第44話 白煙の狼煙と『さんまの塩焼き』の銀剣
破壊。
それは、創造と同じくらいに崇高で暴力的な儀式。
老朽化した工場の解体現場という鉄とコンクリートの墓場に立っていた。
依頼されたのは、大型の重機が入り込めない狭いエリアの内壁を手作業で粉砕するという鉄火場の苦行。
「いいかいハンナリさん。ここの壁は古いからな。鉄筋も入ってるし、気合入れて叩けよ!」
「承知しましたえ。旧きを壊し、新しきを導くのが聖女の役目どす」
手渡されたのは、人の頭ほどもある鉄の塊――スレッジハンマー。
本来は巨漢の騎士や地底のドワーフが好む戦場の武器であり、非力なはずの聖女が扱える代物ではない。
かつての世界では「淑やかな聖女」のイメージを守るために、魔力でこれを振り回す姿は固く秘匿してきたのだが、この日本の労働現場においては、これほど頼もしい相棒もない。
振り下ろす。
ガガァン!と、火花を散らして硬質な音が響く。
長年の歳月で固まったコンクリートは、容易には崩れてくれない。
物理的な打撃だけでは、迷宮を今日中に浄化することは不可能。
「……よろし。ならば、もう少しばかり魔力の加護を賜りまひょか」
周囲に人がいないことを確認し、深く息を吸い込んだ。
掌からハンマーの芯へと魔力を流し込む。
鉄槌が青白い光を放った瞬間、天高く振り上げられた一撃は重力の制約を越えて加速した。
ドォォォォン!!
爆発音。
一撃。ただそれだけで分厚い壁の芯に不可視の衝撃波が走った。
意志を失ったかのように、コンクリートは砂利と化して崩壊していく。
これが、魔力による破壊の旋律。
「な、なんだ!?何が起きた!?」
「お気になさらず。正しい角度と祈りの深さが合致しただけのことどすえ」
それから数時間。
魔力を込め続け、文字通り壁を紙のように砕いていった。
作業は驚異的なスピードで完了したが、代償として深刻な飢えに襲われていた。
魔力の消費は身体のエネルギーだけでなく、魂の空腹を極限まで加速させるのだ。
足は棒のよう。腕は鉛のよう。
へとへとになった状態で現場を後にした。
埃を落とすために銭湯へ――と思ったものの、その前にこの胃袋の叫びを静めるための供儀を求めて商店街を彷徨った。
***
秋に入り、風の中に微かな冷気が混じり始めたある日の午後。
商店街の魚屋の店先で運命的な出会いを果たした。
「らっしゃい!今年の初物は型がいいよ!目黒のさんまも裸足で逃げ出す極上品だ!」
威勢のいいおじさんの声に誘われて覗き込んだ発泡スチロールの箱。
氷の上に横たわっていたのは、見事なまでに鋭利な銀色の刃だった。
「……美しい」
細身ながらも引き締まった魚体。
背中の青から腹の銀へと変わるグラデーションは、名工が鍛えた刀身のように澄んでいる。
口先には淡い黄色が滲み、鮮度の良さを無言で主張していた。
「さんま、どすか」
「おうよ!秋の味覚の王様だ!塩焼きにすりゃあ、飯が何杯でもいけるぜ!」
王様。
その響きは、こちらの世界に来てから光り輝く言葉の一つ。
一尾二百円。今の財力なら十分に手が届く。
「四尾、頂きまひょか」
気付けば財布を開いていた。
ゴンドウさんと、あと誰かお裾分けできる人がいれば。
あるいは自分が四尾食べてもいい。秋の食欲は無限大なのだから。
***
意気揚々と帰宅したものの、重大な問題に直面した。
台所の換気扇が、あまりにも貧弱なのだ。
脂の乗ったさんまを部屋で焼けば、三日は匂いが取れないだろう。
洗濯物にも被害が及ぶ可能性がある。
「……庭で焼くしかないどすか」
部屋の外に出る。ことほぎ荘の一階、管理人室の扉をノックした。
別宅に住んでいるゴンドウさんだが、幸運にも今は管理人室で帳簿でもつけていたらしい。
ゴンドウさんは呆れながらも、物置から古びた七輪と炭を出してくれた。
「ったく、アパートの庭で七輪たぁ、昭和の風景だな」
「風流でよろしおすやろ。お礼にゴンドウはんの分も焼きますさかい」
「……大根おろしあるか?」
「もちろんどす。すだちも完備しております」
「合格だ」
縁側の前、ブロック塀の陰に七輪を据える。
使い慣れた手付きで炭の配置を整え、火力を自在に操るその手際は、かつての野営の日々を彷彿とさせる熟練の技。
赤々と熾った炭の上に、塩を振って少し置いたさんまを乗せた。
ジュゥウウウ……ッ!
