8.僕の脳みそがショートしそうだ!!!
土曜日の早朝。陽光は丁寧に調合された温かい蜜のように、リビングのレースのカーテンを通して床に優しく降り注ぎ、空気中に漂う塵さえも朧げな金色の縁取りで染め上げていた。
僕は璃を起こさないよう、音を立てずにそっと部屋を出た。 リビングのすべてが静謐で美しい。冷蔵庫が稼働する単調で安心感のあるブーンという音や、窓の外から遠く聞こえる、この都市が目覚める時の最初のぼんやりとした喧騒さえ、はっきりと聞き取れるほどだ。
この純粋な、『家』の日常感。 ここだけが、僕と璃の共通の記憶で満たされたこの空間だけが、すべての防備を解き、親情に癒やされたいと願う、ありのままの兄に戻れる場所だ。
僕は昨夜の温かい雰囲気を続けようと、璃のために豪華な朝食を作ろうとキッチンに入った。 数年前、璃が大好きだったアニメの主題歌を口ずさむ。歌詞はもうろくに覚えていないけれど、その馴染み深いメロディーは心に刻まれているようだった。
しかし、この静かで平和な雰囲気の中、唐突で急かすような振動音が、この美しさを突然打ち砕いた。
『ブブブ――ブブブ――ブブブ――』
音はリビングのローテーブルから聞こえてきた。 一台のシルバーホワイトのスマホが、ガラスの天板の上で狂ったような頻度で震え、跳ね回り、イラつくノイズを発している。 それは璃のスマホだ。彼女は昨夜、無造作にここに置きっ放しにして、しかもおやすみモードにしていたらしい。
おやすみモード下でもこれほど執拗に振動を続けるということは、同じ番号から極めて短時間のうちに、反復的かつ途切れることのない着信があることを意味している。
僕は無意識に眉をひそめた。心の中で広がりかけていた心地よさが、一瞬にして不吉な予感に取って代わられた。 誰だ? 土曜の早朝からこんな風に璃に連絡してくるなんて。
手を拭き、まだ狂ったように震えているスマホを手に取った。 スマホ画面の冷たい感触と、今の僕の少し火照った指先が鮮明な対比をなしていた。 画面に表示された内容は、僕の不安を一瞬で数倍に膨れ上がらせた。
通知欄のページ全体が、びっしりと並んだ赤いバッジで埋め尽くされている。
不在着信(99+) 〇Chat(99+) SMS(99+)
すべての通知が、たった一人の連絡先――『玥』から来ていた。 僕の心臓がドスンと沈んだ。 この頻度と量の呼び出しは、まるで絶望的で、死に物狂いの救難信号のようだ。 脳が高速回転し始め、あらゆる最悪の可能性が潮のように押し寄せてきた。
ダメだ、すぐに璃を起こさないと。 爆発しそうなスマホをきつく握りしめ、僕は璃の部屋の前まで早足で歩き、内心の焦りを抑えながらドアをノックした。
『ドンドンドン』
「璃! 電話だ!」
僕の声は予想よりも大きく、張り詰めた響きを含んでいた。 部屋の中は静まり返り、何の返事もない。 明らかに、彼女も昨夜の僕と同じように、再会の興奮で夜更かしをして、今はぐっすり眠っているのだろう。
僕は深く息を吸い、ノックの力と声のボリュームを上げた。
「璃! 起きろ! 急用だ!」
数秒後、部屋からようやくガサゴソと布団が擦れる音が聞こえ、続いて璃の極めて不満げな文句が飛んできた。無理やり暖かい巣から引きずり出された猫のように、毛を逆立てているのがわかる。
「クソお兄! 今何時だと思ってんのよ? まだ空も明るくないじゃない! 昨日は遅くまで起きてたんだから、もう少し寝かせてよ! うるさい!」
彼女の声は不明瞭で、寝起きの不機嫌さに満ちていた。 普段なら笑って言い返すところだが、今はそんな気分には全くなれなかった。
「『玥』って人から電話だ」
僕はドア越しに、早口で説明した。
「相手からものすごい数の着信がある! スマホの電池がなくなりそうだ! かなり緊急みたいだぞ!」
彼女はまだ文句を言い続けるか、あるいは放っておいて寝かせてくれと言うかもしれないと思っていた。 しかし、ドアの向こうの世界は、僕が『玥』という名前を出した瞬間に静寂に包まれた。
まるで時間が突然凝固したかのような感覚だ。 その名前を聞いた後、璃の顔から眠気が一瞬で引き、瞳孔が収縮する様子さえ想像できた。
数秒後、閉ざされたドアの向こうから、先ほどとは全く違う、はっきりと目が覚めた切迫した声が聞こえてきた。
「待って! 服着るから、すぐ行く!」
その声から、気だるさや不機嫌さは跡形もなく消えていた。 僕の心臓も、喉元まで競り上がった。
半分もしないうちに、ドアが『カチャ』と内側から開けられた。 璃は乱れた寝癖を直す暇もなく、大きめのTシャツを適当に被り、裸足のまま飛び出してきた。顔色は少し青白く、いつも誇りと少しの強がりを湛えている美しい瞳は、今、焦燥と憂慮で塗りつぶされている。
彼女は僕に無駄口を一つも叩かず、手からスマホをひったくると、細い指を画面上で素早く滑らせ、すぐにかけ直した。 電話はほぼ即座に繋がった。まるで相手がずっと電話の前で、この命綱を待っていたかのように。
璃はスマホを耳に強く押し当て、もう片方の手を無意識に拳に握りしめていた。力が入りすぎて関節が白くなっている。
「もしもし? 玥? どうしたの?」
彼女の声は低く抑えられていたが、異常なほどはっきりしていた。 受話器の向こうから聞こえてきたのは、明確な返答ではなく、抑圧された、今にも崩壊しそうな、電流のノイズ混じりの泣き声だった。 それは風前の灯火のように弱々しく、同時に恐怖と無助を含んでいた。
「た……助けて……」
たった一言。だがそれは二つの重い鉄槌のように、僕の心臓を激しく打ち砕いた。 その瞬間、呼吸が止まりそうになった。 璃の体がビクッと震えるのが見えた。だが彼女の顔には、少しの狼狽も浮かんでいなかった。 その瞬間、彼女は別人のようだった。
「今どこ?」
璃は何があったのかを問いたださず、余計な慰めも長話もせず、最もシンプルで、最も直接的で、最も有効な方法で、相手の具体的な位置を確認し始めた。 彼女の眼差しはナイフのように鋭く、虚空の一点を凝視し、脳は驚異的な速度で回転しているのがわかる。
「深圳……あなたたちのところの……華強北……SEG……」
電話の向こうの声は途切れ途切れで、息も絶え絶えだった。背景には騒がしい人声や通りの店の広告音が混ざり、判別が難しい。 だが『華強北』と『SEG』という二つのキーワードを、僕たちははっきりと捉えた。
「わかった、聞いて、玥」 「電話を切らないで。もし状況が許すなら、電話をポケットに入れて、通話状態を維持して。監視カメラのある場所か、人が多い場所を探してそこにいて。自分の身を守って。待ってて、すぐ行くから!」
璃が言い終わるやいなや、向こうから短い悲鳴が聞こえ、電話は切れた。
ツーツーツー……
話し中の音が静かなリビングで、とりわけ耳障りに響く。 璃はスマホを下ろし、顔色はますます蒼白になった。 彼女は下唇をきつく噛み、荒い呼吸で胸が上下している。
数秒の沈黙の後、彼女は猛然と顔を上げ、赤くなった目を僕に向けた。
「クソお兄」
彼女が口を開いた。緊張で声はわずかに震えていたが、眼差しは異常なほど断固としていた。
「お願いがあるんだけど、いい?」
そんな彼女を見て、僕の心臓は鷲掴みにされたように酸っぱく痛んだ。 あの『玥』という女の子が何に遭遇したのかは知らない。でも分かっているのは、僕の妹が今、極度の心配と恐怖の中にいて、僕を必要としているということだ。
僕は少しも躊躇わず、一歩前に出て、温かい手のひらを彼女の冷たい肩にそっと乗せ、最も落ち着いた、彼女を安心させられるような口調で、一言一句答えた。
「いいよ。お兄ちゃんは、いつだって無条件でお前に協力する」
これは兄としての最も本能的な反応であり、最も固い約束だ。
僕と璃は最速で着替えた。 顔も洗わず、朝食も食べず、余計な言葉さえ交わさなかった。 目に見えない阿吽の呼吸が僕たちの間に流れている。今この一分一秒が、極めて重要だと互いに理解していた。
