第55話 感謝の仕込みと『肉じゃが』の止まり木
勤労感謝の日。
世間の多くは休日を満喫しているはずだが、聖女に祝日は関係ない。
朝から馴染みの喫茶店の扉を叩いた。
「おはようございます、カノンはん。本日の修行、お受けいたしやす」
「くふふっ。修行だなんて大袈裟ね、はんなりちゃん。冬メニューの仕込みを手伝ってもらうだけよ」
カノンさんが白いエプロンの紐を結びながら、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
柳原奏音。この喫茶店の店長にして、珈琲の魔術師。
普段はホールの手伝いが多いが、今日は厨房に入れてもらえるらしい。
「冬メニューの仕込みって、何を作るんどす?」
「シチューのベースになるルウと、ホットサンドの新しいソース。あとは……ふふ、まかないの支度もあるわね」
「まかない……!その一言で、労働意欲が天元突破いたしやすえ」
「相変わらず、はんなりちゃんのモチベーションは胃袋直結ね」
エプロンを借りて厨房に入る。
客席側の穏やかな空間とは打って変わって、ここには業務用の鍋やフライパンが整然と並び、スパイスや調味料が棚にびっしりと詰まっている。
「では、まずは玉ねぎのスライスをお願いするわね。薄く、均一に」
「承知どす。聖女の包丁捌き、とくとご覧あれ──」
ザシュ、ザシュ、と小気味よい音を立てて玉ねぎを切っていく。
ところが、三個目に差し掛かったあたりで。
「……っ……うう」
「あらあら。泣いてる?」
「……泣いてまへん。これは、玉ねぎの毒ガスに対する聖女の浄化反応どす」
「くふふっ。浄化反応にしては鼻水も出てるわね」
カノンさんが涼しい顔でバターを溶かしながら笑っている。
こちらは涙と鼻水の修行だというのに、あの人は全く動じない。
「カノンはんは平気なんどすか、この毒ガス」
「もう慣れたわ。お店を始めた頃は私もボロボロ泣いてたけど」
「お店を始めた頃……」
「ええ。もう六年になるかしら、この店を開いてから」
バターの上に小麦粉を振り入れ、カノンさんがゆっくりとヘラで練り始めた。
焦がさないように、けれど手を止めずに。その手つきには六年分の経験が滲んでいる。
「最初の一年は、本当にお客さんが来なくてね。このカウンターに一日座って、一杯もコーヒーが出ない日もあった」
「……一杯も、どすか」
「くふふっ。今思えば笑い話だけど、あの頃は毎晩、このままお店をたたんだほうがいいんじゃないかって考えてたの」
カノンさんの声は穏やかだった。
けれどその言葉の奥には、確かに重みがあった。
「でも、やめなかったんどすな」
「ええ。一人でも『美味しい』って言ってくれる人がいたら、それだけで続けていけるなって思ったの。……ちょっと青臭いかしら」
「いいえ。それは、とても大切な信仰どす。うちの世界では、それを『召命』と呼びますえ」
「召命……ふふ、素敵な響きね。じゃあ私は、コーヒーに召命された人間ってこと?」
「ええ。カノンはんの淹れはるコーヒーには、確かにそれが宿ってやす」
カノンさんが少しだけ目を細めた。
いつもの「くふふっ」とは違う、もっと静かな笑みだった。
ルウの仕込みを終え、次はホットサンド用のソースに取り掛かる。
トマトを湯剥きし、にんにくと共にオリーブオイルで炒める。甘酸っぱい香りが厨房に充満した。
そこへ、カランと入り口のベルが鳴った。
「……ども」
フードを深く被った小柄な影が、のそりとカウンター席に座った。
「あら、いちかちゃん。いらっしゃい」
「イチカはん。今日は早いどすなあ」
「……勤労感謝の日なのに、家に誰もいなかった。だから来た」
イチカさんがフードを脱いで、寝癖のついた髪をかき上げた。
不機嫌そうな顔をしているが、ここに来るということは一人でいたくなかったのだろう。
「いつもの?」
「お願いします、奏音さん」
カノンさんが慣れた手つきでいちごオレを用意する。
氷を入れず、少しだけ温めたミルクにいちごのシロップを落とす。冬仕様だ。
「ここ、なんか匂いが違う。奥からいい匂いがするんだけど」
「冬メニューの仕込み中どすえ。うちが助っ人に入ってるんどす」
「アンタ、働きすぎじゃない?」
