかざした。
その手はかすかに震えており、信じられないものを見るような視線がレオンに向けられる。
次にレオンがカウンターに置いたのは、討伐の証であるゴブリンの右耳だった。
5つの耳はどれも刃物で鋭く一息に切断されており、肉の断面は恐ろしいほど滑らかで美しい。
それは、相手が一切の抵抗をする間もなく、一撃で致命傷を与えられたことを物語っていた。
周囲の喧騒が、少しずつ静まっていく。
レオンの隣のカウンターで別の依頼の報告をしていた中堅の冒険者たちが、その見事な素材と討伐部位から目を離せなくなっていた。
「おい、見ろよあの切り口。ゴブリン相手とはいえ、あんなに綺麗に一太刀で切り落とせるものか」
「あの月影草の保存状態も異常だ。腕利きの薬草採りでも、あそこまで完璧には抜けないぞ」
ひそひそとした囁き声が、酒場のあちこちから波紋のように広がっていく。
無能と呼ばれ、パーティを追放されたはずの少年の姿と、カウンターに並べられた常識外れの成果。
その圧倒的なギャップに、ギルド内の空気が徐々に好奇と畏怖の入り混じったものへと変わっていくのを感じた。
職員はゴクリと息を呑み、査定額を書き込む羊皮紙に向かって羽根ペンを走らせる。
「素晴らしい成果です。素材の質が最高ランクですので、報酬は規定の3倍となります」
差し出された銀貨を受け取りながら、レオンはただ静かに頷いた。
周囲からの突き刺さるような視線を感じながらも、その心は不思議なほど穏やかだった。
他人の評価など、今のレオンには風の音と同じように通り過ぎていくだけのものになっていた。
「随分と、鮮やかな手際だったようね」
不意に、背後から微かな花の香りが漂ってきた。
振り返ると、昼間に掲示板の前で出会った群青色のローブの少女、アリアが立っていた。
深く被ったフードの奥で、琥珀色の瞳が楽しげな光を宿している。
周囲の粗野な冒険者たちとは明らかに違う、凛とした空気が彼女の周りだけを包み込んでいた。
「たまたま運が良かっただけですよ。森が穏やかでしたから」
レオンが短く答えると、アリアは小さく微笑んで一歩近づいてきた。
「運だけであの切断面は作れないわ。それに、その服のどこにも土や血の汚れがついていない」
彼女の鋭い視線が、レオンの衣服の裾から剣の柄までを滑るように観察していく。
その見透かされるような視線に、レオンは少しだけ居心地の悪さを感じて視線を逸らした。
肩のティアが、アリアの放つ静かな威圧感に反応して小さく喉を鳴らす。
「あなた、本当はどれだけの力を隠しているのかしら」
アリアの声は周囲の喧騒にかき消されるほど小さかったが、レオンの耳にははっきりと届いた。
詮索されることを避けたかったレオンは、軽く会釈をして足早にギルドの出口へと向かう。
背後から追いかけてくる気配はなかったが、その琥珀色の瞳がいつまでも自分の背中を見つめ続けているような感覚が残った。
外に出ると、夜の冷たい風が火照った顔を優しく撫でていく。
星が瞬き始めた夜空を見上げながら、レオンはティアの背中を撫で、街路樹の影に溶け込むように歩き出した。