僕は『Di〇i』アプリで配車サービスを呼び、目的地を直接『華強北商業街』に設定した。 車を待つ数分間が、一世紀のように長く感じられた。 早朝の微風が顔を撫で、涼しさを運んでくるが、僕たちの心の焦りを吹き飛ばすことはできない。 璃はいらだたしげにその場を行ったり来たりし、何度も玥にかけ直そうとしていたが、受話器から聞こえるのは、冷たい電源オフのアナウンスだけだった。 僕の心も、その単調なアナウンスと共に、少しずつ沈んでいった。
車が来た。僕たちはドアを開け、素早く乗り込んだ。
「運転手さん、急用なんです。できるだけ急いでください!」
僕は運転手に懇願した。 運転手は人の良さそうな中年男性で、バックミラー越しに僕たち二人の深刻な表情を見て、少し不思議そうにしながらも頷いてくれた。
車は都市の交通の流れに合流した。 幸いまだ朝のラッシュアワー前で、道路の車はそれほど多くない。 運転手は制限速度ギリギリで、都市の主要道路を疾走してくれた。 窓外の街並みが飛ぶように後ろへ流れていく。見慣れた建物、道路標識、看板が、すべてぼやけた光の筋に変わっていく。
車内は、窒息しそうな沈黙に包まれていた。 僕は横を向き、隣の璃を見た。 彼女は窓にぴったりと寄りかかり、腕を組み、指先を自分の腕に深く食い込ませている。 彼女の視線は焦点を失ったまま窓外を彷徨い、普段は生き生きとしている顔が、今は重苦しい陰霾に覆われている。
僕の心の中で、無数の疑問と心配が渦巻いていた。 璃がこんなに取り乱す姿を見たことがない。まるで骨の髄まで染み込んだような恐怖と決意を感じさせ、僕は彼女に陌生感を覚え、それ以上に胸が痛んだ。
僕は探るように口を開き、この重い沈黙を破ろうとした。
「璃、その……玥って子は?」
璃は僕の声に驚いたように、ゆっくりと顔を向けた。複雑な目で僕を一瞥し、再び窓外に視線を戻すと、低い声で答えた。
「友達」
彼女は一拍置き、言葉を選んでいるようだったが、付け加えた。
「私にとって……すごく、すごく大事な友達」
彼女が『すごく』という言葉を言った時、語気を強めた。 僕はそれ以上追求しなかった。 今は根掘り葉掘り聞く時じゃない。 僕がすべき唯一のことは、彼女のそばにいて、最も堅実な後ろ盾になることだ。
僕の脳は、高速稼働するサーバーのように、既存の情報を狂ったように分析し、あらゆるシナリオを構築し始めた。 華強北、SEGプラザ……あそこは中国でも有名な電子製品の集散地で、人の流れが入り乱れ、玉石混交の場所だ。一人きりの女の子がそこにいれば、不法分子のターゲットになりやすい。 詐欺? 何か違法な取引に騙された? それとも……もっと最悪な、人身売買?
あらゆる推測が、鋭い氷柱のように僕の心に突き刺さる。 これ以上考えたくなくて、僕は無意識に手を伸ばし、璃の冷たい手の甲にそっと重ね、僕の体温で少しでも力を伝えようとした。 彼女の体はわずかに強張ったが、手を引っ込めることはなかった。
車はようやく華強北商業街の交差点で止まった。 僕たちはほとんど車から飛び降りるようにして、あの象徴的なSEGプラザビルへ向かって全速力で走った。 週末早朝の華強北は、まだ人がごった返す時間ではないが、掘り出し物を求める業者や観光客がそれなりに集まっており、空気には電子部品特有の、プラスチックの焦げたような匂いが漂っている。
しかし、そんなことを気にしている余裕はない。 僕たちの視線は、とっくにSEGプラザの入り口にある異常な光景に釘付けになっていた。
その広い広場に、三重にも四重にも人だかりができている。誰もが指を差し、ひそひそと話し、その顔には好奇心、同情、あるいは野次馬根性が浮かんでいる。 人混みの中央に、微かに警察の制服の色が見えた。 僕の心臓が、きゅっと縮んだ。
「どいて! 通してください! すみません!」
璃の声は焦りで甲高くなり、必死に川を遡る魚のように、なりふり構わず野次馬を押し分けた。 ようやく分厚い人の壁を抜けて最前列に出た時、ついに見えた。
白いワンピースを着た女の子が、無力に地面に座り込んでいた。髪は乱れ、顔は涙でぐちゃぐちゃになり、体は恐怖で絶え間なく震えている。 彼女はリュックサックをきつく抱きしめ、まるでそれが最後の防衛線であるかのようだ。 彼女が、玥だ。
そして彼女の前に、警察の制服を着た二人の男が立っていた。 一人は大柄で精悍な顔つき。もう一人は少し太っていて、ビール腹を突き出し、目には苛立ちと見下すような色が透けている。 彼らは左右に立ち、圧迫的な包囲態勢を作り、玥を地面から引きずり起こそうとしていた。
「立て! 何をグズグズしている!」
太った警官の口調は非常に乱暴だった。
「イヤ……やってない……私じゃない……」
玥の泣き声は途切れ途切れで、必死に首を振り、後ずさりし、目には絶望が満ちていた。 周囲の群衆は議論こそしていたが、誰もあえて介入しようとはしなかった。
「玥!」
張り裂けんばかりの叫び声が、この緊張した対峙を打ち破った。 璃はオレンジ色の稲妻のように猛然と突進し、玥の腕を掴もうとしていた太った警官を突き飛ばし、地面で震えている女の子をきつく、全身全霊で抱きしめた。
「玥! 怖くないよ! 私が来た! 私がいるから、大丈夫!」
璃の声は震えていた。彼女は玥の小さな体をきつく抱きしめ、自分の背中を、あの脅威に満ちた二人の『警官』に向けた。 彼女の体も微かに震えている。
玥は馴染みのある声を聞くと、張り詰めていた体がようやく頼れる港を見つけたかのように、『ワッ』と声を上げ、完全に崩壊して大声で泣き出した。その泣き声には、尽きることのない委屈と恐怖が込められていた。 この突如とした乱入に、二人の『警官』も一瞬呆気にとられた。
「何だお前らは!」
背の高い警官が最初に反応し、鋭く怒鳴った。
「我々は公務執行中だ。協力したまえ。無関係な人間は警察の捜査を妨害するな!」
彼の声は大きく、威嚇力に満ちており、『公務』や『捜査』という大義名分を使って、再び場を支配しようとしていた。
「公務執行?」
璃は猛然と顔を上げた。真っ赤な目は燃え盛る二つの炎のように、彼を死ぬほど睨みつけた。
「あんたたち二人、そんな大男が寄ってたかって、丸腰の女の子にこんなことして? これがあんたたちの執行する公務……」
璃の言葉の途中で、僕は即座に一歩前に出て、目で彼女に「まずは喋るな」と合図した。 今の璃は怒りで頭に血が上っている。感情が高ぶりすぎていて、この状況で相手と正面衝突しても損をするだけだ。 僕は深く息を吸い、怒りと心配で狂いそうな心臓を無理やり落ち着かせた。 僕の脳――香港で暁茵姉に『訓練』され、常に高速回転を保っている『サーバー』が、今こそ機能し始めた。
僕は璃と玥を背後に庇い、二人の『警官』の品定めするような視線を受け止め、できるだけ落ち着いた口調で、理路整然と口を開いた。
「お二人さん、あなた方の仕事は理解します。ですが公務執行と言うなら、『中国人民警察法』の規定に基づき、警察手帳と関連する法的文書を提示してください。我々は公民として、あなた方の法執行プロセスを監督する権利があり、かつあなた方が警察を装った電信詐欺や人身売買のグループではないことを確認する必要があります!」
僕は彼らの身分を直接疑うのではなく、『公民の監督権』に焦点を当てた。 これは自分たちを守るためでもあり、彼らの実虚を探るためでもある。 僕が言い終わるやいなや、周囲の野次馬からも、ひそひそとした同意の声が上がった。
二人の『警官』の顔色が、明らかに変わった。 特にあの太った警官は、顔に逆切れのような色が浮かび、僕の鼻を指差して怒鳴った。
「監督だと? 自分が何様のつもりだ? 乳臭いガキが、一般市民の分際で警察に要求だと? お前らこそ公務執行妨害だぞ!」
彼の口調には脅しと蔑視が満ちており、権力由来の傲慢さが露骨に表れていた。 僕の心の中の不吉な予感は、ますます濃くなった。 普通なら、警察は疑われて不機嫌になることはあっても、こんなチンピラのような口調で返すことは絶対にない。 彼らの反応は、あまりに異常だ。