「勤労感謝の日に働く。これぞ最上の感謝の形ではありやしまへんか」
「いや、それ本末転倒でしょ」
イチカさんが呆れた顔をしていると、カノンさんが厨房から顔を覗かせた。
「いちかちゃん、暇なら奥に来る?まかないの支度もあるし、手伝ってくれたら食べさせてあげるわよ」
「……まかない?」
「肉じゃが。今日は寒いからね、温かいものがいいでしょう」
「行く」
驚くほどの即答だった。
イチカさんが渋々(という演技の)足取りで厨房に入ってくる。
「いちかちゃんは、じゃがいもの皮を剥いてもらえるかしら」
「皮剥き?……まぁ、できなくはないけど」
「ピーラーはそこよ。怪我しないようにね」
「分かった」
そう言いながらも、イチカさんは丁寧にじゃがいもの皮を剥いていく。
ひとりで過ごす夜が多い子だが、それが今回は良い方向へ向いているようだ。
「イチカはん、上手どすなあ」
「別に。これくらい誰でもできるでしょ」
「そうでもないわよ。皮が均一に薄いのは、手先が器用な証拠ね」
「……そう言われると、なんかくすぐったい」
三人で厨房に並ぶ。
カノンさんが鍋に油を引き、豚肉を炒め始めた。
ジュウ、という力強い音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いが立ち上る。
「イチカはんが剥いてくれたじゃがいもと、うちが泣きながら切った玉ねぎを投入どす」
「アンタ、泣いてたの?」
「玉ねぎの毒ガスにやられたどす」
「ダメじゃん」
切った野菜を鍋に入れていく。
玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。
カノンさんが醤油、みりん、砂糖、出汁を手際よく加え、落し蓋をした。
「あとは煮込むだけ。二十分くらい待ちましょうか」
「二十分。煮込みの祈祷時間どすな」
三人で厨房を出て、カウンター席に腰を下ろした。
鍋からコトコトと穏やかな音が聞こえてくる。
醤油と砂糖の甘辛い香りが、じわりじわりと店内に広がっていった。
「……ねぇ、今日って勤労感謝の日でしょ。奏音さんは誰に感謝すんの?」
イチカさんが唐突に訊いた。
カノンさんはコーヒーカップを両手で包みながら、少し考えるように天井を見上げた。
「そうねぇ……お客さんかしら。来てくれる人がいるから、私はここに立てる。はんなりちゃんみたいに毎回大げさに美味しいって言ってくれる人がいると、明日も頑張ろうって思えるの」
「大袈裟も何も、カノンはんのコーヒーは本当に美味しいんどすから。誇張ではなく真実の証言どす」
「くふふっ。ありがとう」
カノンさんが笑って、それからイチカさんに視線を向けた。
「いちかちゃんは?」
「あーしは……別に。感謝とか、そういうの苦手だし」
「苦手なのと、無いのは違うわよ」
カノンさんの声は柔らかいが、芯がある。
イチカさんが少しだけ目を伏せた。
「……受験勉強、朝活のやつ。ハンナリエルさんが付き合ってくれなかったら、多分まだ夜更かし生活のまんまだった。学校も行ったり行かなかったりだったし」
「イチカはん……」
「あと、奏音さんのこの店がなかったら、深夜にいちごオレ飲みに来る場所もなかった。……感謝っていうか、まあ、なんていうの。ここがなかったら詰んでた」
ぼそぼそと、けれど確かな声で。
イチカさんはそれだけ言って、残りのいちごオレを一気に飲み干した。
「イチカはん。ここは止まり木なんどす」
「止まり木?」
「ええ。疲れた鳥が羽を休める枝のような場所。カノンはんのお店はそういう場所なんどすえ」
「くふふっ。嬉しいこと言ってくれるわね」
「止まり木、ね。……まぁ、嫌いじゃない。この店の匂い」
コトコト、コトコト。
鍋の音が、三人の沈黙を柔らかく埋めてくれていた。
やがて、蓋を開ける。
濃い琥珀色の煮汁の中でじゃがいもがホクホクに崩れかけ、玉ねぎは飴色にとろけ、豚肉が柔らかく煮含められている。
湯気と共に立ち上る匂いは、醤油と出汁と砂糖が渾然一体となった暴力的なまでの家庭の香りだった。
「でき上がりよ。はい、盛り付けて」
カノンさんが深めの器に丁寧によそってくれた。
三人分の肉じゃがが、カウンターの上に並ぶ。
「……いただきます」