皮が焼ける音と共に、白い煙が猛烈な勢いで立ち上る。
途端に、脂の焦げる香ばしい匂いが周囲の空気を支配した。
これはいけない。暴力的なまでの食欲の誘惑だ。
「おどろいた、火事かと思ったわよ」
塀の向こうから制服姿の警察官が顔を出した。キリハラさんだ。
鼻をひくつかせている。
「巡回中どすか?」
「ええ……だけど、この煙は平成でギリ許される公害ね。令和の今なら取り締まりが必要かしら?」
「賄賂を用意しておりますが」
「……非番まであと三十分。着替えてくるわ。さんまが焦げる前に戻るからとっておきなさいよ」
キリハラさんが早足で去っていった。
入れ違いに、学校鞄を提げたリンさんが通りかかった。
「すごい匂い。遠くからでも捕捉できた」
「お帰りやす、リンはん。夕飯前どすか?」
「今から帰って作るところ……だが、この匂いの前では作る気も失せる」
「一尾余っておりますえ」
「……ハンナリさん、部屋にお邪魔する。ご飯を炊いてくる」
リンさんが自分の部屋へ駆け込んでいった。
やはり、秋刀魚の煙は人を呼ぶ狼煙らしい。
***
夕暮れの庭に四人が揃った。
ゴンドウさんが日本酒を、キリハラさんがビールを、リンさんが炊きたてのご飯とお味噌汁を用意して。
網の上では、三尾のさんまがこんがりと黄金色に焼き上がっていた。
皮はパリパリに焦げ、身からは脂がしたたり落ちて炭火をジュッと言わせている。
「ハンナリさん、焼き加減、完璧」
「待ちきれん。いただこう」
各自の皿に取り分ける。
この完璧な焼き加減もまた炭の熱を読み、身の厚みに合わせて配置を変えるという、聖女の長年の経験に裏打ちされた精密な調理の賜物。
たっぷりの大根おろしを添え、すだちをギュッと絞る。
柑橘の爽やかな香りが、脂の重さを中和する予感を漂わせた。
箸を入れる。
パリッ。
軽快な音と共に皮が割れ、湯気がふわりと舞う。中からふっくらとした白身が現れた。
「いただきますえ」
まずは背中の身を一口。
……あ。
口に入れた瞬間、脂の甘みが爆発した。
炭火の香ばしさ、塩気の絶妙なバランス。
そして大根おろしの清涼感が、脂っこさを一瞬で洗い流していく。
「美味しいどすなあ!」
「これはお酒が進むわ。大家さんもほらっ」
「白米が止まらない」
そして、さんまの醍醐味といえば。
「ハラワタ……大人の聖域どす」
少し黒ずんだ腹の部分。苦くて敬遠する人もいるが、これこそが至高。
解体現場で魔力を使い果たした今の自分には、この複雑な苦味こそが滋養強壮として染み渡るのだ。
恐る恐る口に運ぶ。
……苦い。けれど、その奥に深い旨みがある。
「んんっ……!この苦味!秋の哀愁を感じさせる深み……!」
「そこもイケるのか、ハナ」
「あたしは昔嫌いだった……今は、これが一番美味しいと感じる」
「ワタシも……この苦味が美味しく感じちゃうのが、ちょっと複雑だけどね」
キリハラさんが苦笑しながらビールを呷る。
秋風が吹き抜け、七輪の煙を揺らした。
綺麗に食べた後の骨は、まるで標本のようになった。
頭と背骨だけを残し、命を頂いた満足感が腹の底から湧き上がってくる。
「秋どすなあ」
「ああ、そうだな」
「食欲の秋、どすなあ」
「お前さんの場合、年中食欲の季節だがな」
ゴンドウさんのツッコミを聞き流しつつ、空を見上げた。
高く澄んだ空に、うろこ雲が流れていく。
「次は、松茸あたりを狙いたいものどす」
「生活費の全てを食費に回したら、ことほぎ荘以外じゃ住める場所もねえぞ」
七輪の残り火が、パチリと爆ぜた。
***
祝祭は終わりを告げたが、身体の芯にはまだ解体現場での魔力的な疲労が澱のように残っている。
埃と秋刀魚の脂を落とすべく、夜の帳が降りた街へ踏み出した。
「いらっしゃい、ハンナリさん。さっきはご馳走様」
辿り着いたのは、リンさんの家業である銭湯『水守の湯』。
番台で凛々しく座る彼女に木札を預け、洗浄を行うための脱衣所へと向かう。
「……はぁあぁあ。浄化される……魂まで洗われるようどすえ」
高い天井に響く、コン、という桶の音。
薬湯の香りと立ち込める湯気が、硬直していた筋肉を解きほぐしていく。
コンクリートの粉塵を洗い流し、秋刀魚の煙に包まれていた肌を清める。
それは、一日の戦い(労働)と報酬(供儀)を締めくくる、最も贅沢な祈りの時間。
湯船に浸かりながら、今日一日を振り返る。
破壊の果てに出会った銀色の聖剣。
その苦味を共に分かち合った、この街の住人たち。
「次はどんな試練が、味覚が待っているのでしょうなあ」
火照った頬を秋の夜風に晒しながら家路につく背中を、水守の湯の暖簾が優しく見送ってくれたのであった。
***
【タイトル:[招聘]白煙の狼煙が示す場所、銀色の聖剣『さんまの塩焼き』による鎮圧】
『――破壊の果てに、真理は宿ります。分厚きコンクリートの壁を「聖なる魔力」によって粉砕し、肉体と霊塊を使い果たした戦士を待っていたのは、氷の寝床に横たわる銀色の聖剣でありました。立ち上る白煙は、隠したはずの魔力さえも見透かすように、空腹という名の暴動を街中に告げ知らせる狼煙となるのでございます。パリリと弾ける皮は、魔力障壁を凌駕する香ばしさを放ち、苦きハラワタは、戦い終えた魂に深い慈悲を与えるのでございます。破壊と創造、そして摂取。これぞ生命の輪廻。秋の風に吹かれながら、我々は再び、明日を生きる魔力を充填するのでございます――』
『はんなりちゃん、昨日はことほぎ荘の庭が大変なことになっていたみたいね』
『おや、カノンはん……煙が店まで届いてしまいましたかえ?』
『くふふっ。店までは届かなかったけれど、空を見上げたら白煙が見えたわ。サンマのPR、お見事ね』
『秋の訪れを告げるには、これくらいの狼煙が必要やったんどす』
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