状況がおかしいと悟った僕は、すぐに両腕を広げ、璃と玥という名の女の子をよりしっかりと背後に隠した。 同時に、もう片方の手ですばやくポケットからスマホを取り出し、迷うことなく110番(通報)した。
電話が繋がった瞬間、僕は最も簡潔で明瞭な言葉で、受話器に向かって言った。
「もしもし、110番ですか? 私は福田区華強北SEGプラザビルの入り口にいます。ここに警察官を装った疑いのある人物が二名おり、女性を強引に連れ去ろうとしています。彼らは身分証の提示を拒否し、我々に言語的な脅迫を行っています。現場には多数の目撃者もいます。」
僕の声は大きくないが、この比較的静かになった対峙の中心エリアでは、全員にはっきりと聞こえるほどだった。 二人の『警官』の顔色は、一瞬で極めて醜悪になった。 彼らは僕が目の前で、直接通報する度胸があるとは思っていなかったのだ。 彼らは顔を見合わせ、目の中に一瞬の慌てふためきが走った。 彼らはゆっくりと僕たちに迫り始めた。その圧迫感は、窒息しそうなほどだ。 僕は後ろの二人の女の子を守りながら、一歩一歩、慎重に後退し、常に彼らと安全な距離を保った。 心臓は早鐘を打っているが、慌ててはいけないと分かっている。僕の後ろには、命をかけて守ると誓った妹がいるんだ。
「虚偽通報だぞ! 公務執行妨害で逮捕するぞ!」
太った警官が脅し、携帯している警具のようなものを取り出そうとした。 僕は彼を無視し、ただ冷ややかに彼らを見つめ、スマホを彼らの方に向け続けた。
時間は、一分一秒と刻まれるごとの苦痛の中で過ぎていった。
数分後、急促なサイレンの音が遠くから近づき、この張り詰めた空気を切り裂いた。 群衆が自然と道を開け、補助警察の制服を着た若い警官が、息を切らして現場に駆けつけた。 彼女は僕たちを一瞥し、それからあの気まずそうな二人の『警官』を見て、すぐに状況の複雑さを悟った。
彼女はまず僕たちをなだめた。 「落ち着いて。何があったかゆっくり話して」 そして彼女は二人の『警官』に向き直り、敬礼をして、厳粛な口調で言った。 「同志、身分証を提示してください」
二人の『警官』は顔を見合わせ、もうごまかせないと悟ったのか、不承不承ポケットから警察手帳を取り出した。 若い補助警官は手帳を受け取り、仔細に確認した後、眉をひそめた。
「偽警官かと思ったけど、本物を持ってるのね」
彼女の口調には、一抹の皮肉が含まれていた。 彼女は一拍置き、眼差しを鋭くした。
「でも、お二人さん。あなたたち、深圳の警察官じゃないわよね?」
太った警官の顔はワインレッドに染まり、強引に弁解した。
「我々は……」 「東沂市の人ね」
若い補助警官は彼の言葉を遮り、手帳を返すと、事務的な口調になった。
「申し訳ありませんが、同志のお二人、それから通報してくれた君と女性のお二人も、少々お待ちください。状況が特殊なので、上司の指示を仰ぐ必要があります」
「市民の皆さん、録画しても構いませんし、その他の方法で我々の法執行プロセスを監督・証言していただいて構いませんが、切り取りや断章取義はしないでくださいね。ご協力ありがとうございます」
そう言うと、彼女は腰のポケットから、ブランドロゴのない、分厚くて武骨な黒い端末を取り出した。それは警察用の通信端末のはずだ。 彼女は脇へ行き、端末を通じて上司に連絡し、現場の状況を簡潔に報告した。
その間、東沂から来た二人の警官の顔色はますます陰鬱になっていった。 彼らは僕を悪意のこもった目で睨みつけていた。その目は、僕を生きたまま飲み込んで皮を剥いでやりたいと言っているようだった。 僕は恐れることなく彼らと視線を合わせ、同時に璃と玥をしっかりと守り続けた。 この戦いはまだ終わっていないことは分かっている。でも少なくとも、僕たちは一時的に安全だ。
十分も経たないうちに、華強北派出所のパトカーがサイレンを鳴らして到着した。 車から三人の警官が降りてきた。先頭に立つのは年配の、五十歳くらいのベテラン警官だ。 彼は小柄で、肌は浅黒く、顔には風霜の跡が刻まれているが、その目は異常に明るく力があり、歴戦の落ち着きと鋭さが滲み出ていた。 彼が現れた瞬間、混乱した場の空気が、彼の見えないオーラによって鎮められたようだった。
若い補助警官がすぐに駆け寄り、敬礼して状況を手短に報告した。 ベテラン警官は静かに聞き、視線を僕たち双方に行き来させ、最後に、ますます不安げな表情を浮かべる二人の東沂の警官に止めた。
彼はゆっくりと歩み寄った。口調は静かだが、威厳があった。
「あなた方は地方の法執行官だ。我が市において、独自の法執行権限はない! 関連書類を提示し、法に基づき捜査協力要請書、拘留証、または逮捕状を提示しなさい!」
ベテラン警官の声は大きくないが、一字一句が力強く、弾丸のように相手の急所を正確に撃ち抜いた。 彼は是非を問うのではなく、核心的な問題を直撃したのだ。
東沂の太った警官は、二人のリーダー格のようで、腹を突き出し、官僚的な口調で相手を制圧しようとした。
「我々は地方警察ではない、中華人民共和国の警察だ!」
彼は声を張り上げ、正論ぶって言った。
「我々は公務執行中だ! 協力したまえ!」
彼は壮大で反論の余地のない身分を利用して、管轄権の境界を曖昧にしようとした。 しかし、その言葉は火薬庫に火をつけたようなものだった。
ベテラン警官の顔色は一瞬で暗くなり、冷笑を漏らして一歩前に出た。その眼差しは急激に鋭さを増した。
「私も中華人民共和国の警察だ! なら私が今すぐ航空券を買って、そっちの東沂市に行って人を逮捕してもいいと言うのか?」
彼の声が猛然と高くなり、平地の雷鳴のように響いた。
「自分の身分に恥じないのか? 教えてやる、法的手続きがどう規定されているかを! 他地域の公安部門が我が市で法執行を行う場合、まず我が省の公安庁と我が市の公安局に通報し、承認を得た後、関連する協力要請文書を取得し、我々地元警察の協力の下で行わなければならない! 君たちは今、いかなる通報手続きも履行せず、勝手に我々の深圳に来て人を逮捕しようとした! このような行為を何と呼ぶか? 『利益誘導型法執行』だ! 正当な理由がないなら、状況に応じて、法に基づき君たちを拘束することも可能だぞ!」
ベテラン警官の言葉は、一言一句が重く、正義感に溢れていた。 彼は相手の手続き上の不備を指摘しただけでなく、その行為の背後にあり得る利益誘導を直接指摘したのだ。言葉に含まれる怒りと軽蔑は、少しも隠されていなかった。
周囲の群衆から、歓声が爆発した。 冷やかしや口笛を吹く者さえ現れ始めた。 二人の東沂の警官の顔は、赤から土気色に変わっていた。 彼らは明らかに、これほど強硬な地元警察に遭遇するとは思っていなかったのだ。
「お……お前にそんなことができるのか?」
太った警官は最後のあがきを見せたが、その口調には明らかに自信がなかった。
「我々が来たからには、お前など恐れるものか」
ベテラン警官は軽蔑の眼差しを一瞥くれ、隣の二人の若い警官に目配せをした。 二人の若い警官はすぐに意図を理解し、左右に分かれ、表情を変えずに二人の地方警官の脇に立ち、包囲の態勢を暗に形成した。
ベテラン警官は振り返り、まだ喚いている太った警官を松明のような目で睨みつけ、一字一句言った。
「最初の警告!」
この五文字は、巨大な山のように、相手の心に重くのしかかった。 東沂の警官は状況が完全に不利だと悟り、顔を見合わせ、無意識に胸のボディカメラの電源を切ろうと手を伸ばし、足もこっそりと後ろへ移動させ始めた。明らかに逃げる準備だ。
その時、ベテラン警官の後ろに立ち、ずっと黙っていた若い補助警官が、突然前に出た。 彼は義憤に駆られて逃げようとする二人を指差し、明瞭でよく通る声で、公衆の面前で法律の講釈を垂れた。
