5.暁茵姉とヴィクトリア・ハーバーの夜景を見に行ったよ~イェイ( •̀ ω •́ )
夕暮れの風は、最後の一筋の熱を帯びて、校門を出たばかりの僕たちの頬を撫でた。 香港の夕日は、いつも高層ビルに不規則な破片へと切り刻まれているようだ。残光が行き交う通行人の肩に降り注ぎ、すべてが1.5倍速の早送りボタンを押されたかのように流れていく。 それに比べれば、僕たちが今終えたばかりの学園生活は、ゆったりとしたクラシック音楽のように、長く静かな余韻を残していた。
地下鉄の駅に足を踏み入れた瞬間、冷房と消毒液、そして微かな金属の臭いが混ざり合った独特の空気が顔に押し寄せた。 頭上のスピーカーからは標準的な広東語、中国語、英語で列車の情報がアナウンスされている。色とりどりの服装をしたビジネスマンたちが僕たちの横を駆け抜けていく。地面を叩く靴音は鋭く急き立てるようで、この空間全体が無数の人流に貫かれた心臓のようだった。生気に満ちている一方で、無形の圧迫感も漂っている。
僕は暁茵姉の後ろにぴったりとついて、彼女が慣れた足取りで改札へと向かうのを見ていた。僕はポケットから自分の『8ctopus』を取り出す。
――ピッ。
電子音が鳴り、改札の仕切り板が開く。この音は僕にとって、見知らぬ都市に溶け込むための『許可証」のようなもので、聞くたびに不思議な安心感を覚える。 しかし、僕が通り抜けようとしたその時、前にいた暁茵姉が足を止め、振り返った。彼女の視線は僕の手にあるカードに注がれ、整った眉が少し寄せられた。その瞳には困惑の色が浮かんでいる。
「えっ? 玖、あんたが使ってるの……『大人用』の8ctopus?」
騒がしい環境の中でも、彼女の声ははっきりと聞こえた。心臓が跳ねる。先生に宿題のミスを指摘された生徒のように、一瞬でパニックになった。
「あ、いや……違うんだ。」
僕は慌ててカードを背後に隠し、言葉を早めた。
「これは、その、ツーリスト版っていうか……『セールス版8ctopus』って呼ぶやつみたいで。」
コンビニで買った時の言い回しを必死に思い出し、一文字も間違えないように、浮いてしまわないようにと気を遣う。 来たばかりの僕は、広東語も上手くないし、香港の社会や文化についてもあまり詳しくない……。
※深圳市は中国広東省に属し、前身が宝安県である。近代になって設立された新興都市であり、広東最大の移民都市であるため、広東語の普及度が極めて低い地域である。しかし、深圳を囲む他の都市は基本的に純粋な広東語文化圏である。
暁茵姉が不意に手を伸ばした。僕が反応する間もなく、温かい指先が僕の手の甲に触れた。続いて、彼女の指がしなやかに僕の指の間に滑り込み、ぎゅっと恋人繋ぎのように絡み合った。
一瞬間、頭の中が真っ白になった。
列車の轟音、人々の喧騒、広告の音楽――周囲のあらゆる雑音が、ミュートボタンを押されたように潮が引くように消えていった。唯一感じられるのは、彼女の手のひらから伝わってくる、鼓動を早めるような温度と、柔らかく繊細な感触。彼女の手は想像していたほど弱々しくはなく、心地よい強さを持っていた。
「どうしたの?」
僕の鼓動は乱打されるドラムのように激しく、胸の奥が痺れる。頬の温度が驚くべき速さで上昇していくのがわかった。
「て……手……。こんな風に……」
舌がもつれて、まともな言葉が出てこない。 彼女は答えず、ただ繋いだ手を引いて僕を連れ、すぐ近くの明々と灯る『地下鉄カスタマーセンター』へと歩き出した。
僕はほとんど彼女に引きずられるように歩き、足取りはおぼつかず、視線は抑えきれずに繋がれた手に落ちた。駅の明るい照明の下、彼女の白い指関節と、緊張で赤らんだ僕の指が絡み合い、奇妙で親密な光景を作り出していた。
カスタマーセンターの窓口には、眼鏡をかけた若い女性職員が座っていた。暁茵姉は僕を連れて立ち止まると、いつもの落ち着いた口調で切り出した。さっきまで強引に僕の手を掴んでいた少女とは別人のようだ。
「こんにちは。」 「こんにちは、お嬢さん。何かお手伝いしましょうか?」 職員が丁寧に応じる。 「すみません、『地下鉄学生乗車割引計画』の申請書をいただけますか? ありがとう!」
暁茵姉は書類を受け取ると、僕の方を向いて視線を和らげた。流暢な中国標準語で、優しく僕にささやく。
