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第10話「遠雷の響きと崩れゆく虚栄」

 東の空が白み始める前の、夜と朝が交じり合う冷たい時間だった。

 王都の石畳は夜露に濡れ、街灯の鈍い光を水面のように反射している。

 レオンは宿屋の硬いベッドから身を起こし、薄手の毛布をそっと押し除けた。

 窓枠の隙間から忍び込む風は、いつもの朝の澄んだ冷気とは異なり、微かに土の焦げるような異臭を運んできている。

 肩元で丸くなっていたティアも目を覚まし、小さな鼻先をピクピクと動かして北の空気を嗅ぎ取っていた。

 その瑠璃色の鱗は、不安を映し出すように普段よりも暗い色を帯びている。

 レオンは窓辺に歩み寄り、冷たいガラス窓を押し開けた。

 肺に吸い込んだ空気はひどく重く、喉の奥に鉄錆のような嫌な味を残す。

 まだ眠りについているはずの王都の静寂を破るように、遠く北の方角から、低く鈍い地鳴りのような音が響いてきた。

 雷雲が地を這って近づいてくるかのような、絶え間ない振動が足の裏から伝わってくる。


『この風の匂い、それにこの振動……普通の魔物の群れじゃない』


 レオンは指先を微かに震わせながら、北の空を覆う異様な暗雲を見つめていた。

 その雲は朝日に照らされることを拒絶するように、鉛色の腹を重く垂れ下げている。

 ティアがレオンの首筋に体を擦り付け、小さな鳴き声で警告を発した。

 魂の共鳴を通じて流れ込んでくるティアの魔力は、かつてないほどの緊張感に満ちており、レオンの心臓の鼓動を早めていく。




 同じ頃、王城の堅牢な石壁に囲まれた謁見の間では、重苦しい空気が床を這い回っていた。

 高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床を冷ややかに照らし出している。

 その美しい床の上に、泥と血にまみれた見苦しい姿の青年が這いつくばっていた。

 かつて銀色に輝いていた豪華な鎧は見る影もなくひしゃげ、泥と魔物の返り血で黒々と汚れている。

 乱れた金髪から滴る汗が床に落ち、小さな水たまりを作っていた。

 ギルベルトだった。

 彼は峡谷での魔物討伐に失敗し、仲間を見捨てて自分だけ王都へと逃げ帰ってきたのだ。


「申し上げます、北の峡谷より数万に及ぶ魔物の大群が、この王都へ向かって進軍しております」


 ギルベルトの声は恐怖と疲労で掠れ、かつての傲慢な響きは完全に失われていた。

 玉座に座る国王の顔に、深い苦悩の皺が刻まれる。

 周囲を取り囲む大臣や貴族たちは、信じられないものを見るような目でギルベルトを見下ろしていた。


「数万だと。貴殿ら高ランク冒険者の部隊が、討伐に向かったのではなかったのか」


 国王の低く重い声が、謁見の間に反響する。

 ギルベルトは肩をびくりと震わせ、床に擦り付けた顔を歪めた。


「そ、それは……予想を遥かに超える異常事態でして。我々の力が及ばないほどの、天災のような魔物の群れだったのです」


 彼は必死に言葉を紡ぎ、自らの失敗を正当化しようと試みる。


「それに、道案内役の斥候がひどく無能で、我々を罠に嵌めたとしか……」


 その場しのぎの言い訳が虚しく響き渡る中、玉座の傍らに立つ1人の少女が、冷たい眼差しでギルベルトを見据えていた。

 銀糸のような美しい髪を揺らし、華美なドレスではなく動きやすい群青色の乗馬服を身にまとったアリアだった。

 彼女の琥珀色の瞳には、保身のために嘘を重ねる醜い男への侮蔑の色がはっきりと浮かんでいる。


「自分の無策と驕りを、他人のせいにするのですね」


 アリアの凛とした声が、ギルベルトの言葉を鋭く断ち切った。

 ギルベルトは顔を上げ、驚愕に目を見開く。