「中華人民共和国刑事訴訟法 第八十三条には明確に規定されています。『公安機関が他地域で拘留、逮捕を執行する場合、被拘留者、被逮捕者の所在地の公安機関に通知しなければならず、所在地の公安機関はこれに協力しなければならない』! あなた方は職権を乱用し、法律を無視し、勝手に省を跨いで逮捕を行おうとした。これは深刻な違法行為です!」
この法律の条文が、東沂の警官の心理的防衛線を完全に押し潰した。 彼らは背を向けて逃げようとした。
「止まれ!」
ベテラン警官が猛然と大きく一歩踏み出し、鉄塔のように彼らの行く手を死守した。その目は冷たく厳粛だった。
「勝手に省を跨いで逮捕しようとしたことは、司法手続きへの公然たる蹂躙だ! 私は今、君たちの今回の法執行行為の合法性と目的性を疑う十分な理由を持っている! 私は今、君たち二人を華強北派出所に連行し、調査を行う権利がある!」
彼は振り返り、視線で僕たち全員を薙ぎ、事務的な冷静さを取り戻した声で言った。
「双方とも、我々の仕事に協力してください! 女性お二人の身の安全は、現在我々深圳公安が責任を持ちます。通報してくれた君、タイムリーな通報ありがとう。そしてそちらのお二人、我々は直ちに深圳市公安局および広東省公安庁に報告を行うとともに、あなた方の東沂市公安局にも連絡を取り、あなた方の身分と今回の行動の全容について、さらなる確認を行います!」
ベテラン警官の言葉は条理が明確で、根拠があり、現場の局面を完全に掌握した。 二人の警官は、深圳警察の強大なオーラと反論不可能な法的根拠の前で、ついに完全に萎縮し、戦いに敗れた雄鶏のように、うなだれてその場に立ち尽くし、もはやいかなる抵抗もできなくなった。
驚心動魄の危機は、どうやら……ひとまず一段落したようだ。 僕は長く息を吐き出した。張り詰めていた筋肉が、今になってズキズキと痛み出した。 僕は振り返り、後ろの璃と玥を見た。 璃はまだ玥をきつく抱きしめており、彼女の体はまだ微かに震えていた。 そして玥は、頭を深く璃の胸に埋め、抑え込まれた泣き声は、始終止まることがなかった。
日差しは、いつの間にか少し眩しくなっていた。 僕は目の前の不条理でリアルな光景を眺めていた。 分かっている。これは、ほんの始まりに過ぎない。
華強北派出所内の空気は、まるで凝固しているかのようだった。 青白い蛍光灯が、疲れを知らず冷たい光を注ぎ、麻痺した顔、焦燥した顔、憤怒した顔を照らし出し、薄灰色のコンクリートの床に、長く、隠れようのない疲弊した影を引きずっていた。 空気には微かな消毒液の匂い、出涸らしのお茶の苦い匂い、そして電子機器が過熱した時の特有の焦げ臭さが混ざり合い、法執行機関特有の、神経を張り詰めさせる雰囲気を形成していた。
ここでは、時間は本来の流速を失ったかのようだ。 壁掛けのクォーツ時計の秒針が動くたびに発する『カチッ』という軽い音が、大きくはないが、重いハンマーのように、とっくに張り詰めている僕の神経を一定のリズムで叩く。
玥が独立した尋問室に連れて行かれてから、すでに丸三時間が経過していた。 中で何が起きているのかは分からない。すりガラスの小窓を通して、いくつかの人影が動いているのが見えるだけだ。
一方、璃は、最初から最後まで、ある種執拗とも言える姿勢を保ち続けていた――彼女は一歩も離れず尋問室の入り口を守り、まるで猟犬が傷ついた仲間を守護しているかのようだった。 背筋をピンと伸ばし、両手をきつく握りしめ、視線は固く閉ざされたドアにロックオンされ、まるで視線であの薄いドア板を焼き穿とうとしているようだ。 僕は何度か彼女に声をかけようとした。少しリラックスさせたり、水を飲ませたりしたかったが、あの張り詰めた、『立ち入り禁止』と書いてあるような横顔を見るたび、慰めの言葉はすべて喉で詰まってしまった。
早朝のあのスリリングな対峙の細部が、脳内で繰り返し再生される。 二人の警官の咆哮、玥の張り裂けんばかりの叫び声、璃の身を挺した行動、そしてあの深圳のベテラン警官の正義感溢れる一喝……すべての映像が複雑な網を織り成し、その網の中心にいるのが、あの玥という名の、謎めいた少女だ。
彼女は一体何者なのか? 彼女の身に一体何が起きたのか? この巨大な未知が、重い鉛の塊のように、僕の心にぶら下がっている。 この件は単に見知らぬ少女の運命に関わるだけでなく、僕が最も大切にしている妹、璃を深く巻き込んでいる。 璃のあのかつて見たことのない、崩壊寸前の心配りを見て、僕は悟った。もう部外者ではいられない。すべてを明らかにしなければならないと。
ついに、尋問室のドアが『キィ』と音を立てて開いた。 あの年配の深圳のベテラン警官が出てきた。彼の顔には、年齢にそぐわない深い疲労と同情が浮かんでいた。 彼は入り口を守る僕を見ると、手招きをして、廊下の反対側へ来るように合図した。 璃の視線は、磁石に吸い寄せられる鉄粉のように、一瞬にして尋問室から出てくるもう一つの人影へと走った。
「君、ちょっと来てくれ」
ベテラン警官の声は少しかすれていた。 僕は頷き、彼について人目のつかない窓辺へ行った。 窓外にはとっくに夜の帳が下り、華強北のネオンが次々と灯り始め、この不夜城を極彩色に彩っていた。その華やかで生命力に満ちた光景は、今僕たちがいる抑圧された空間と、極めて皮肉な対比をなしていた。
「事情は……だいたい分かった」
ベテラン警官はポケットからくしゃくしゃになったタバコの箱を取り出し、一本抜こうとしたが、何かを思い出してまた戻した。 彼はため息をついた。その息には、ある事柄に対する無力感と憤りが満ちていた。
「あの子のフルネームは林玥。東沂の人だ」
彼はゆっくりと話し始めた。まるで自分とは無関係だが、我がことのように感じる物語を語るかのように。
「彼女の父親は、地元で小有名気のある建築請負業者だった。数年前、地元政府の公共事業プロジェクトを請け負ったんだ」 「プロジェクトは完了し、検収も合格した。だが工事代金を、政府側は財政難を理由に先延ばしにし続けた。数千万の代金が、そのまま止められたんだ。林玥の父親はこのプロジェクトのために、会社の運転資金をすべてつぎ込んだだけでなく、資材業者にも多額の借金をしていた。金が早く下りて、すべての問題を解決できることだけを頼りにしていたんだ」
ベテラン警官の視線は遠くの煌めく夜景に向けられていたが、その目は暗かった。
「結果は推して知るべしだ。労働者は給料がもらえず騒ぎ出し、業者は代金が回収できず訴訟を起こした。会社の資金繰りは完全に断たれ、すぐに破産を宣告した。彼女の両親も、借金のせいで裁判所から『高額消費制限令』を出され、近所の人々からは後ろ指を指される『借金踏み倒し常習者』になった。遠からず『高額消費制限』から『ブラックリスト入り』になり、一生の汚点となるだろう」
僕は静かに聞いていた。胸が何かで塞がれたように、息苦しい。 未払いによる一家離散の悲劇は、ニュースで何度も見たことがある。だがそれがこうして生々しく残酷な形で目の前に現れた時、その衝撃はやはり僕を窒息させた。
「まだ終わりじゃない」
ベテラン警官の口調は、ますます冷たくなった。
「彼女の両親は諦めきれず、陳情に行こうとした。結果は分かるだろう、追い返された。そして、もっと卑劣なことが起きたんだ」
彼は一拍置き、その恥知らずな行為を形容する適切な言葉を探しているようだった。
「東沂の地元にある精神衛生センターの傘下に、悪名高い『インターネット依存症更生センター』がある。そのセンターが、どういう手を使ったのかは知らんが、林玥に『重度インターネット依存症および双極性障害』という偽造された認定書を発行したんだ。そして『保護者申請』という名目で、彼女を強制的にそこへ送り込んだ」
「インターネット依存症更生センター?」
僕の瞳孔が猛烈に収縮した。 その名前は、雷鳴のように耳を貫く。 残酷な『電気ショック療法』で全国にその名を知られ、無数の被害者から『この世の地獄』と呼ばれた場所だ。
「そうだ」
ベテラン警官は頷いた。目には隠しきれない嫌悪が浮かんでいた。
