第42話 精霊の送り火と『冷やしたぬきうどん』の静寂
セミの声が、いつもより遠く聞こえる気がした。
世間はお盆休みに入り、商店街のシャッターは半分以上が下りている。
キリハラさんは実家の法事、カノンさんのお店も臨時休業、アスカさんはツアー、高校生組はそれぞれ家族との時間を過ごしている。
そんな中、一人、住宅街の喧騒から離れた高台の墓地にいた。
お盆のお墓参り代行——遠方に住んでいたり、身体が不自由だったりする依頼主の代わりに、墓石を清め、花を供え、祈りを捧げる仕事。
「……ふぅ。これで三件目どすな」
磨き上げられた墓石の前で、真っ直ぐに背を伸ばして手を合わせる。
かつて聖女として数千の信徒を前に大掛かりな鎮魂祭を取り仕切っていた頃とは、あまりにも違うささやかな日常の労働。
けれど、差し出された線香の煙が真っ直ぐに空へと昇っていくのを見つめていると、祈りの重さに貴賤はないのだと、改めて教えられる気がした。
「んにゃ」
「お待たせどす。あとはことほぎ荘へ帰って、お前さんのご飯にするだけどすえ」
足元で不服そうに鳴くにゃん丸を宥めつつ、バケツとタワシを片付ける。
誰かの大切な場所を守るという任務は、聖女にとっても、今の自分にとっても、等しく尊い修行。
「んにゃ」
「お前さんも退屈どすか」
仕事を終え、自宅のフローリングに伸びているんにゃ丸の腹を撫でる。ひんやりとした感触。
どこからか、トントントン、と何かを刻む音が聞こえてきた。
「……ゴンドウはん、来はるんや」
サンダルを突っ掛けて、部屋の外へ出る。
共用スペース、縁側に続く部屋の窓が開け放たれていた。
「お、起きたか。ハナ。今日はコンビニをバイトに任せて、こっちの風通しとな……お盆の準備に来たんだ」
「何をしてはるんです?」
「精霊馬だよ。お盆の迎え火と送り火の代わりだ」
ゴンドウさんの太い指が、器用に割り箸を折ってキュウリに突き刺していく。
あっという間に、四本足の緑色の動物ができあがった。
「キュウリは馬だ。あの世からこっちに来る時は、少しでも早く着くように」
「なるほど。駿馬どすな」
「で、ナスは牛だ。こっちから帰る時は、景色でも楽しみながらゆっくり帰れるように」
ずんぐりとした紫色の牛が、馬の隣に並べられた。
夏の日差しボケた縁側に、小さな緑と紫の獣がちょこんと鎮座している。
その光景はどこか滑稽で、けれど不思議と厳かな空気を纏っていた。
「……お前さんのいたところにも、似たような風習はあるのか?」
「ありましたえ。ランタンを川に流して死者の魂を導くんどす」
「こっちにも『灯籠流し』ってのがある。似たようなもんだな。……綺麗だろうな」
「ええ。川面が一面、光の帯になって……」
記憶の中の光景を思い出しながら、隣に座った。
庭の百日紅が、暑さに負けじと紅い花を咲かせている。
「お前さんは、帰らなくていいのか」
「へ?」
「盆だろ。まあ、電車賃も馬鹿にならんだろうが」
ゴンドウさんが、ナスの牛を愛おしそうに撫でた。
「……帰り道が分かりまへんので」
「そうか」
「誰かが『もう任務は終わったから休みよし』と言うて、ここに放り出されたんやと思います。ま、休暇にしてはずいぶんと長いどす」
強がり半分で言うと、ゴンドウさんは「ふん」と鼻を鳴らした。
「なら、ここが家だろ」
「は?」
「帰る場所がねえなら、今いる場所が家だ。……少なくとも、俺ぁそのつもりで大家やってる」
ゴンドウさんの言葉は、夏の熱気に溶けて消えた。
けれど、その温度は確かに残っている。
エルフの世界では、孤独に生きるのが当たり前だった。家族という概念すら、どこか希薄で。
「……人間と関わると、人生が濃くなる。故郷の古いことわざどす」
「ほう。お前さんの仲間も、なかなかいいこと言うじゃねえか」
「本来は『面倒事が増えるから長生きしたければ山に籠れ』という皮肉の意味どすけど。今のうちは、その『濃さ』が嫌いじゃありまへんえ」
ゴンドウさんの視線は、庭の先、陽炎の揺れる空に向けられていた。
この強面の大家さんが、どうして古びたアパートを一人で守り続けているのか。詳しくは知らない。
けれど、その横顔には誰かを待ち続けているような、あるいは誰かを見送った後のような、静かな色が滲んでいた。
「……腹、減ったな」
湿っぽさを振り払うように、ゴンドウさんが立ち上がった。
「飯、まだだろ。食うか」
「ゴンドウはんの手料理……!是非!」
「おう。ちょっと待ってろ」
***
台所から、ドスン、ドスン、と重たい音が響いてくる。
小麦粉を捏ねる音だ。まさか、そこから?
