第58話 帰還の問答と『湯豆腐』の静寂
年の瀬が迫る、月の下旬。
ことほぎ荘の廊下に、冷たい風が吹き抜けていた。
「リエル、そこの桟の埃が取れていないぞ。やりなおしだ」
「師匠、うちは今、窓ガラスを磨いてるのどすが」
「にゃっぷ。ならば同時進行だ。聖女の身体能力をもってすれば両手で異なるタスクを処理するくらい造作もないだろう」
「無茶を言わんといてくれやす……」
ことほぎ荘の大掃除。
んにゃ丸に憑依した師匠が、肩に乗りながら的確な指示を飛ばしている。
丸い電子の瞳がきょろきょろと動き、埃の一つ一つを見逃さない。
「しかし、この建物も随分とくたびれているな。構造体の経年劣化が著しい。特にこの窓枠のシーリング材は……」
「師匠、分析はもう結構どす。雑巾を絞ってくださいな」
「今の私は猫の身体なのだが。……まあいい、肉球で踏み絞ればいけるだろう」
師匠がぷにぷにと肉球で雑巾を踏む姿は、滑稽を通り越して可愛らしかった。
けれどその分析力は本物で、師匠が指摘した箇所を拭くと、見違えるほど綺麗になっていく。
共用廊下、階段、玄関ホール。
二人で──正確には一人と一匹で──黙々と掃除を続けた。
日が暮れる頃、ようやく掃除が一段落した。
自室に戻り、小さな鍋に水と昆布を入れて火にかける。
買い置きの絹ごし豆腐をまな板の上で切り分けた。
「湯豆腐。年の瀬は、これくらい静かなものがええのどす」
「にゃっぷ。……まあ、今夜は静かなほうが都合がいい」
師匠の声に、いつもとは違う色が混じっていた。
気づかないふりをして、豆腐を鍋にそっと沈めた。
透き通った昆布出汁の中で、真っ白な絹ごし豆腐がゆらゆらと揺れている。
刻んだネギを薬味皿に盛り、ポン酢と鰹節を添えた。
「……いただきます」
箸で豆腐をそっとすくい上げる。
ぷるん、と柔らかく震えるそれを崩さぬようにポン酢へ導き、口に運んだ。
ふわり、と。
淡い大豆の甘みが舌の上でほどけた。
噛む必要すらない。体温より高い温もりが、喉を優しく滑り落ちていく。
ポン酢の酸味とかつお節の香りが後を追い、口の中に柔らかな余韻を残した。
「……おお」
派手さはない。衝撃的な旨味もない。
けれど、冷え切った身体の芯にじんわりと灯がともるような温かさがあった。
「にゃっぷ。……余分な情報を排した、極限まで圧縮された構成だ。素材の持つ本来のデータを最小限の調味で引き出す。お前さんもこの世界の食い物をよく理解するようになったな」
「おかげさまで食い意地だけは一流どすからなあ」
二人で──正確には師匠は肉球で小さな器を支えながら──静かに箸を動かす。
鍋の中で豆腐がゆらゆらと揺れ、湯気がテーブルランプの光を淡く滲ませていた。
「……リエル」
ふいに、師匠が口を開いた。
電子の瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
「はい、師匠」
「ゲートの解析が完了した」
箸が止まった。
「……完了、どすか」
「ああ。この世界と元の世界を繋ぐ門。その構造を読み解き、再構成する手段を見出した」
最近、師匠がやけに静かだったのは、裏でその解析を進めていたからなのか。
「お前さんを、元の世界へ安全に送り届けることができる」
静寂が、部屋を満たした。
鍋の中で昆布がゆっくりと沈んでいく音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「……帰れる、ということどすか。あの世界に」
「そうだ。ただし──」
師匠が、ふう、と小さく息を吐いた。
「ゲートの容量は極めて限定的だ。一度お前さんを送り届ければ、この世界への接続を維持することは、おそらく二度とできない。門は閉じる。こちらとの繋がりは、完全に断たれる」
完全に断たれる。
その言葉の重さが、胃の底に沈んでいった。
「お前さんの答え次第だ、リエル。帰るか?」
師匠がそう問いかけた時、鍋の中の豆腐がふるりと小さく震えた。
帰る。
元の世界に帰る。
それは、ずっと胸の片隅にあった選択肢だった。
けれど。
「……師匠。一つ、お訊きしてもよいどすか」
「なんだ」
「元の世界は復興の途上にあると仰いましたな。あの大地は、少しずつ緑を取り戻しつつあると」
「ああ。お前さんが封印した終末災害『幻想郷』の残滓は根深いが、人々は懸命に立ち上がっている」
終末災害──幻想郷。
かつて世界を覆い尽くそうとした大災厄。
それを封じたのが、聖女としての最後の仕事だった。
そして、その反動でこの世界に飛ばされた。