「林玥の供述によれば、彼女はそこで丸三ヶ月間閉じ込められていた。その三ヶ月間、彼女は想像を絶する拷問を受けた。殴打、侮辱、罵倒、さらには猥褻行為……日常茶飯事だったそうだ。それから……」
彼は深く息を吸い、その二文字を辛そうに吐き出した。
「……電気ショックだ」
僕の拳は、体の横で無意識に握りしめられ、爪が掌に深く食い込み、痛みが走った。想像できる。花盛りの少女が、あの閉鎖的な、叫んでも誰にも届かない魔窟の中で、どれほどの絶望を味わったか。
「彼女は今回、あらゆる手を尽くして、ようやくあの場所から逃げ出したんだ。家にも帰れず、東沂にいるのも怖くて、転々として、唯一信頼できる旧友、つまり君の妹を頼って深圳に来ようとした。まさか華強北に着いた途端、東沂から追ってきたあの二人の警官に捕まるとはな」
「あの二人の警官……」
僕は辛うじて口を開いた。
「どうして彼らはそんなことが……」
「ふん」ベテラン警官は冷笑した。
「あの所謂精神疾患認定書を持って、彼女は『危険性のある重度精神疾患患者』であり、『強制治療』が必要だと言えばいい。あれは便利な隠れ蓑だ。多くの日陰の悪事を包み隠せる。幸い、君たちがすぐに通報してくれたこと、そして幸いにも、ここは深圳だったことだ」
彼が『ここは深圳だ』と言った時、口調には一抹の誇りが含まれていた。 僕は沈黙した。 巨大な怒りと深い無力感が、二つの冷たい手となって僕の心臓をきつく掴んだ。 あの連中の恥知らずさと残酷さに憤り、自分の無力さに悲しみを覚えた。 ある種の巨大で組織的な悪意の前では、個人のあがきなど、あまりに小さく、あまりに取るに足らないものに見える。
「さて、状況はこういうことだ」
ベテラン警官は僕の肩を叩いた。
「法的手続き上、我々はすでに広東省公安庁に正式に通達し、東沂市公安局にも公文書を送って状況確認を行っている。あの二人は、合法的な手続きがない限り、人を連れて行くことなどさせない。林玥は今、自由だ。彼女はここを去ることができる。だが……」
彼は話の矛先を変え、意味深長に僕を見た。
「君、分かっておいてほしいのだが、我々にできるのはここまでだ。我々は深圳の地面の上のことなら管轄できるが、相手が次にどう出るかまでは管轄できない……」 「深圳、ここを含めて、全員が善人というわけじゃないからな……」
彼の言わんとすることは分かった。 ここの『ルール』は、林玥を一時的にしか守れない。 彼女が中国本土にいる限り、あの見えない大きな網は、いつでも再び彼女に覆いかぶさってくる可能性がある。
僕はベテラン警官に深くお辞儀をした。
「ありがとうございます、警察の方。理解しました」
彼は手を振り、背を向けて去っていった。その少しかがんだ背中は、長い廊下の中で、どこか寂しげに見えた。
僕がロビーに戻ると、林玥はすでにすべての手続きを終えていた。 時刻は、もう夜の七時になっていた。
彼女は派出所から出てきて、入り口の階段に立っていた。 夜風が彼女の薄っぺらいワンピースを揺らし、ただでさえ痩せ細った体を、よりいっそう孤独に見せていた。 顔色は紙のように白く、かつては明るかったはずの瞳は、今は枯れた井戸のように光を失い、麻痺と虚ろさだけが残っていた。 璃は彼女をしっかりと支えていた。まるで触れれば砕ける磁器を支えるかのように。
僕が歩いてくるのを見て、璃は顔を上げた。 彼女の目は赤く腫れ、普段は誇りと輝きを湛えている顔に、今は尽きることのない哀しみと懇願だけが残っていた。 彼女はそのまま僕を見つめ、唇を何度か震わせ、そして僕が一度も聞いたことのない、哽咽に近い、塵のように卑小な口調で、僕に言った。
「お兄……お願い……彼女を助けてあげて……」
これは璃、あのプライドが高く、毒舌で、決して簡単に頭を下げない僕の妹が、初めて『お願い』という言葉を使った瞬間だった。 その声は、最も鋭いナイフのようだった。 僕の心は、これ以上ないほど痛んだ。
僕は歩み寄り、手を伸ばして璃の頭を優しく撫で、それから視線をあの魂を失った少女、林玥に向けた。
「僕は洛玖、洛璃の兄だ」
僕の声は、落ち着いていて静かだった。
「今から、君にいくつか質問をする。これはとても重要で、僕たちの次の行動に関わることだ。どうか緊張せずに、ありのままを答えてほしい」
林玥の虚ろな視線が、ゆっくりと僕の顔に焦点を合わせた。彼女は僕の言葉が理解できていないかのように、ただぼんやりと僕を見ていた。 僕の脳はすでに全速力で回転し、計画に影響する可能性のあるすべての変数をフィルタリングしていた。
「東沂の件以外で、中国国内の他の地域で、前科はある? たとえ最小の行政処分でも」
林玥は遅滞して首を横に振った。
「以前、パスポートや香港マカオ通行証を作ったことは?」
彼女は一瞬キョトンとし、それから軽く頷いた。 璃が横から補足した。 「どっちも作ったことあるけど、一度も出国したことはないって。有効期限はまだ数年あるよ」
よし、最も面倒な証書発行の手順が省ける。
「三つ目、これが一番重要だ。君自身、あるいはご両親の会社は、中国人民銀行の信用情報ブラックリストに載っているか? 裁判所の『失信被執行人』リストじゃなくて、銀行の信用情報システムのことだ」
この質問は、彼女が特定の関所の審査をスムーズに通過できるかどうかに直接関わる。 林玥の目に、ようやく一筋の揺らぎが見えた。 彼女は慎重に記憶を辿り、それから微弱な声で答えた。
「……たぶん、ない。お父さんが言ってた、鍋釜を売ってでも、銀行のローンには絶対に手を出すなって。それが最後のデッドラインだって……」
僕の心の大きな石が下りた。 信用情報に問題がなければ、特定のシステムレベルにおいて、彼女はまだ『クリーン』な人間だということだ。
僕は頷いた。心の中ですでに大まかな決断を下していた。
「よし、先に行こう」
僕は周囲を見回した。派出所の前は人の出入りが多く、長居すべき場所ではない。僕は道端で適当にタクシーを止めた。
「乗って」 僕はまだ呆然としている二人の少女に言った。
タクシーは滑らかに深圳の夜の交通の流れに合流した。 僕はまず実家のある坪山区の住所を告げ、心身ともに疲れ切った璃を家に送り届けた。 家の前で、璃は僕の服の裾を掴み、何度も念を押した。眼差しからは心配が溢れ出しそうだった。
「お兄、絶対に……」 「安心して」
僕は彼女の頭を撫で、安心させるような目配せをした。
「自分の身体を大事にして、僕の連絡を待ってて。いいか、今から林玥に関するいかなることも、〇Chatで話しちゃダメだ。電話番号を渡すから、連絡はこれで彼女と取るように」
璃を落ち着かせた後、僕は林玥を連れて、家から一番近いチェーンホテルに行き、部屋を取った。 カードキーをかざし、ドアを開け、明かりをつける。 柔らかな暖色の照明が、標準的で何の特徴もないホテルの部屋を照らし出した。 だが今の林玥にとって、この清潔さ、整頓、そして安全性は、得がたい贅沢だった。
僕は彼女にまず熱いシャワーを浴びて、一日中張り詰めていた神経をリラックスさせるように言った。 そして僕は柔らかい一人掛けソファに座り、計画全体の最終確認を始めた。 僕の脳は、精密計算を行うスーパーコンピュータのようだった。
まず、林玥を中国本土に残す可能性を排除した。 深圳警察の保護には、地域と時効の制限がある。 東沂の連中は、もう『法執行』という名目で彼女を連れ去ることはできないが、それで諦めるわけではない。 彼らが深圳に来ようと思えば、高速鉄道や飛行機のチケットを買って、数時間で到着できる。 彼らはあらゆる手段を使い、チンピラを買収することさえ厭わず、表に出せない無数の方法で、孤立無援の女の子を見つけ出し、支配することができる。 だから、本土のどの都市も、彼女にとっては巨大な罠に満ちた狩場であり、決して安全ではない。
