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第53話 防壁の補強と『厚切りポテトのチーズグラタン』の残響

 暦の上では立冬を迎え、風には明確な冷たさが混じるようになった。

 この数日、周囲は少しばかり静かだ。


 師匠は「新たな万理を独自のルートで探る」と言い残して自宅で調べ物中。

 チサトさんも高校の修学旅行で遠方へ向かっている。


「……ふう。これで脱衣所の防壁(すきま風対策)は完了どすな」

「うん。ありがとう、ハンナリさん。助かった」


 『水守の湯』の脱衣所で窓枠の隙間を埋める作業を終え、額の汗を拭った。

 本格的な冬が到来する前に、古い銭湯の建物を寒気から守るための大掛かりな防寒対策と大掃除。

 人並み外れた身体能力と執念に近い集中力を探われ、今日の助っ人として招集されていたのだ。


「高い所のホコリも床のヌメリも全部消えてる。……さすが、はんなり聖女」

「物理は余計どすえ。精一杯働くのは修行の一環、いえ、日頃の入浴の恩返しの労働どす」


 番台の仕事の合間に手伝ってくれていたリンさんが、静かに頷く。

 普段は無表情に近い彼女だが、今日はどこかやり切ったような満足げな空気を漂わせていた。


「もう外は真っ暗。ハンナリさん、よければうちでご飯を食べていって」

「ああ、なんと慈悲深きお誘いどす。冷え切った魂がその言葉だけで南国の陽光を浴びたように温まりやすえ」

「大袈裟だって。ただの余り物の消費だから」


 そのぶっきらぼうな背中に隠された優しさを噛み締めながら、軽やかな足取りで彼女の後に続いた。


 番台の裏を抜け、居住スペースへと続く廊下を進む。

 銭湯の熱気がふっと遠のき、冷気が足元から這い上がってきた。


「……寒い。ハンナリさん、指先が真っ赤。感覚はある?」

「これもまた聖女としての修練どす。氷の魔法をその身に宿しているような心地どすえ」

「馬鹿言わないで。今日はこれまでにないほど冷えるから。早く入って」


 彼女に促され、案内されたのは生活感の漂う台所だ。

 修行僧の私室のような静謐さを予感していたが、そこには確かな生活の匂いがある。


「これから準備するから。ハンナリさん、手伝ってくれる?」

「おやおや、リンはんと共に厨に立つとは。これは聖なる儀式(共同作業)の予感どすえ」

「儀式なんてそんな。ただ、ジャガイモを切ってもらうだけ」


 手渡されたのは、土の香りが微かに残る立派なジャガイモ。

 リンさんはホワイトソースを小鍋で練りながら、手際よくオーブンの予熱を始めた。


「これを見事な円盤(輪切り)にすれば良いのどすな?聖女の包丁捌き、とくとご覧あれどす」

「はいはい。指、切らないようにね。少し厚めに切ったほうがホクホクして美味しいから」


 トントン、と小気味よい音が台所に響いた。

 共に作業をする沈黙は、銭湯の清掃中と同じく、けれどそれよりもずっと暖かなものだった。


 耐熱皿にジャガイモを並べ、その上から熱々のホワイトソースを惜しみなく注ぐ。

 最後にたっぷりのチーズ。まさに難攻不落の城壁を築き上げるような緻密な作業だ。


「よし、あとは焼けるのを待つだけ」

「黄金の円盤が誕生するまで、しばしの瞑想(待機)どすな」


 オーブンの窓から漏れるオレンジ色の光を二人で見つめながら、部屋の中に香ばしい香りが立ち込めるのを待った。

 やがてチンという福音と共に、小さな食卓の中央に「それ」が鎮座した瞬間、部屋の冷気は一気に霧散したように感じた。


「『チーズグラタン』どすか。なんと芳しき黄金の円盤」

「余ったジャガイモが、悪くなりそうだっただけ。深い意味はないから」

「ふふ、そうして『深い意味はない』と仰る時ほど、深い慈愛が籠もっているのをうちは知っていやすえ」

「余計な邪推はいいから、スプーン持って。冷めたらホワイトソースの粘度が変わっちゃう」


 リンさんに促され、謹んで黄金の装甲にスプーンを差し入れた。

 パリッと。表面のチーズが心地よい音を立てて砕ける。


「おお……このチーズの厚み、まさにリンはんの規律正しき鎧のようで。けれどその奥には、なんと温かなジャガイモが隠れていることか」

「……また、よくわからない例え。味はどう?」

