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第8話 湯煙の聖域に響く清冽なる調べ、水守の『一番風呂』と白銀の霊薬『瓶牛乳』の洗礼

 静寂が、暁の淡い光に溶け出す頃。

 街がまどろみの中に停滞する中、一つの煙突が力強く天に向かって白き号砲を打ち上げている。


 そこは、かつての聖地巡礼で訪れた大聖堂の静謐さとは対照的な、湿り気を帯びた熱気が支配するみそぎの場──銭湯。

 今日の労働は、この聖なる湯槽ゆぶねを磨き上げ、夜の間に蓄積された『不浄』を根こそぎ取り払う、極めて神聖な任務である。


「おはよう。あんたが今日の日雇いさん?父さんから聞いている……って、あんた、この間のコンビニの?」


 番台の暖簾を潜れば、投げかけられたのは、冷徹な刃のような響きの言葉。そして、僅かな驚きの色だった。

 そこに立っていたのは、この銭湯の主の愛娘。先日、コンビニで野菜ジュースと牛乳パンを購入していた、あのストイックな少女だ。


 彼女は制服の上に年季の入ったエプロンをまとい、長い髪を仕事の邪魔にならないよう機能的にまとめ上げている。

 その瞳は、あたかも迷宮の深淵を見据える隠密のように鋭く、こちらの糸目を値踏みするように観察していた。


「おや、あんさんは……。ふふ、まさかここで再会できるとは。うちはただ、この大地の底から湧き出づる聖なる雫に、この身を捧げたいと願うとるだけのしがない旅の従者にすぎまへん」