箸でじゃがいもを崩し、煮汁と共に口へ運んだ。
ホクリ、と崩れる瞬間。
舌の上で、出汁の旨味と醤油の塩味と砂糖の甘みが、三位一体の円を描くように溶け合った。
じゃがいもは煮汁をたっぷりと吸い込み、噛むたびに温かな汁が染み出してくる。
玉ねぎはもはや原形を留めておらず、甘みの塊と化して舌の上で崩壊した。
豚肉は箸で持ち上げただけでほろりと割れ、脂の旨味が煮汁と溶け合って口中に広がる。
「これは……家庭の味。いや、家庭を超えた『郷愁の味』どす。食べたこともないはずの、けれど確かに懐かしい温もりが胃の底から全身に広がっていくんどすえ」
「肉じゃがって不思議よね。誰が作っても、食べた人を『帰ってきた』って気持ちにさせるの」
「……おいしい。なんかちょっとだけ悔しいくらい、うまい」
イチカさんが小さく呟いた。
箸を握る手が、微かに震えている。
「イチカはん?」
「……あーしの家、誰も肉じゃがなんて作んないから。こういうの食べるとうまいくせに、ちょっとだけ泣きそうになる」
「泣いてもええんどすえ。ここは止まり木どすから」
「泣かないし。ただ、玉ねぎの毒ガスの残留効果」
イチカさんが鼻を啜りながら笑った。
カノンさんが何も言わず、そっとおかわりをよそってくれる。
「はい、いちかちゃん。たくさんあるから、遠慮しないで」
「……ども」
二杯目のじゃがいもを口に運ぶイチカさんの横顔は、来た時よりもずっと柔らかかった。
「カノンはん。今日はまかないまでご馳走になり、感謝の言葉もございまへん」
「くふふっ。勤労感謝の日に働いてくれたんだもの。当然のお礼よ」
「あーしは皮剥いただけなんだけど」
「それも立派な労働よ、いちかちゃん。均一に薄く剥けてたのは本当に上手だったわ」
「……もう、褒めすぎだって」
片付けを手伝い、閉店準備が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
三人で店の前に立ち、白い息を吐く。
「じゃあね、いちかちゃん。気を付けて帰るのよ」
「うん。また来る」
「いつでもいらっしゃい」
イチカさんがフードを被り直して、小さく手を上げた。
「……ハンナリエル」
「はい?」
「名前呼びに『さん』つけるのやめていい?いや、別にどっちでもいいんだけど。千怜さんや凛さんを呼び捨てにする前段階というか……」
「ふふ。お好きなように呼んでおくれやす、イチカはん」
「……ありがと。じゃ、また」
背中を丸めたイチカさんが、街灯の下を歩いていく。
その足取りは、来た時よりほんの少しだけ軽かった。
「いちかちゃん、ああ見えて、寂しがり屋さんなのよね」
「ええ。けれど、ここに帰ってこれる場所があるということをあの子は知ってくれたはずどす」
「くふふっ。止まり木、ね。良い言葉だわ」
カノンさんが店の鍵を閉めながら、穏やかに笑った。
肉じゃがの余韻が、まだ胃の底であったかく灯っている。
***
【タイトル:[感謝]止まり木に宿る琥珀の慈悲『肉じゃが』と、勤労の果てに芽吹く家庭の原風景】
祈りの時です。
皆様は、食べたことも無いはずの「故郷」を思い出す料理をご存知でしょうか?
それは『肉じゃが』──醤油と出汁と砂糖の三位一体が生み出す、家庭という名の聖域の味でございます。
勤労感謝の日。喫茶店の厨房という名の修行場で、三人の戦士が包丁とピーラーを握りました。
涙の浄化反応(玉ねぎ)を乗り越え、祈祷の二十分を経て顕現したそれは、琥珀色の煮汁を纏った大地の抱擁そのものでございます。
ホクリと崩れるじゃがいもの中に凝縮された旨味は、冷えた身体を芯から温め、知らぬ間に心の堤防をも溶かしてしまう、恐るべき慈悲の兵器。
止まり木と呼ばれるこの場所で、疲れた翼を休めるように供された一杯の肉じゃがは――きっと、どんな勲章よりも温かい、感謝のかたちなのでございます。
「奏音さんの肉じゃが美味しかった。……レシピ、聞いてもいい?」
「もちろん。いつでも教えてあげるわ。自分で作ったら、もっと美味しく感じるわよ」
「(イチカはん、ついに自炊の扉を開きはるんどすなあ。うち、感無量どす)」
#肉じゃが #勤労感謝の日 #止まり木 #聖女の感謝
残り5話です。