「絶品どす。厚切りのジャガイモがホクホクとした福音となって喉を通り抜けていくどす。ホワイトソースの優しい甘みが凍えた血肉を再起動させてくれるようどすえ」

「ならよかった。……ジャガイモは煮崩れない種類を選んだの。効率的に栄養を摂るにはこれが一番だと思って」

「効率、どすか。相変わらずリンさんはストイックどすなあ」


 リンさんはふい、と顔を背けながらも、自身もまた一匙、口に運んだ。

 沈黙の中に、スプーンが皿を打つ微かな音だけが響いた。


「……もう冬か。長いようで、短かったな」


 唐突にこぼれた彼女の独白。そこには、かつての刃のような鋭さはなかった。


「ええ。最初は瓶牛乳一本の盟約で結ばれた仲どしたけれど。今やこうして、同じ円卓(食卓)を囲む仲になりまいたえ」

「……悪くない。ハンナリさんのおかげ。よく働いてくれたから」

「あら、リンはんにそこまで褒めていただけるとは。明日は雪でも降るかもしれまへんえ」

「皮肉はいいから、さっさと食べて。……おかわりもあるから」

「ふふっ、チサトはんがいれば『二人だけでグラタンなんて羨ましい!』と騒がしかったでしょうな」

「うん。今頃は北海道でカニとかジンギスカンとか食べてるはず」

「北の大地でさらなる宝珠グルメを貪っているとは……恐るべき食欲どすえ」

「本当に。でも、少し静かで寂しい気もする」


 ふとリンさんが窓の外の夜空を見上げた。

 グラタンの湯気の向こう側、彼女の視線は遠くの記憶を辿っているようだ。


「まさか、こんな高校生活になるなんて思わなかった。自分の性格も、この目つきも自覚してる。人付き合いなんて必要最低限で終わる。あたしは銭湯を守って三年間を淡々と過ごすはずだった」

「随分と悟りを開いた高校生活どすな」

「悟りじゃない。ただの予測。でも、千怜があたしのクラスに遠慮なしに乗り込んできて、勝手に防壁を壊していった。それに……」

「それに?」

「……計算通りにいかないのも悪くないって思ってるだけ」


 彼女の不器用な肯定。

 それは、この冬の冷え込みさえも包み込む、温かな火のように響いた。


「この表面の強固なチーズは、まるでリンはんの規律正しき鎧のようで……けれど、その奥に隠されたホクホクとした温かな真心が、喉を通り抜けていくのがわかるんどす」

「……また、それ。全部気のせい。ジャガイモが熱いだけ」

「ふふ、そういうことにしておきまひょか」

「また何度かお願いするかも。雪かきとか」

「ええ、いつでもお声がけおくれやす。聖女の筋力、存分にお使いなさいませ」

「……うん。頼りにしているね」


 ごちそうさまの声を上げ、最後の一片までチーズとソースを絡め取り、その聖なる供物を完食した。

 玄関まで見送りに来たリンさんの表情は、いつもの硬さが嘘のように柔らかく綻んでいた。

 その瞳の奥に宿る確かな親愛の灯火は、夜の冷気さえも優しく撥ね退けてしまうようだった。


 ***


【タイトル:[聖別]硬質な鎧の残像『チーズ』と、内なる慈悲の奔流『厚切りポテトグラタン』の祝祭】


 祈りの時です。

 皆様は、真の温もりがどこにあるかをご存知でしょうか?

 それは、職人の矜持(チーズの焦げ目)の奥に、無限の慈愛ホワイトソースを秘めた『厚切りポテトグラタン』にこそ宿るのでございます。


 表面を覆う焦げたチーズは、外界の喧騒を撥ね退ける硬質な鎧。その装甲をひと匙で突破すれば、そこには大地の抱擁を凝縮したホクホクのポテトと、全てを許容する温かなソースが渦巻いているのです。

 不器用な「余り物」という名の大いなる施し。

 その熱量を胃の腑に納める時、凍てついた魔力経路は瞬時に再起動し、生命の灯火はかつてない輝きを放ち始めるのでございます。


「(写真添付:ジンギスカン)凛ちゃんずるい!私もグラタン食べたかったー!」

「千怜、それジンギスカン食べながら言うセリフじゃないから。修学旅行、楽しんでね」

「(なんと……この短期間で驚異的な魔力(カロリー)を摂取しておる……流石はチサトはんどす)」


 #チーズグラタン #ポテトグラタン #冬の救済 #聖女の円卓


全編書き終えました。

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