 王女がこれほど直接的に臣下を非難するのは異例のことだった。


「ア、アリア殿下、これは誤解で……」


「もう結構です。あなたの言葉には、もはや何の価値もありません」


 アリアは冷たく言い放ち、視線を国王へと向けた。


「お父様、このままでは王都は火の海になります。近衛騎士団の動員だけでは到底防ぎきれません」


 国王は重々しく頷き、苦渋に満ちた表情で目を閉じた。


「防衛線を構築せよ。民の避難を最優先とし、ギルドにも協力を要請するのだ」


 その命令が下されると同時に、王宮の鐘がけたたましく鳴り響き始めた。

 それは王都の危機を知らせる、不吉な警鐘だった。

 ギルベルトは這いつくばったまま、自分の地位と名誉が音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。

 彼に残されたのは、恐怖と絶望だけだった。




 アリアは逃げるように謁見の間を退出していく貴族たちを一瞥すると、背を向けて足早に廊下を歩き出した。

 彼女の頭の中には、ギルドで出会った1人の少年の姿が浮かんでいた。

 穏やかな瞳の奥に底知れぬ力を隠し持ち、小さな竜と共に歩むレオン。

 彼ならば、あるいはこの絶望的な状況を覆すことができるかもしれない。

 アリアは自身の身分を隠すためのローブを掴み取り、王宮の裏門へと向かって走り出した。

 冷たい朝の空気が彼女の頬を打ち据えるが、その歩みには一切の迷いがなかった。

 街の通りには、警鐘の音に驚き慌てふためく人々の姿が増え始めている。

 荷車に家財道具を詰め込む音、子供の泣き声、怒声が入り混じり、王都は急速に混沌へと呑み込まれつつあった。

 アリアは人波を縫うようにして、冒険者ギルドへと急ぐ。

 石畳を蹴る足音だけが、彼女の焦燥を刻んでいた。




 冒険者ギルドの建物内は、すでに怒号と混乱の渦に包まれていた。

 普段は酒を酌み交わすテーブルがなぎ倒され、武装を急ぐ冒険者たちが所狭しと駆け回っている。

 皮鎧の留め具を締める音、剣の刃こぼれを確認する金属音、そして死を予感する者たちの荒い呼吸音が空気を重くしていた。

 受付のカウンターでは、ギルドの職員たちが血の気を引かせた顔で防衛部隊の編成表に書き込みを行っている。

 レオンは喧騒の隅にある木の柱に寄りかかり、静かにその様子を見つめていた。

 彼の衣服はすでに整えられており、腰の剣はいつでも抜ける状態にある。

 肩に乗るティアは、周囲の張り詰めた空気を嫌がるように、レオンの首筋に顔を埋めていた。


「どうやら、本当にとんでもないことが起きているみたいだね」


 レオンはティアの背中を優しく撫でながら、独り言をいうように呟いた。

 恐怖はない。

 ただ、これから起こるであろう悲劇の予感が、胸の奥を冷たく締め付けているだけだ。

 自分に見捨てられた迷宮での記憶が、微かに脳裏をかすめる。

 しかし、ティアから伝わる温かい魔力の波が、その冷たい記憶をすぐに溶かしてくれた。

 その時、ギルドの重い扉が勢いよく開け放たれた。

 外の眩しい朝陽を背に受けて立っていたのは、息を切らしたアリアだった。

 彼女は群青色のローブを深く被っていたが、その隙間からこぼれる琥珀色の瞳は、群衆の中から真っ直ぐにレオンの姿を探し当てていた。

 アリアは周囲の冒険者たちをかき分け、迷うことなくレオンの元へと歩み寄る。

 その足取りには、王族としての威厳と、1人の少女としての必死な懇願が入り混じっていた。

 レオンは静かに姿勢を正し、彼女の言葉を待つ。

 王都を包む混乱の音は、2人の間にある僅かな距離の中だけは、届かないかのように静まり返っていた。

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