「帰ったらまずこの表に記入して、学校に印鑑をもらって。順調にいけば、二週間くらいであんた専用の『学生用8ctopus』が手に入るわよ。そうすれば運賃が安くなるから」 「はい……。」
横から地下鉄の職員も顔を出し、僕を見て和やかな微笑みを浮かべた。近所の妹に接するような親しげな口調で、発音は少し不自然だが、とても優しい中国標準語で説明してくれた。
「お嬢ちゃん、この表に記入して学校の判をもらったら、この表と写真、それから香港ドルで90元を持って、地下鉄のどのカスタマーセンターでもいいから出してね。費用にはデポジット50元、8ctopus会社の手数料20元、地下鉄会社の事務費20元が含まれてるわ。申請が通れば、20元のチャージがプレゼントされるからね」
地下鉄の職員は根気よく説明してくれた。
わあ……この世界は、どうしてこんなに優しいんだろう。僕は夢を見ているのかな? もし本当に夢なら、ずっと覚めないでほしい……。
ただ……。
僕の心臓が、見えない手に締め付けられたような、複雑で苦い感覚に襲われた。
『お嬢ちゃん』……。
僕は無意識にカスタマーセンターのガラス窓に映る自分の姿を見た。柔らかなロングヘア、白い肌、緊張で赤らんだ頬……。この姿なら、間違われても当然かもしれない。
僕って……そんなに可愛いんだろうか? 『女装の天才』と言えるほどに?
その考えは湖面に投げ込まれた石のように、心に千層の波紋を広げた。それは誇りでも自惚れでもなく、もっと深い、自己認識に対する迷いと恐怖だった。
混乱した思考に沈んでいると、隣の暁茵姉がふと満足げな溜息を漏らした。 彼女の視線を追うと、そこには巨大な地下鉄路線図があった。密集した路線が都市の血管のように、赤、青、緑、黄色と複雑に、かつ秩序を持って絡み合っている。僕にとって、この図は覚えるのが一苦労な『見知らぬ煩雑なもの』でしかなかった。
けれど、暁茵姉の瞳には、それは別のものに映っているようだった。
「ああ……」
彼女はその図を見つめ、双眸にはカラフルなラインが反射していた。無意識に口角が上がり、まるで絶世の名画を鑑賞しているかのようだ。 その心の底からの愉悦とリラックスした様子に、僕は思わず見惚れてしまった。
「暁茵姉?」
僕は少し不思議に思って、小さな声で呼んだ。 僕の声は彼女を自分の世界から引き戻したようだ。彼女は我に返ると、秘密を見つけられた少女のように、はにかんだ。その笑顔は、さっきカスタマーセンターで見せた礼儀正しくも距離のある微笑みとは全く違う、少女らしい純粋さと照れくささが混ざっていた。
「あ、そうそう。言い忘れるところだったわ」
彼女は顔を横に向け、瞳をキラキラと輝かせた。まるで星空を閉じ込めたみたいだ。
「実は私……『鉄道ファン』なの」 「鉄道……ファン?」 聞き慣れない言葉を僕は繰り返した。 「うん!」
彼女は強く頷いた。ようやく打ち明けられる相手を見つけたかのように、堰を切ったように話し始めた。
「列車が駅に到着する時のアナウンスを聞くのが大好きなの。特に路線ごとに微妙にニュアンスが違うところとか。あと、交通カードを集めるのも趣味で。特に限定のコラボ版8ctopusなんて最高よ。ほら、見て――」
彼女は宝物を見せるように財布から一枚のカードを取り出して、僕の目の前で振ってみせた。カードには見たこともない絵が描かれている。
「これ、絶版なのよ!」
その口調には隠しきれない誇りが満ちていた。その生き生きとした表情は、僕の知らない暁茵姉だった。全校生徒の前で演説する時の完璧なアイドルではなく、自分の小さな趣味に興奮する、どこにでもいる普通の女の子。
「それにね!」
彼女はトンネルの奥から微かに響いてくる轟音の方向を指差した。
「今日乗る『荃湾線』は、たぶん地下鉄の『C車』よ。あんたたちの地元の長春にある会社で作られた車両。最高時速は90キロ。起動する時とブレーキをかける時の音がすごく独特なの。後で乗ったらよく聞いてみて」
彼女は滔々と語り続けた。車両の型番、時速、製造会社……専門用語はどれも僕には馴染みのないものばかりだった。
でも、悪くない気分だ。新しい世界の扉が開かれたような気がする。 『親友』なら、僕も彼女が愛するものを学び、彼女の世界に歩み寄るべきだ。