「夏はやっぱり、これに限る」
しばらくして運ばれてきたのは、氷水で締められた艶やかなうどんだった。
不揃いな太さの麺が、ザルの中で白く輝いている。
その上には、たっぷりの天かす、刻んだキュウリ、おろし生姜、そして刻みネギ。
「冷やしたぬきうどん、どすか」
「おう。天ぷらを揚げるのは暑くて敵わんからな。揚げ玉で我慢しな」
「とんでもない。この黄金の粒こそが至高のトッピングどす」
つゆを回しかける。
濃いめの鰹出汁の香りが、湯気ではなく冷気と共に立ち上った。
「いただきます」
箸で麺を持ち上げる。ずっしりと重い。
ゴンドウさんの無骨な手が打った、力強いうどん。
一気にすすり込む。
——つるん。
唇を滑らかに通り過ぎた直後、歯を押し返すような強烈なコシが襲ってきた。
冷水で極限まで締められた小麦の塊。噛み締めるたびに、素朴な甘みが口の中に広がる。
「……んんっ……!硬い……いや、コシが……!生きてるみたいどす……!」
「おう、今日の出来は悪くないな」
そして、天かす。
つゆを吸って少しふやけた部分と、まだサクサク感を残した部分。
そのコントラストが、単調になりがちなうどんの食感にリズミカルなアクセントを加えている。
シャキシャキのキュウリ。ピリリと辛い生姜。
全てが冷たく、潔い。
「……旨い」
「どすなあ……」
派手な具材は何もない。うなぎのような高級感も、海のようなイベント性もない。
けれど、縁側で並んで、風鈴の音を聞きながらすする冷たいうどんは、どんな御馳走よりも今の身体に馴染んだ。
「おかわり、あるぞ」
「三杯ほどいただきます」
「……お前さん、相変わらずいい食いっぷりだな」
***
日が傾き、ひぐらしの声が響き始めた頃。
ゴンドウさんが庭の隅で小さな焚き火をした。送り火の代わりだという。
揺らぐ炎を見つめながら手を合わせる。
元の世界の友人たちへ。
そして、この世界のいる大切な人たちへ。
「……またな」
ゴンドウさんがポツリと呟いた。
炎の向こうに、ナスの牛がゆっくりと歩いていく幻が見えた気がした。
煙が空に昇っていく。
静かな、静かな、夏の夕暮れだった。
その余韻に浸っていた、次の瞬間——。
「……んにゃっ!」
鋭い鳴き声と共に、白き影が縁側を駆け抜けた。
んにゃ丸が、ナスの牛を咥えて庭へと飛び出したのだ。
「あっ、こら!んにゃ丸!それは乗り物どす、食べ物やおまへんえ!」
「おい待て!牛がいねえと帰り道が大変だろ!馬のスピードじゃあいつらが酔っちまう!」
ゴンドウさんが慌ててナスの牛を追いかける。
しかし、んにゃ丸はそれが新しいおもちゃだと勘違いしたらしい。
庭の隅で、ナスの牛をポンポンと前足で弾き、宙に浮かせては追いかけ回している。
「放せ!それはナスだ!魂の乗り物なんだよ!」
「にゃーん!」
「ゴンドウはん、待って!きゅうりの馬まで咥えようとしてますえ!」
結局、馬も牛も、んにゃ丸の狩猟本能の餌食となってしまった。
バラバラになった野菜の残骸を前に、ゴンドウさんは喉を震わせて——豪快に笑い出した。
「ガッハハハ!ったく、これじゃ迎えに来た先祖も置いてけぼりだな!牛の代わりに、この白いのを担いで帰ってもらうしかねえ!」
「……失敬。先祖代々の方々には、うちが特急列車でも召喚して送り届けておきますさかい、堪忍しておくれやす」
その時だった。
どこからか、遠くで花火の音が聞こえてきた。
「お、始まったか。川向こうの打ち上げ花火だとよ」
「……綺麗どすなあ」
暗くなり始めた空を一筋の光が切り裂き、大輪の花を咲かせる。
その光に照らされて、ゴンドウさんと満足そうに喉を鳴らす白き信徒の横顔が見えた。
「人間と関わると、やっぱり人生は濃くなるようどすな」
溜息混じりに呟いた言葉は、打ち上がる花火の音にかき消されて、誰にも届かなかった。
***
【タイトル:[鎮魂]精霊の通い路にて、純白の紐帯『冷やしたぬき』の静寂を食む】
『――祝祭の喧騒が去り、静寂が街を包むお盆の候。私が身を投じたのは、去りゆく魂を導き、残された者の想いを繋ぐ「鎮魂の代理人」としての労働でございました。灼熱の墓地にて、他者の記憶が刻まれた石を清め、線香の煙に祈りを託す。かつての聖堂とは異なる青空の下、汗を拭いながら対峙したのは、純白の紐帯たる「冷やしたぬきうどん」。冷水という峻厳な試練に締められた麺は、黄金の砂利の洗礼を受け、喉元を通り過ぎる瞬間に究極のコシという名の啓示を授けます。静かな火に焼かれ、煙となって昇る精霊たち。帰るべき故郷を持たぬ私に、その一杯の冷たさと不器用な優しさが、ここが「家」であることを教えてくれるのでございます――』
『おう、ハナ。日記なんて書いてないでスイカも切るぞ』
『ゴンドウはん!?なんでここに……!』
『ん?入っちゃ悪いか?』
『いえ、滅多に出てこられへんレアキャラですので……スイカ、頂きます』
#冷やしたぬきうどん #手打ちうどん #精霊馬 #聖女の休日
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