ならば、活路は一つしかない――本土を離れることだ。 最も確実で、かつ実行可能な方法は、彼女を香港、あるいはマカオ、さらには……海外へ連れ出すことだ。 香港とマカオには、全く異なる法体系と境界管理システムがある。 彼女が無事に入境できさえすれば、相手の手が届かない『安全地帯』に入ったも同然だ。 彼女の本土でのトラブルはすべて、あの見えない境界線によって遮断される。
そして僕は、この計画を実現するための最も恵まれた条件をたまたま持っている。 僕の香港ID、あちらでの生活経験、すべてが今回の行動の鍵となる。
計画は決まった。次は実行だ。
林玥がバスローブを纏い、浴室から出てきた時、顔色は相変わらず青白かったが、張り詰めていた表情はいくらか和らいでいた。 僕は彼女にあまり息つく暇を与えなかった。
「こっちに来て、座って」
僕はベッドの縁を指差し、指令を下す指揮官のように厳粛な口調で言った。
「今から、僕たちがやるすべてのことは極めて重要だ。君は僕の言う通りに完全に実行しなければならない」
彼女は従順に頷いた。 僕はリュックから、小型のドライバーセットを取り出した。
「君のスマホを貸して」
彼女は一瞬ためらったが、着替えた服のポケットから、すでに傷だらけになったRe〇miのスマホを取り出し、僕に渡した。
「第一段階。君の過去のすべてのデータと情報を徹底的に抹消する。いいかい?」
彼女は軽く頷き、同意した。 僕は彼女に教え、というより命令した。僕の目の前で、パスワードを覚えているすべてのSNSアカウント――Q〇、Wei〇o、D〇uyin、Kwa〇、Bili〇ili、Redn〇te……一つログインするたびに、即座にアカウント削除の操作を実行させた。 この過程は煩雑で残酷だ。アカウントを一つ消すたびに、かつて自分が存在した証明の一部を自らの手で消し去っているようなものだからだ。
すべてのアカウントが空になった後、僕は彼女に指示してスマホを工場出荷時設定にリセットさせ、保存された全データを徹底的にフォーマットさせた。 それが終わると、彼女は終わったと思ったようだ。林玥は僕の次の動作を見て、目に深い衝撃を浮かべた。
僕は精巧なプラスドライバーを使い、慣れた手つきでスマホ底部のすべてのネジを外し、各種部品とバッテリーを一つずつ取り外し、無数の電子部品が集積された黒いマザーボードを露出させた。
「削除やリセットは、完全に有効な方法じゃない。データを復元したければ、方法は無数にある」 「その気になれば、専門の技術者はストレージチップからデータの断片を復元できてしまう。僕たちがやるべきなのは、物理的な、不可逆的な破壊だ」
僕の指先が、マザーボード上の最も体積が大きく、『S〇 H〇NIX』と印字されたUFSチップを見つけた。 そして僕はドライバーの先端をチップの真ん中に合わせ、視線を凝らし、渾身の力を込めて、激しく突き刺した。
『カチャッ!』
澄んだ、歯が浮くような破砕音が響いた。 硬いシリコンチップは、金属の暴力的な侵入によって無理やり貫かれ、砕け散った。 続いて僕はピンセットを使い、破壊されたチップ、すべてのデータを載せていたマザーボード、そしてあの小さなSIMカードをまとめて挟み、京東で買っておいた、少量の希硫酸が入ったガラス瓶に放り込んだ。
『ジュワァ――』
鼻をつく臭いが一瞬で充満し、瓶の中に細かな泡が連なって湧き上がった。 かつて彼女のすべての笑顔、涙、秘密、そして絶望を載せていた電子部品は、こうして強酸の腐食の下、少しずつ無へと帰していった。 林玥に属していた『デジタルな魂』は、徹底的に、きれいに埋葬された。
僕は電話とSMSしかできないH〇Dの旧式携帯電話を、彼女の前に置いた。 中には、僕が香港で新規開設したSIMカードが入っている。
「今から、この携帯が君の唯一の対外連絡ツールだ。中には僕と璃の番号しか入っていない」
僕は彼女を見て、一字一句言った。
「今夜、何かあったら、どんな些細なことでも、この携帯で僕たちに連絡して。いいか、僕と璃以外の人間は、もう誰も信用するな」
すべてを終え、伝えるべきことは伝えたと感じた。 僕は立ち上がり、彼女をゆっくり休ませようと帰る準備をした。
しかし、僕が背を向けドアへ歩き出そうとしたその時、背後から、彼女の震える、ある種の奇妙な決意を帯びた声が聞こえた。
「待って……洛玖兄さん。」
僕は振り返り、その光景を見て、脳が一瞬でショートした。 林玥はいつの間にか、あの厚手のバスローブを脱ぎ捨てていた。 今、彼女の身を包んでいるのは、蝉の羽のように薄い下着だけだった。 彼女の下着は、あまりに痩せ細った彼女の体を完全に隠すことすらできていない。 ホテルの暖色の明かりの下、彼女の肌は透明に近いほど白く、痩せこけた肩とはっきりと浮き出た鎖骨が、胸を引き裂くような絵面を構成していた。
彼女はそこに立ち、その目はもう虚ろでも麻痺してもいなかった。屈辱、恐怖、そして一縷の捨て身の狂気で満たされていた。 彼女は僕を見て、下唇をきつく噛み、そして、まるで自己を生贄に捧げるような口調で、そっと言った。
「洛玖兄さん……ありがとう……私……私には何もお返しできるものがありません。もし嫌じゃなければ、私で……私で、お返しさせてください」
僕の頭の中で、ブーンという音が響き、真っ白になった。 僕は、何を見た? 何を聞いた?
これは……。 追い詰められ、魂をズタズタに破壊された女の子が、思いつく限りの唯一の方法で、一縷の偽りの安心感を得ようとしている。 彼女は取引をしているのだ。自分に残された、そして自分が最も価値がないと思っている『価値』を使って、自分の運命に賭けようとしているのだ。
巨大な悲哀が、潮のように一瞬で僕の最初の衝撃を飲み込んだ。 僕の心臓は冷たい手に激しく握りつぶされたようで、息ができないほど痛かった。 僕は深く息を吸い、その巨大な衝撃から無理やり冷静さを取り戻した。
僕は背を向け、再び彼女に向き直った。視線はできる限り平静で純粋さを保ち、声も限りなく柔らかくした。
「服を着て。夜は冷えるから」
僕は言った。
「君からの見返りなんて何もいらない。僕が君を助けるのは、君から何かを得るためじゃない。単純に、そんなクソみたいな状況が見過ごせなかっただけだ。ついでに言えば、妹の璃に免じてだ」
心からの言葉で、彼女を安心させられると思った。 しかし、彼女は笑った。 その笑顔は泣くよりも醜く、絶望的で、すべてを見透かしたような表情だった。
「見返りを求めない?」
彼女は小さな声でその言葉を繰り返し、まるでとてつもない冗談を反芻しているようだった。
「洛玖兄さん、私をからかってるんですか? 人と人の間に、『見返りを求めない』なんてことがあるわけないでしょう? すべての関係は、必ず利害関係なんです」
彼女の視線は僕を直視していた。その枯れた井戸のような目には、病的で早熟な『知恵』が閃いていた。
「もし誰かが私を助けて、私のお金や、体を求めてくるなら、私はかえって安心します。だって目的が分かるし、私が何を差し出せばいいか分かるから。でも……」
彼女は一拍置き、声をさらに潜め、震わせた。
「もし誰かが、金も体も求めてこないなら、それは……それはもっと危険です」 「それは、その人が企んでいるものが、そんなものより遥かに大きいことを意味します。もしかしたら……もしかしたら、私をまた東沂に売り飛ばして、もっと大きな金に換えようとしているのかもしれない……」
彼女の言葉は、毒を塗った冷たいナイフのように、僕の心に深く突き刺さった。
「つまり、今夜が私の『最後の夜』なんですね?」
僕はようやく理解した。あの時期の地獄のような生活が、彼女にどれほど消えない烙印を残したのかを。 それが破壊したのは、彼女の尊厳や健康だけではない。この世界に対する最も基本的な信頼さえも破壊したのだ。 彼女の認識の中では、善意など存在せず、すべての温情は、より大きな利益を包む糖衣に過ぎない。
僕は深い無力感を覚えた。 光が存在しないと確信してしまった人に、どうやって太陽の暖かさを説明すればいい?