けれど、今の僕は、彼女の顔から視線を外すことができなかった。 照明が彼女の横顔を照らし、柔らかな輪郭に温かい光の縁取りを作っている。本当に好きなものについて語る時、彼女の瞳には炎が灯ったように、驚くほど明るく輝く。その純粋で混じりけのない情熱には、抗いがたい魔力があり、僕の心はすべて吸い寄せられてしまった。
そっか……これが、すべての偽装と防備を解いた、ありのままの嵐暁茵なんだ……。 この真実の姿は、非の打ち所がない『完璧な彼女』よりも、一万倍美しい。
「あ、電車が来たわ」
駅に入ってきた列車の強い光がホームを照らし、彼女の言葉を遮った。彼女は自分がどれだけ喋っていたかに気づいたようで、情熱が引いた後、少しきまり悪そうな表情を浮かべた。
「ごめん……退屈な話しちゃったわね? こんなの興味ないわよね、私、話し出すと止まらなくなっちゃって……」 「そんなことないよ」
僕はほとんど口走るように言った。
「すごく……素敵だと思う」
彼女は一瞬呆気に取られた。僕がそんな風に言うとは思っていなかったようだ。 彼女は何かを思い出したように、リュックのサイドポケットから精巧なパスケースを取り出した。
「そうだ、これをあげるわ」
彼女はパスケースの中から、真新しい8ctopusを取り出して僕の前に差し出した。
「これ、以前に日本の名作アニメ『〇〇〇〇』とコラボした限定版よ。あんた、アニメとかゲームが好きみたいだから」
暁茵姉、僕と共通の話題を作るために、アニメの知識もたくさん勉強してくれてたんだな……。 よく見ると、カードには僕の推しのキャラが描かれていて、あの見慣れた瞳で僕を見つめていた。
「このカード、絵柄が綺麗だなって思って……あんたに似合ってると思うわ」
彼女は視線を逸らし、声はさっきより小さくなった。少し恥ずかしそうだ。
僕の呼吸が一秒、止まった。
僕は手を伸ばし、指先を震わせながらそのカードを受け取った。ひんやりとして滑らかなプラスチックの質感。なのに、そこには火傷しそうなほどの熱が宿っているようで、手のひらが熱くなった。
「あ……うん……ありがとう……」
これはただの8ctopusじゃない。 これは暁茵姉が……僕の親友が……僕にくれたプレゼントだ。 彼女は、僕が見たアニメを覚えていてくれた。 それどころか……『僕に似合ってる』と思ってくれたんだ。
一瞬間、僕の脳内には巨大な波が押し寄せた。 このプレゼント、どう扱えばいい? そのままコレクションボックスに入れて大切に保管する? ダメだ! それじゃあ価値が申し訳なさすぎる! 冒涜だ!
そうだ……いつか広州に行って、最高級で専門的なギフトカスタマイズ会社を探そう。航空機グレードの素材を使って、こいつのために全密閉・UVカット・恒温恒湿の専用ディスプレイ台を作ってもらうんだ! 台座は本物の木材にして、レーザー刻印で『僕の初めての最高の親友、暁茵姉より拝受』って文字を刻むんだ! そして、それを……そうだ、寮の机の一番目立つ場所、毎日真っ先に目に入る場所に奉納するんだ!
ホームの放送システムから、聞き慣れたチャイムが流れた。柔らかな女性の声が広東語、中国標準語、英語で繰り返される。
『中環行き列車が到着します。お降りのお客様を先にお通しください。ご協力ありがとうございます。』
その声は鍵のように、幻想に浸っていた僕の脳を無理やりこじ開けた。
「玖? 電車来たわよ~」
暁茵姉の声が耳元で響く。軽やかな羽のように耳たぶをくすぐった。僕は夢から覚めたように顔を上げた。列車の明るいヘッドライトがトンネルの闇を切り裂き、風圧を連れて轟音とともに滑り込んできた。
「あ、うん。」
身体が脳より先に反応した。混乱した思考の中で、一つだけ願いが残っていた。――暁茵姉とはぐれたくない。だから、ほとんど本能的に、僕は隣にある温かい手を掴んだ。そして、乗車しようとする人の流れに合わせて、彼女を引き連れて車内へと踏み込んだ。
ドアが背後でゆっくりと閉まり、『プシュー』と音がした。
まさにその時、僕が掴んでいる手が、かすかに震えたのを感じた。
「……っ」
子猫のような、極めて微かな吐息が隣から漏れた。僕は不思議に思って隣を見ると、暁茵姉の視線と真正面からぶつかった。
次の瞬間、彼女は熱いものに触れたかのようにバッと俯いた。けれど、彼女の頬から耳の付け根までが、驚くほどの紅蓮に染まっていくのを僕ははっきりと見てしまった。
これって……どういうこと?