「……凛。『水守凛(みずもり りん)』。この銭湯の主の娘だ。……近くで見ると、耳、本当に尖っているんだな。面白い」


 ミズモリさんが指先で器用に弄ぶのは、銭湯のロッカーキー。

 しかしその手付きは、まるで秘匿された財宝の鍵を扱う忍びのような、不思議な精密さを感じさせた。

 案内された先、誰もいない朝の浴場。一歩足を踏み入れれば、そこは『水守の湯』という名の通り、清らかな水の気配に満ちていた。


「口上は不要。此処は戦場だ。汚れは敵。デッキブラシをタイル一分一厘に至るまで、その業を削ぎ落としてもらう」


 高くそびえ立つ天井。

 壁一面に描かれた富士の山は、元の世界で仰ぎ見た神霊の住まう霊峰のように、威厳を持ってこちらを見下ろしている。

 だが、その足元に広がるタイルには、長年の人々の営みが残した『業』──すなわち、頑固な水垢や皮脂汚れが付着していた。


「私は奥を。あんたは此方を。終演までに磨き上げよ」


 背中が淡い影に溶けていくのを見届ける。手にしたデッキブラシを杖のように構えれば、内なる魔力の泉が静かに波立った。

 現代において大掛かりな奇跡の行使は避けるべきだが、目の前の汚れという邪気を払う程度なら、女神サマもお許しくださるだろう。


清冽せいれつなる水の精。太古より続く浄化の旋律をもってこの地にこびり付いた迷える汚れに、永遠の安らぎを与えたまえ……『聖域清掃ホーリー・クリーニング』」


 呟きと共に、足元のタイルから淡い翠の光が広がった。

 シュワシュワと、汚れが光の粒子に分解される音が響き、デッキブラシを一度滑らせるだけで、古びたタイルが輝きを取り戻していく。

 本来ならば数時間はかかる掃除も、奇跡の力を持ってすれば、茶をすする間もない。


 仕上げに、桶の中の水を『聖別』。それを床一面に撒き散らす。

 浴室全体が清らかな空気で満たされ、まるで高原の朝を思わせるような澄み渡った空間へと変貌を遂げた。


「これは……汚れの断絶。あんた、その所作、只者ではないな。秘奥の業、確かに見せてもらった」


 戻ってきたミズモリさんが、浴室の入り口で呆然と立ち尽くしている。

 彼女は床にはいつくばり、指先でタイルをなぞる。

 キュッ、と小気味良い音が響き、汚れ一つない完璧な滑らかさが、彼女の疑念を驚嘆へと塗り替えていった。


「ふふ、うちはこう見えて根気強さだけが取り柄どす。タイルの声を聞き、汚れという名の暗雲を愛の力で払って差し上げただけでございますえ」

「感服した。父さんも喜ぶだろう。掃除の報酬、お湯が沸いたら『一番風呂』を提供する。私も供をしよう。あんたのその術、詳しく聞きたい」


 ミズモリさんの少し誇らしげな微笑みは、冷たかった氷が、春の陽気に溶け出したような温かさを持っていた。

 それこそが、今日という日の最大の福音に他ならない。


 一仕事終えた後の、誰もいない巨大な浴槽。

 ポコポコと注がれる源泉は、薄い琥珀色に輝き、生命の源そのもののような芳香を放っている。

 二人並んで、その豊潤なる湯の中へ。


「んんぅっ……。極楽、文字通りの浄土がここにありましたわぁ……。騎士サマならぬ、麗しき案内人さんと一緒のお風呂なんて、うちには勿体ない幸運どすなあ」

「熱いか。それが、我らの守るべき秘湯。……あんたの肌、本当に白いんだな。それと、背丈の割に……。その神秘について詳しく」


 注ぎ込まれる源泉は五臓六腑に染み渡るような熱量を持ち、聖女としての重圧も、アルバイトの疲れも、すべてが湯気に溶けて消えていく。

 彼女は静かに目を閉じ、湯の感触を慈しむように肩まで浸かっている。

 その端正な横顔は、戦いを終えた戦士が束の間の休息を得たかのような、尊い静謐に包まされていた。


「ふふ、凛はん、あんまりうちのこと見つめはると、照れてのぼせてしまいそうですわあ」

「見ていない。湯の揺らぎを、数えているだけだ」


 手ぬぐいを頭に乗せ、仰ぎ見た先。

 富士山の頂に、ちょうど浴室の窓から差し込んだ朝日が重なり、まるで神の啓示のように眩しく輝いていた。


 そして、至福の時間は、浴室を出た後も続いていたのだ。

 脱衣所に設置された、古めかしくも聖なる輝きを放つ冷機──そのガラス窓の向こうに、整然と並ぶ白銀の円柱。


「お疲れ様。報酬の仕上げだ。瓶を受け取れ」


 ミズモリさんが手渡したのは、手に持てば指先が凍えるほどに冷やされた、一本の『瓶牛乳』。

 プラスチックの蓋が剥がされ、顕になった紙の栓。その中心、小さなツメに指を掛け、繊細かつ大胆に引き抜く。


 パコンッ!


 この小気味良い破裂音こそ、聖なる儀式の始まりを告げる合図だ。

 腰に手を当て、仁王立ちの構え。

 冷気をまとった瓶のふちが唇に触れ、白い奔流が一気に喉を駆け抜ける。


「んっ、ふぅ……っ!!」


 喉を通り抜ける、暴力的なまでの白き清涼感。

 絞りたての生乳を思わせる濃厚なコク。


 風呂上がりのほてった身体に、雪解け水のような冷たさが染み渡り、魂が内側から純白に塗り替えられていく。

 それは、いかなる高度な回復魔法をも凌駕する、食という名の究極の癒やしであった。


「ぷはぁ……!なんという慈悲深き雫どすか!この一本を飲み干すためだけに、うちは生まれてきたのではあらへんかと錯覚してしまいそうですわあ」

「同感だ。その一滴に全てが詰まっている。またここへ。あんたなら、いつでも歓迎する」


 ミズモリさんは照れ臭そうに視線を逸らし、空になった瓶を受け取った。

 その手付きには、先程までの尖った警戒心は微塵も残されていなかった。


 ***


【タイトル:[浄化]湯煙の聖域に響く清冽なる調べ、水守の『一番風呂』と白銀の霊薬『瓶牛乳』の洗礼について】


『――人は時として、身体という名の牢獄に囚われ、日々の業に塗れることがあります。ですが、あえて聖なる熱湯という名の慈悲に身を委ね、その後に白銀の雫を喉に流し込めば、そこにはこの世のものとは思えぬ「解放」という名の救済が生まれるのです。お風呂と牛乳。この奇跡の出会いこそ、煩悩を洗い流すための最強の禊と言えるでしょう』


 カタカタと、打鍵音が静かな部屋に響く。

 お風呂上がりの火照った体で、冷たいお茶を啜りながら、今日という豊かな一日を日記に刻む。


 投稿ボタンを押し、満足感と共にノートパソコンを閉じる。

 窓の外、夜の街を照らす明かりが、いつもより優しく, 清らかに光っているように見えた。


 #瓶牛乳 #一番風呂の奇跡 #腰に手を当てて飲むのが作法 #聖女の掃除


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