僕は長い間沈黙し、最終的に、最も素朴な言葉で最後の試みをすることにした。 僕は彼女の目を真っ直ぐ見て、一字一句、はっきりと言った。
「林玥。もし僕が君の言うような人間なら、今日華強北で、あの二人の警官の前で110番なんてしなかった。もし僕が君を高く売り飛ばしたいなら、今頃東沂の連中に連絡を取っているはずだ。こんなところで、苦労して君のスマホを壊したり、次の逃げ道を計画したりなんてしていない」
僕の声には、一欠片の嘘も混じっていなかった。
「本当に」
僕はため息をつき、口調を和らげ、懇願の色を込めた。
「たとえ僕を信じられなくても、璃のことは信じられるだろう? 君と璃の長年のよしみで、璃を信じて、それから……ついでに僕のことも一度だけ信じてくれないか? 頼むよ」
その夜、僕はほとんど眠れなかった。 ホテルのロビーのソファは想像以上に柔らかく快適だったが、僕自身は火に炙られているようで、寝返りを打ち続け、居ても立ってもいられなかった。 僕は林玥に約束し、妹の璃の名誉を使って、賭けに近い担保を差し出した。 あの一時の、脆い信頼は、風に揺れる蝋燭の火のように、いつどんな不測の風で消えてしまうか分からない。 そして火を灯した者として、僕は全力を尽くして、雨風をしのぐ障壁を築かなければならない。
窓外の空の色が、深い漆黒から、都市の縁の微光で灰青色に滲み、やがて暁光が雲を突き抜け、最初の一筋の淡い金色の光を落とすまで。 僕は一つの決断をした。 狂気じみた、後先を考えない、乾坤一擲の決断を。
僕はスマホを取り出し、璃に電話をかけた。 電話はすぐに出た。彼女も僕と同じように、一睡もしていなかった証拠だ。
「お兄?」
彼女の声は疲労と心配に満ちていた。
「璃、今すぐ起きて、『香港マカオ通行証』を持ってきてくれ。三十分後に、昨日僕が取ったホテルの下で」 「……分かった」
彼女は理由を聞かず、たった一言で、最も徹底した信頼を寄越してくれた。
電話を切り、僕は林玥の部屋の前に行き、軽くノックした。
「林玥、僕だ、洛玖だ。起きてるか?」
中から衣擦れの音がして、数秒後、ドアが細く開いた。 林玥の蒼白な小さな顔が隙間から覗いた。目にはまだ悪夢のような恐怖が残っていたが、僕だと分かると、その恐怖は小心翼翼とした、探るような依存に変わった。
「洛玖兄さん……」 「荷物をまとめて。主に身分証類だ」
僕はあらかじめ用意しておいたマスクとキャップを彼女に渡した。
「着けて。行くぞ」 「ど……どこへ?」
彼女の声は蚊のように細かった。 僕は彼女を深く見つめ、僕たち全員の運命を決める目的地を口にした。
「香港だ」
僕たち三人は合流した後、地下鉄に乗り、深センと香港の境界線上にある、僕ら三粒の砂を人波の奔流に完全に隠せるほど巨大な交通量を持つ検問所――福田口岸へと直行した。
移動中、車内は死のように静かだった。 璃と林玥は、僕の左右に座っていた。璃は林玥の冷たい手をきつく握り、自分の体温で彼女の心の氷を溶かそうとしているようだった。 一方、林玥は過度に怯えた小動物のように、顔をマスクと帽子のつばの影に深く埋め、地下鉄の揺れに合わせて微かに震え、外界といかなるアイコンタクトも取ろうとしなかった。
僕の内心は、マグニチュード8の地震に見舞われているようだった。 これは大博打だ。 僕が賭けているのは、東沂側の勢力が、一晩で林玥の名前を全国の出国制限リストに入れるほど手早くはないということ。 僕が賭けているのは、彼らが依然として『裏の手段』で問題を解決しようとしていて、この極めて不名誉な事案を完全に表沙汰にはしたくないと思っていること。 僕が賭けているのは、彼らの縄張りではない深圳で、彼らの手はそこまで長く、速くは伸びないということ。
だが賭けである以上、負ける可能性があるということだ。 負ければ、結果は想像を絶する。 林玥はその場で拘束され、僕と璃も、未知の罪名を着せられるだろう。 その時、僕の人生、璃の人生、僕たちの家庭すべてが、完全に粉砕される。
地下鉄の駅名アナウンスが、命を催促する鐘のように、一つ一つ僕の心臓を叩く。 地下鉄4号線がゆっくりと終点――福田口岸駅に滑り込む。
僕は深く息を吸い、胸腔を淀んだ空気で満たした。 隣の二人の少女を見ると、彼女たちの顔には同じ恐怖と不安が書いてあった。
「聞いて」
僕は声を低くし、できるだけ落ち着いた口調を保った。
「二人にとって初めての香港だね。これから二つの関所を通る。一つ目は中国本土の出国ゲート、二つ目は香港の入境ゲートだ。全行程、喋らないこと、キョロキョロしないこと」
僕は林玥の焦点の定まらない瞳をロックオンした。
「林玥、昨晩僕が言ったことを覚えてるか? 僕を信じて」
彼女の震えるまつ毛が、蝶の羽のように数回羽ばたき、それから、彼女はゆっくりと、重々しく頷いた。
福田口岸の出国ロビーは、いつだって繁忙な光景だ。 巨大なドームの下、様々な訛りの会話、スーツケースの車輪が地面を擦る音、税関の放送音が混ざり合い、騒がしい音の波となって全員の鼓膜を打つ。
僕は彼女たちを守りながら、人流に従って、緑色のランプが点滅する自動化ゲートへ向かった。 僕の手のひらは、すでに冷や汗でびっしょりだった。 僕の視線は最高精度のレーダーのように、ロビー内の制服姿の人影を一人残らずスキャンしていた。 彼らの視線が交わるたび、トランシーバーで交信するたび、僕の心臓は一拍止まった。
「先に行って」
僕は璃に林玥を連れて、僕の前を行かせた。 万が一の時、僕が後ろにいれば、少なくとも反応する余地がある。
璃は自分の電子通行証を読み取りエリアに置いた。『ピッ』という音がして、第一のゲートが開く。 彼女は中に入り、指紋認証、顔認証を行う。第二のゲートが開く。通過成功。
次は、林玥だ。 僕の心臓は一瞬で喉元まで競り上がった。 世界全体がミュートされたかのように、自分の血液が鼓膜を打つ激しい轟音しか聞こえない。 彼女は璃の真似をして、少し不器用に自分の通行証をかざした。
時間が、その瞬間、無限に引き延ばされた。
一秒。 二秒。
ランプは点灯しない。 ゲートは、微動だにしない。
僕の血液は、この一瞬でほぼ凝固した。 終わった……。 脳内にはその二文字だけが残った。 最悪の事態が、起きた。
しかし、僕がなりふり構わず突進して彼女を引き戻そうとしたその刹那、林玥が通行証の位置を少し調整したようだった。
第一のゲートが、音を立てて開いた!
僕の心は、一万メートルの上空から垂直落下するジェットコースターに乗ったようだった。無重力後の着地感で、両足の力が抜けそうになった。 林玥が通路に入り、指紋、写真撮影、第二のゲート……開いた!