僕は彼女の視線を追って下を見た。そして愕然とした。僕の手が、彼女の手と固く繋がれていたからだ。今回は、僕から繋いだんだ。
その事実に気づいた瞬間、さっきプレゼントを貰った時のあの熱い感覚が、何倍にも膨れ上がって手のひらから全身を駆け巡った。
で、でも……。
俯いて、髪が垂れ下がり、表情の大半を隠している彼女。ただ、真っ赤になった小さくて可愛い耳たぶだけが見えていた……。僕の心臓が、情けなくもドクンと一つ跳ねた。
暁茵姉の……照れた顔……可愛すぎるでしょ……。
その思いが一度芽生えると、蔦のように激しく成長し、僕を締め付けて息苦しくさせた。
列車は軽く揺れ、暗いトンネルへと入っていく。車内は明るく、窓の外を飛ぶように過ぎ去るのは自分たちの反射と漆黒の壁だけだ。僕たちは二人とも口を利かず、ただ静かに立っていた。手はまだ繋がれたままで、それはまるで言葉の要らない約束のようだった。空気の中には、繊細で甘美な沈黙が満ちていた。
『次は、尖沙咀。尖東駅と屯馬線にお乗り換えです……ホームとの隙間にご注意ください……』
聞き慣れたアナウンスが再び流れ、この静寂を破った。目的地に着いた。 もう少しだけ、彼女の照れた横顔を見ていたかったけれど、理性が『降りる時間だ』と告げていた。
「姉さん……」
僕は喉を整え、できるだけ自然な声を出そうと努力した。
「着いたよ。降りなきゃ」
『姉さん』という呼び方を使ったのは、僕が無意識に作った逃げ道だった。その言葉が、僕たちの間のあまりにも甘い空気を、安全で正常な距離感に引き戻してくれるような気がしたからだ。
暁茵姉がパッと顔を上げた。赤みはまだ完全には引いていなかったが、視線はどこか泳いでいる。彼女は乾いた笑い声を二つ漏らした。
「あ、あはは……そうね、そうよね……」
彼女は手を離し、真っ先にドアへと向かった。これでこの話題は終わりだと思った。しかし、ドアが開き、ホームに足を踏み出した瞬間、彼女は周囲を見渡し、他の客の邪魔にならないことを確認してから、突然くるりと向きを変えて僕の前に立ちふさがった。
「あんた!」
彼女は人差し指をピンと立てて僕に向け、頬を少し膨らませた。まるで詰問でもするかのようだ。
「さっきなんて呼んだの? もう一回言ってみなさい!」 「……姉さん?」
彼女の瞳がパッと輝いた。 「聞こえない。もう一回!」 「姉さん。」
少し声を落とす。人の行き来があり、恥ずかしくなってきた。 「もう一回!」
彼女は引こうとせず、さらに一歩近づいてきた。お互いの吐息を感じるほどに距離が近い。
「姉さん……」
僕は完全に毒気を抜かれ、声を潜めて、ほとんど吐息のような音で言った。
「あの……暁茵姉、周りの人たちが……みんな見てるよ。あの視線、まるでバカなカップルを見るような目だよ……公共の場でこういうのは、迷惑になっちゃうから……」
『パブリックイメージ』を持ち出して彼女をいさめようとした。だが、その言葉が終わった瞬間、彼女の表情が固まった。 彼女は瞬きをして、まるで極めて複雑な命令を処理しているかのようだった。
「カ……」 唇が微かに震える。 「……カップル?」
「あはっ! あははははは! 玖! やっとその気になったのね! 私と付き合うつもりになったんでしょ!? わかってたわよ!」
僕は絶望的な気持ちで彼女を見た。自分で穴を掘って、思い切り飛び込み、ついでに土まで被せてしまった気分だ。
終わった。 この女の人、もう手遅れだ……。
僕は額を押さえ、深いため息をついた。手のひらで作られた影の下で、僕の口角は抑えきれず、どうしようもないという風に、こっそりと上向きの弧を描いていた。
尖沙咀駅を出た瞬間、都会の喧騒は目に見えない幕に隔てられたように消えた。 空の色はすでに深いインディゴブルーに沈み、海風が湿り気と潮の香りを運んできて、地下鉄駅に残っていた熱気を吹き飛ばした。この港特有の、繁栄と孤独が混ざり合った清々しい風。