「……封印者であるうちが戻れば、あの封印に触れる者が再び現れるかもしれまへん」
師匠の電子の瞳が、微かに揺れた。
言葉の意味を、正確に理解したのだろう。
「聖女の帰還は、復興の助けになる一方で……新たな火種にもなりかねない。封印の鍵を握る者がどこにいるか分かれば、それを利用しようとする勢力が動く。復興の均衡が崩れる可能性がある……そういうことどすな」
師匠は何も言わなかった。
否定も、肯定もしない。
ただ、静かにこちらを見つめていた。
「……にゃっぷ。お前さんは、いつからそこまで考えられるようになったんだ」
「この世界でたくさんの人に出会いましたから。物事には一つの正解だけやないということを……みんなが教えてくれたんどす」
豆腐をもう一切れ、口に運んだ。
昆布出汁のほのかな甘みが、喉の奥まで染み渡る。
「師匠。うちの答えは、こうどす」
箸を置いた。
「うちはこの世界に残りたい。ここにはうちを必要としてくれる人がおる。うちの居場所がここにある」
一拍、置いた。
「──けれど、ゲートの力を無駄にはしたくない。うちの代わりに、この世界の『種』を送ることはできやしまへんか」
「……種?」
「ええ。今までうちがこの世界で食べてきた、たくさんの料理。その原点となるものどす。ジャガイモ、サツマイモ、大豆、稲、小麦、リンゴやレモンの苗木……それらを育てる知恵と一緒に、元の世界の土に届けたいんどす」
師匠の瞳が、大きく見開かれた。
「……にゃっぷ」
しばらくの沈黙の後、師匠がゆっくりと口を開いた。
「聖女ではなく、種を送る。お前さんが帰ることで生じるリスクを避けつつ、元の世界に実質的な恵みを届ける。……なるほど。聖女の身体よりも食の種子のほうが、あの世界にとってはよほど確実な希望になるかもしれないな」
「ええ。うちが持ち帰れるのは、剣でも魔法でもない。この世界の『食べ物の力』どす。それをあの大地に蒔いてもらえたら……いつか、あの世界にも豊かな食卓が生まれるかもしれまへん」
師匠が肉球で鼻先を擦った。照れ隠しだ。
「……にゃっぷ。いい答えだ。お前さんらしい。いや──お前さんにしか出せない答えだ」
「師匠……」
「私も正直に言えば、お前さんに帰ってきてほしい気持ちはあった。だが、お前さんが自分で考えて出した答えなら私はそれを支える。それが師匠の役割だ」
師匠の声が、少しだけ震えた。
すぐに「にゃっぷ」と咳払いで誤魔化したけれど、聞き逃さなかった。
「……ありがとうございます、師匠」
「礼を言うのはまだ早い。種の選定と転送の準備がある。年が明ける前には実行に移すぞ」
「はい。それまでに送るべきものを集めまひょ。種と……そして、育て方の手引書も」
「手引書?」
「ええ。種だけ送っても育て方が分からなければ意味がありまへん。この世界の農業の知恵を紙に書き残して一緒に送りたいんどす」
師匠がゆっくりと頷いた。
「……にゃっぷ。お前さん、本当に変わったな。かつての世間知らずの聖女がこうも実務的な提案をするとは」
「世間知らずは否定できまへんが……半年分の労働経験は伊達やあらへんのどすえ」
小さな笑い声が、年の瀬のことほぎ荘に響いた。
窓の外では、冬の星空が澄んでいる。
元の世界の空にも、同じ星が瞬いているのだろうか。
鍋の中の最後の豆腐を二人で分けた。
派手な味ではない。
けれど、大切なことを決めた夜には、この静かな温もりがちょうどよかった。
***
【タイトル:[帰還]静寂なる問答の果てに揺れる白き供物『湯豆腐』と、種に託す万理の祈り】
祈りの時です。
皆様は、大切な答えを出す夜にふさわしい供物をご存知でしょうか?
それは『湯豆腐』──昆布出汁の透明な海に浮かぶ、白き沈黙の結晶でございます。
余分な味付けを一切排した、極限の構成。
ぷるりと震える絹ごし豆腐を、ポン酢と鰹節だけで迎え入る。
舌の上でほどける大豆の甘みは、派手さこそないものの、冷え切った魂の芯にそっと灯をともす、最も静かで、最も深い慈悲なのでございます。
この一切れを口にしながら、聖女は答えを出しました。
自らの身体ではなく、種を送ること。
この世界で出会った豊かな食の記憶を、遠い故郷の大地に届けること。
帰還ではなく──希望の転送。
それが、働く聖女の見つけた、もう一つの「食の奇跡」なのでございます。
「リエル、湯豆腐がもう鍋にないのだが。全部食べたのか」
「師匠、半分はうちの分どすから。正当な権利を行使しただけどすえ」
「正当な権利にしては、明らかに七対三の配分だった気がするのだが」
#湯豆腐 #大掃除 #帰還の問答 #聖女の決断
残り2話です。