成功だ! 巨大な狂喜が、山津波のように僕の心を席巻した。 アドレナリンの急激な分泌で、指先が微かに震えているのさえ感じ取れた。 第一の賭けに勝った。
僕は素早く自分のゲートを通過し、彼女たちと合流して、深圳と香港を繋ぐ長い落馬洲ガラス橋を早足で渡った。 橋の下には、静かに流れる深圳河がある。 普段は何の変哲もないこの川が、今、僕たちの目には絶望と希望を分かつ神聖な境界の川に見えた。
香港の土地を踏んだ瞬間、耳に入ってくる音が密度の高い広東語に変わったのをはっきりと感じた。 目に入るすべての標識が、繁体字に変わった。 ここのすべてが告げている――僕たちは、安全だと。 少なくとも、一時的には。
林玥はまだ幽霊のような状態だった。 彼女は璃に手を引かれ、彼女にとって親しみ深くも陌生的世界を茫然と見ていた。
短い安堵の後、僕はすぐに計画の第二段階を実行に移した――彼女のために全く新しい、安全なデジタルIDを構築することだ。
僕は彼女たちを連れて地下鉄に乗り、市街地へ直行した。 目的地は観光客の多い中環や尖沙咀ではなく、『電子製品の天国』と称される――深水埗だ。
深水埗の通りは、いつだって鮮やかで、混雑し、生活感に溢れている。 古びた唐楼の下には、びっしりと屋台や店舗が軒を連ねている。 僕たちは中古電子機器や格安SIMカードの販売で有名な鴨寮街を通り抜けた。 目立たない新聞スタンドで、僕は林玥のために『〇 UK』のプリペイドSIMカードを買った。 このカードの最大の利点は、いかなる実名登録も不要で、挿せばすぐに使え、使い捨てできることだ。 この小さなカードが、彼女がこの世界と再び繋がり、かつ自分を暴露しなくて済むための第一の障壁となる。
その後、僕たちは黄金電脳商場に入った。 C〇Lの店舗カウンターで、僕は彼女のために新品のS〇MS〇NG製スマホを選んだ。 真新しいスマホが林玥の手に渡された時、彼女の麻痺した瞳に、一筋の波紋が広がった。
僕たちは適当な茶餐廳を見つけて座った。 ミルクティーの甘い香りとパイナップルパンの焦げた香りが漂う空気の中で、僕は長く綿密な『授業』を始めた。
「このスマホは、今から君が香港で生きるためのツールだ」
僕はSIMカードを入れたスマホを起動し、彼女に渡した。
「でも約束してくれ。絶対にこれを使って、身分情報が必要なアプリに登録したりログインしたりしないで」
彼女は分かったような分からないような顔で頷いた。 僕は根気強く、一つ一つ、あらかじめインストールしておいたアプリを紹介した。
「これは『G〇gle Maps』。『〇Map』と似た機能だ」 「これは『Y〇Tube』。動画を見るのに使う。勉強にも使えるし、娯楽にもなる」 「これは『Hong Kong 〇1』。地元の主流ニュースメディアだ。自分の置かれた環境で何が起きているかを知るのに使う」 「これは『Firefox Focus』。ブラウザだ。何でも検索できるし、閉じれば履歴は残らない。安全だ」
最後に、僕は一番地味に見えるアプリを開いた。
「これは『Signal』。これが僕たちの間の、唯一の連絡手段になる」
僕は真剣に彼女に言った。
「簡単に言えばメッセージ送受信機能のあるチャットツールだ。極めて安全で、誰も僕たちの会話を盗聴したり解読したりできない。僕たちのすべての連絡は、今後、これだけで行う」
僕は自分のスマホでSignalを開き、QRコードを生成した。 林玥は新しいスマホで、僕のQRコードをスキャンした。 暗号学と分散型ネットワークに基づいて築かれたこの見えない絆が、僕たち三人の運命をきつく結びつけた。
林玥が茫然としながらも必死にすべてを吸収しようとする姿を見て、心に言葉にできない酸っぱさがこみ上げた。 彼女はまるで生まれたばかりの赤ん坊のように、この奇怪で、彼女の過去十八年間の認識とは全く異なる世界で、呼吸の仕方、歩き方、生き方を一から学び直さなければならないのだ。
授業が終わると、より現実的な問題が僕たちの前に立ちはだかった――住居だ。 彼女が持っているのは七日間有効の観光ビザだ。 彼女の一生を決めるかもしれないこの重要な七日間を過ごす場所が必要だ。
その時、僕の頭はある種の熱血に支配されていた。 僕はほとんど無意識に、次の決定を下した。 僕たちは新界の荃湾区で、比較的手頃な価格のホテルを見つけた。 フロントで、僕はH〇BCのクレジットカードを取り出した。
「すみません、部屋を一部屋、七日間お願いします。」
僕は記憶を頼りに、たどたどしい広東語でフロント係に伝えた。 カード端末から利用明細が吐き出され、僕は迷わずサインをした。 この出費は、僕が一ヶ月切り詰めて貯めたお金だ。 だが、林玥と璃の顔に浮かんだ驚きと感謝の表情を見た時、すべては価値があると思えた。
林玥を落ち着かせ、いくらかの香港ドルの現金を渡し、安全に気をつけてむやみに外出しないよう何度も言い含めた後、僕は璃を連れてホテルを出た。 僕たちにはまだ一つ、今日最も重要な、成し遂げなければならないことがある。
ある人物に会いに行くのだ。 僕が助けを求めざるを得ない人物に。
僕と璃は、暁茵姉と中環のカフェで会う約束をした。 璃が暁茵姉に会うのはこれが初めてだ。
シンプルで優雅なロングドレスを身に纏ったあの見慣れた姿が、カフェのガラスドアを押し開け、しとやかにこちらへ歩いてくるのを見た時、隣にいる璃の呼吸が半秒止まったのをはっきりと感じた。 暁茵姉の美しさは、ある種の圧迫感を伴う、非の打ち所のない完璧さだ。 陽光がガラス窓を通して彼女の滑らかなピンク色の長髪に降り注ぎ、温かい光の輪郭を纏わせていた。 彼女の顔には、ちょうどいい加減の、春風のような微笑みが浮かび、その一歩一歩は、コンパスで精密に測ったかのように優雅だった。
「玖」
彼女は僕の向かいに座り、視線は自然と僕の隣にいる璃に落ちた。目には一筋の好奇心が閃いていた。
「こちらは……?」 「僕の妹、洛璃です」
僕は紹介した。
「璃、こちらは……僕の先輩、嵐曉茵さん」
一瞬迷ったが、やはり一番普通で、一番安全な呼び方を選んだ。
「こんにちは、璃ちゃん」
暁茵姉の微笑みは、完璧だった。
「お兄さんからよく聞いてたわ。賢くて可愛いって。今日会ってみて、やっぱり噂通りね」
この突如として降ってきた教科書のような称賛に、普段は口が達者な僕の妹が、珍しく顔を赤らめた。 彼女は少し居心地悪そうにうつむき、小声で返した。
「……こんにちは、曉茵お姉さん」
璃は完全に『次元の違いによる攻撃』を受けた。 嵐曉茵クラスの『完璧な存在』の前では、同年代の女の子なら誰だって、自分の至らなさを恥じずにはいられないだろう。
挨拶の後、僕は時間を無駄にせず、ここ二日間に起きたすべて――あの救難電話を受けたことから、華強北での出来事、そして今朝のスリリングな『大脱走』までを、ありのまま暁茵姉に打ち明けた。
僕が話している間、暁茵姉の顔から笑顔が少しずつ消えていった。 彼女は静かに聞いていた。僕の話を遮ることはなかった。 いつも笑みを湛えている明るい瞳は、今や底知れぬ深い淵のように沈静していたが、そこには人を戦慄させる力が秘められていた。
僕が最後の一言を言い終えると、カフェのテーブルは長い沈黙に包まれた。 空気には、コーヒー豆を挽く香りと窓外の音だけが残った。
どれくらい時間が経っただろうか、ようやく暁茵姉がゆっくりと口を開いた。 その声は、普段の優しく、少しからかうような調子ではなく、異常なほど冷たく厳粛だった。
「はあ?」
彼女は軽く一言吐き出した。その声には、火山噴火のような信じ難いという感情が満ちていた。
「信じられない! そんな行為……」
彼女は目を上げ、眼差しには衝撃が満ちていた。
「もし、あくまで仮定の話だけど、そんなことが香港で起きて、香港の警官が規則に違反してマカオや中国本土へ行って人を逮捕しようとしたら……」
彼女は一拍置き、それがどのような光景になるかを僕たちに描写するために言葉を選んでいるようだった。
「翌日を待つ必要すらないわ。事件発生から数時間以内に、この件は大量のメディアによって争うように報道される……全メディアの一面トップはこのニュースになるわね。彼の写真、警員番号、個人情報はすぐに『G〇lden』や『L〇HKG』に晒され、全香港市民の批判の的になる」
彼女の話す速度は速くはないが、一字一句が冷たい弾丸のように、僕と璃の過去の認識を打ち砕いていった。
「彼の所属する警察署は、彼を即刻停職処分にして調査し、最も厳しい内部処分を下すだけでなく、警察署の最高長官、つまり『警務処処長』が記者会見を開き、全香港市民とメディアに向けて状況を報告し、かつ、公開謝罪しなければならない!」
「ちょっと言葉は悪いけど」
彼女の目つきには葛藤が見えた。
「さらに、自分たちの信じる『正義』のために、Telegramで専門のグループを立ち上げ、その警官と家族の生活に対して、終わりのないオフラインでの嫌がらせや報復を行う人たちさえ出てくるでしょうね。もちろん、私は個人的にはそういう行為には反対だけど」
彼女が描写するその世界は、僕と璃にとってあまりに陌生的で、さらに言えば……魔幻的ですらあった。
暁茵姉は目の前のコーヒーを持ち上げ、軽く一口飲んだ。その苦味で自分の気持ちを落ち着かせようとしているようだった。 彼女はカップを置き、呆気に取られている僕と璃を見て、嘆息に近い口調で結論づけた。
「なぜなら、『法』という文字は、権力を縛るためのものであって、権力を便利にするためのものじゃないからよ。すべての法執行官は、制服を着たその日から、最も基本的な意識を叩き込まれる。それは『法治意識』よ。彼らは機械のように、厳格に法的手続きに従って事を運ばなければならない。なぜなら、無数の目が自分たちを監視しており、いかなる越権行為も、破滅的な結果をもたらすと知っているから」
「でもあなたたちが遭遇した状況は」
彼女の眼差しに、深い悲哀が滲み出た。
「その二人の警官の脳内にあったのは、『法治思想』じゃなくて、根深くて強固な……『人治思想』ね」
暁茵姉は長く息を吐き出した。先ほどの怒りで張り詰めていた表情は、今、ある種の冷徹な感情に取って代わられた。 彼女の視線は僕を直視していた。その美しい瞳の中で、安心感を与えるような、すべてを掌握した光が閃いていた。
「完全に理解したわ」
彼女は言った。
「玖、その林玥ちゃんという子に会わせて」
彼女はわずかに間を置き、口角にすべての陰りを一掃するほどの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「あとは、私に任せて!」