対岸では、香港島の超高層ビル群がギザギザとした黒いシルエットになり、数万の窓から漏れる明かりが、ベルベットの上に散らばったダイヤモンドのように、一つ、また一つと夜空を灯していった。 それらはさざ波打つ海面に揺れる影を落とし、天の星々と響き合っている。
僕たちはプロムナードへと続く道を並んで歩いた。どちらも口を開かなかったが、さっき列車の中で固く繋いだ感触が、まだ手のひらに残っているようだった。僕が何かすべきか迷っていると、暁茵姉の指が、そっと、ためらうように僕の小指に絡まった。
心臓が跳ねた。僕は拒むことなく、逆に手のひらを開いて、彼女の少し冷たい指を包み込んだ。
今回は、人混みの押し合いもない、混乱した思考もない。 彼女の指関節に少し力がこもるのを感じた。この繋がりの実感を確かめているようでもあり、心の奥底で渦巻く感情を必死に抑え込んでいるようでもあった。
視界が開けた展望台で、僕たちは足を止めた。 海風はここでさらに強まり、僕の服の裾や彼女のスカートを激しくなびかせた。 見渡せば、ヴィクトリア・シティ全体が巨大な深い青色の琉璃のようだ。対岸の中国銀行タワーの鋭さと、香港上海銀行の重厚さが響き合い、無数のスターフェリーやヨットが海面に色鮮やかな光の尾を引いている。
「わあ……」 僕は思わず感嘆の声を漏らし、遠くでゆっくり回る巨大な光の輪を指差した。 「あれが中環の大観覧車だね。綺麗だな……いつか、暁茵姉と一緒に……乗って(※ツオ、広東語の意味:やる)みたいな。」
「ひぇっ?!」
彼女は電気を浴びたようにビクッと震え、声が裏返った。
「ツオ!?」
驚きで目を見開き、急速に頬を染める彼女を見て、反応するまでに数秒かかった。
僕は一気に顔を真っ赤にして、一文字ずつはっきりと訂正した。
「観! 覧! 車! に! 乗! る! って! 言ったんだよ!」
暁茵姉は呆然と僕を見つめ、それから僕の指差す先にある、都市の鼓動のようにゆっくり回る巨大な観覧車を見て、ようやく自分の声を取り戻した。
「あ……そ、そうよね。あれに『乗る』のよね……」
彼女は慌てて風に乱された髪を耳にかけ、失態を隠していつもの落ち着きを取り戻そうとした。 けれど、残った緊張のせいで、その声はまだ少し震えていた。 彼女は深く息を吸い、僕の方を向いた。街の万の灯りが彼女の背後に退き、ただの背景と化した。 夜の色が彼女の顔に落ち、普段の少し鋭い輪郭を柔らかく見せている。いつもは清らかで強いその瞳には、今、複雑な感情が満ちていた。
「知ってる、玖。」 彼女の声はとても小さく、海風にかき消されそうだった。 「みんなの目には、私はずっと『完璧な』嵐暁茵として映ってる。社交的でいて落ち着いていて、礼儀正しい。それがみんなが望む私の姿なの」 「私も、そんな偽りの環境や人付き合いを好きにならなきゃいけないんだと思ってた。でも……」
彼女は言葉を切り、僕の顔をじっと見つめた。
「でも、今になって気づいたわ。あんたみたいに……静かな人の方が、逆に……そばにいたいって思えるんだって……」
その瞬間、僕の心臓は優しい弾丸に撃ち抜かれたようだった。 僕は子供の頃から『人と違う』という理由で『異類』と見なされ、疎外され、いじめられてきた。孤独に慣れ、静寂を自分を守る盾にして生きてきた。 けれど今、僕の目に輝かしく完璧に映るこの少女が、彼女が求めているのは、世界から見捨てられた僕のこの『静けさ』なのだと言ってくれた。
この突然の承認は、どんな賞賛や褒美よりも僕を震わせた。 僕が答える間もなく、暁茵姉の身体がふわりと僕に寄り添い、頭を僕の肩に預けた。それはほんの小さな動きだった。けれど、薄い制服の布地を通して伝わる温もり、髪から漂う淡いシャンプーの香り、そして彼女の穏やかで規則正しい呼吸――すべてが、言葉のない言語で『私は心からあなたを信じている』と告げていた。
