第11話「琥珀の願いと決意の炎」
ギルドの喧騒から逃れるように、アリアはレオンの腕を引いて建物の裏手にある中庭へと連れ出した。
高い石壁に囲まれた中庭は、朝の光がまだ十分に届かず、薄暗く冷やりとした空気が溜まっている。
壁を這う蔦の葉が風に揺れ、乾いた音を立てていた。
遠くから聞こえる警鐘の音も、ここでは随分とくぐもって聞こえる。
アリアは足を止め、深く息を吐き出して呼吸を整えた。
彼女の肩が微かに上下するたび、上質な布地が擦れる衣擦れの音が響く。
レオンは彼女の数歩後ろに立ち、静かに言葉を待った。
肩のティアは、アリアから発せられる緊迫した気配を感じ取り、小さな瞳を瞬かせている。
「急に連れ出してしまって、ごめんなさい」
アリアが振り返り、ゆっくりとフードを後ろに脱ぎ去った。
美しい銀糸の髪が朝の微かな光を捉え、滑らかに揺れる。
そして、これまで隠されていた彼女の服装が、レオンの目にはっきりと映った。
質素なローブの下に隠されていたのは、王家の紋章が金糸で繊細に刺繍された、美しい群青色の乗馬服だった。
その生地の滑らかさや仕立ての良さは、一般の冒険者が到底手に入れられるものではない。
「私の本当の名前は、アリア。この国の王女です」
アリアの口から紡がれた言葉は、静かでありながら強い意志を孕んでいた。
レオンはわずかに目を見開いたが、驚きで声を上げるようなことはなかった。
彼女がまとう気品や、言葉の端々に表れる教養の深さから、ただ者ではないことは薄々感じていたからだ。
ただ、一国の姫君が自分のような名もなき冒険者の前に立っているという事実に、少しだけ現実感が揺らいだ。
「王女殿下が、どうして僕のような者を」
レオンの問いかけに、アリアは琥珀色の瞳を真っ直ぐに向けてきた。
その瞳の奥には、恐怖や焦燥を押し殺し、国を救おうとする強い決意の火が灯っている。
「単刀直入に言うわ。北の峡谷から、数万規模の魔物の暴走がこの王都に向かっているの。引き起こしたのは、あなたの元のパーティのリーダー、ギルベルトよ」
ギルベルトの名前が出た瞬間、レオンの心臓が不快なリズムで脈打った。
彼が見捨てられた迷宮の冷たい石畳、闇に光るオーガの目、そして背中を押し出された感覚が、泥水のように思考の底から浮かび上がってくる。
「彼は事態を収拾できずに逃げ帰り、王都は今、未曾有の危機に瀕しているわ。近衛騎士団も防衛に向かっているけれど、あの数の魔物を前にしては、時間が稼げるかどうか……」
アリアの声が微かに震え、彼女は両手を胸の前で強く握りしめた。
白い指先が、力がこもって白く変色している。
「私は見たわ。あなたが森の依頼から帰ってきた時の、あの異常なまでの成果を。そして、あなたの肩にいるその子が持つ、底知れない力の気配を」
アリアの視線が、レオンの肩にいるティアへと向けられる。
ティアは短く喉を鳴らし、レオンの首元にぴったりと身を寄せた。
「お願い、レオン。あなたの力で、この国を……民を救ってほしいの」
王女であるアリアが、レオンの前に深く頭を下げる。
銀色の髪がサラリと流れ落ち、石畳を微かに撫でた。
その姿は、あまりにも痛ましく、そして美しい懇願だった。
レオンはしばらくの間、無言のまま石畳を見つめていた。
耳の奥で、かつての仲間たちの冷たい声が響く。
役立たず、無能、囮。
彼らは自分を見捨て、あまつさえ自分たちを窮地に追いやった挙句に逃げ出した。
そんな連中が住むこの国を、自分は命を懸けて守る義理があるのだろうか。
黒い感情が胸の奥で渦を巻き、冷たい氷のように心を閉ざそうとする。
しかし、その時だった。
肩に乗るティアから、これまで以上に温かく、力強い魔力の波が流れ込んできた。
それは言葉を持たない神獣からの、無償の愛と励ましの抱擁のようだった。
ティアの魔力は、レオンの心に巣食う暗い感情を優しく包み込み、ゆっくりと溶かしていく。
『僕はもう、過去の暗闇に囚われる必要はないんだ』
レオンは顔を上げ、深く頭を下げたままのアリアを見つめた。
彼女は民のために自身の身分を捨ててまで頭を下げている。
そのひたむきな姿は、暗闇の中で傷ついていたティアを助けようとした時の自分自身の心と、どこか重なって見えた。
「頭を上げてください、アリア様」
レオンの静かな声に、アリアがゆっくりと顔を上げる。
彼女の琥珀色の瞳には、わずかに涙が滲んでいた。
「僕は、自分を見捨てた者たちのために戦うつもりはありません。でも……」
レオンは視線を遠くの空へと向けた。
そこには、王都の日常があり、名も知らぬ人々が懸命に生きている街並みがある。
「この街の美味しいパンの匂いや、ギルドの騒がしい空気は、悪くないと思っています。それを理不尽に奪われるのは、少し嫌な気分です」
レオンの口元に、薄く柔らかな笑みが浮かぶ。
それは、過去の痛みを乗り越え、自身の力で未来を切り開くことを決めた者の、静かで力強い表情だった。
アリアの瞳から、安堵の涙が1粒だけ零れ落ち、石畳に小さな染みを作った。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
彼女の声は震えていたが、そこには確かな希望が宿っていた。
レオンは腰の剣の柄に手を当て、深く息を吸い込む。
冷たい朝の空気が肺を満たし、全身の血が熱を帯びて巡り始める。
ティアとの魂の繋がりがさらに強固なものとなり、途方もない力が体の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
「行きましょう。魔物の群れが王都の壁に触れる前に、すべて終わらせます」
レオンの言葉には、一片の迷いもなかった。
2人は裏庭を抜け、絶望が迫り来る北の城壁へと向かって歩き出した。
彼らの歩む道は、王都の運命を大きく変える戦いの舞台へと真っ直ぐに繋がっていた。