僕たちはもう喋らなかった。ただ並んで立ち、この光り輝く街の灯の海を眺めていた。 僕たちは、呼吸の仕方を覚えたばかりの二人の溺死者のように、不器用に、けれどこの上なく真摯に、お互いの過去の壊れた、誰にも知られていない自分たちを、新しい、二人だけの形に繋ぎ合わせようとしていた。
遠くで、一隻のフェリーが長く低い汽笛を鳴らした。その音は広い海面にゆっくりと広がっていった。
僕たちはアベニュー・オブ・スターズを当てもなく散歩し、他愛のない話を交わした。彼女が時折、父親の期待に応えるために、大好きなものを諦めたり、本当の感情を押し殺したりしてきた過去を話す時、僕は歩みを緩め、沈黙の中で専念して耳を傾けた。 わかっている。傷跡には、安っぽい慰めなんていらない。ただ静かに、決して背を向けて立ち去らない聞き手が必要なだけなのだ。
湾に面したベンチまで来ると、僕たちは並んで座った。すぐ近くには、海を見つめる生き生きとした『〇ダル』の像があった。
「なんだか……〇ダルに共感しちゃうな」 少し悲しげで、でもどこか楽天的な小さな〇ダルを見つめて、僕は呟いた。 「そうね」 暁茵姉の目も優しくなった。 「あんなに平凡で、ちょっと不器用で、何度も失敗して、世の中の冷たさをたくさん見てきたのに。それでも決して屈せずに、あんなに遠くに見える夢を一生懸命追いかけてる」
彼女は静かにため息をついた。 「〇ダルのお母さんは、いつも〇ダルに立派な人物になってほしい、出世してほしいって願ってた。でも〇ダルは、いつもいつも、お母さんの夢を裏切ってしまう……」
「だけど」 僕は彼女の言葉を引き継いだ。 「〇ダルのお母さんは、そんな不完全な〇ダルを愛し続けてる。そして〇ダルも、あのバカ正直で善良な性格で、不完全な自分の生活を、温かい『小さな幸せ』でいっぱいにしているんだよ」
「ふふ、そうね。その通りだわ」 彼女は小さく笑い、それから急に、僕の長いまつ毛が見えるほど近くに寄ってきた。彼女の口調は、かつてないほど柔らかく、耳元で囁くようだった。
「玖……あんた、怖くない?」 「何を?」 僕は聞き返した。 「私が……」
彼女は深く息を吸った。瞳の奥にある強い氷の面に、ついに亀裂が入り、その下の脆くてリアルな自分自身が顔を出した。
「いつか、あんたを突き放してしまう日が来るのが」
彼女の瞳に揺れる涙を見て、僕は彼女が深く隠していた恐怖を感じ取った。それは、数え切れないほどの抑圧と偽りの中で積み重なってきた不安だった。 僕は何も言わなかった。ただ手を伸ばし、優しく、けれどこれ以上ないほど強く、僕の手のひらを彼女の手の甲に重ねた。
そして、彼女の視線を受け止めて、一文字ずつ、心にある真実を言葉にした。
「たとえ君が僕を突き放しても、僕は君の手首を掴んで、絶対に離さない。たとえ君が僕から去っても、僕は迷わず追いかけるよ。世界の果てまでだって。僕、洛玖は、僕の最高で唯一無二の親友を、暗闇の中で一人ぼっちにさせたりしない」
僕が言い終わるやいなや、彼女の瞳の涙は、背後のヴィクトリア・ハーバーの夜景よりもずっと眩しい、輝く光に変わった。
「なによ、それ……」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ顔を伏せて、もう一度、額をそっと僕の肩に預けた。今回は、探り合うようなためらいはなく、全幅の信頼を込めて。
海風が遠くの貨物船の低いエンジン音を運んできた。それは、この深い青色の夜の幕の下で、激しく脈打つ僕たちの二つの心臓を優しく撫でる、終わりのない子守唄のようだった。
去り際、時計塔が夜の鐘を鳴らした。僕たちは海風の中に立ち、お互いに約束を交わした。 その声はとても軽く、二人だけにしか聞こえない誓いのように風に乗り、静かに、優しく、この煌びやかな夜の中に留まった。




