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第41話 仮面の祝祭と『りんご飴』の赤い月

 提灯の列が、夕闇の商店街を琥珀色に染め上げていた。

 昼間の設営バイトで吊るした提灯が、こうして灯りを灯すと、見慣れた通りがまるで別の世界に変わる。

 屋台の煙が風に流れ、太鼓の音が腹の底を揺らし、浴衣の裾が石畳を擦る音が、あちらこちらから聞こえてくる。


 夏祭り。

 去年は存在すら知らなかったこの行事を、浴衣姿で歩いている。


 カノンさんから借りた紺地に金魚柄の浴衣。

 帯の結びは動画を見ながら三十分格闘した成果で、背中ではリボンではなく、やや不格好な角出しがなんとか形を保っている。


『いまどこ?もう着いたんだけど』

『焼きそばの屋台の前どす』

『いっぱいあるよ焼きそば屋台!もうちょっと具体的に!』

『一番煙がモウモウしてる辺り』

『全部モウモウしてる!!』


 これならば通話に切り替えた方が早い。


「アスカはん、今どこにおいでですか」

『射的の前!お面の屋台の隣!』

「あ、見えました。そっちから三軒目の——」


 人混みの向こうに、帽子とマスクで顔を覆い隠した影がきょろきょろと首を振っていた。

 あれは完全に不審者の風体でしかない。


「アスカはん」

「あっ、エルさん!見ぃーつけたー!」


 駆け寄ってきたアスカさんの出立ちは、黒いキャップにサングラス、さらに大きめの布マスク。

 せっかくの髪も帽子の下に押し込まれ、個性という個性が物理的に封印されている。


「アスカはん……それ、逆に目立っておりまへんか」

「え?そう?アタシ的には完璧な変装なんだけど……」

「真夏にサングラスとマスクの完全武装、どう見ても怪しい人どす」

「うー……でも、もし誰かに見つかったら……」


 お忍びの歌姫にとって、不特定多数が集まる夏祭りは危険地帯。

 その気持ちは分かる。でも。


「せっかくの祭りどすえ?もうちょっと楽しんだらよろしいのに」

「楽しんでるよ!匂いだけで!焼き鳥の匂いとか、ソースの匂いとか!」

「こちらへ来たばかりの頃のうちみたいなことを言わんといて。匂いだけで祭りを済ませるのは、あまりにも寂しいわあ」


 帽子のつばをちょいと持ち上げてやった。

 サングラスの奥で、大きな瞳がキョトンとこちらを見ている。


「アスカはん。この場所の人々は自分の祭りを楽しむのに夢中どす。誰もあんさんの顔なんて見てまへん……見てるとしたら、その怪しい格好のほうどす」

「……そうかなぁ」

「うちが保証しますえ。聖女の名にかけて」

「うーん、聖女より親友の保証の方がいいんだけどなぁ……」


 それでも。

 アスカさんは逡巡した後、ゆっくりとサングラスを外した。

 マスクも顎の下にずらす。帽子のつばの下から瞳が提灯の光を受けて輝いた。


「……なんか、ドキドキする」

「それが祭りどす」


 すたすたと歩き出す聖女の斜め後ろで、アスカさんが恐る恐る顔を上げた。

 提灯の光に照らされた表情はまだ硬いが、聖女は周囲の状況を冷静に、かつ迅速にスキャンしている。

 それは、数多の観客を捌いてきた夏フェス警備の視座。


「アスカはん、歩幅を一定に。右前方から子供たちの集団が来ますえ。うちは彼らにとっての『透明な壁』となり、視線を逸らしつつ安全航路を確保しますさかい、あんさんはそのまま前方を注視していておくれやす」

「え、えっ?壁……?」


 絶妙な角度でアスカさんの前に立ち、プロの警備員さながらの「空間確保」と「視線誘導」を開始した。

 すれ違う人々は、まるで見えない結界に触れたかのように、吸い込まれるような自然さで二人を避けていく。


「すご……エルさんの後ろにいると、なんかモーセになった気分なんだけど」

「モーセはんが誰かは存じ上げませんが、これが巡礼で培った防衛陣形フォーメーションどす」


 ***


「まず、射的からどすか」

「やるやる!アタシ、こういうの得意なんだ!」


 アスカさんが意気揚々と屋台の暖簾を潜ろうとした、その時。

 その横で、ガタガタと音を立てている隣の屋台の棚に目を留めた。

 かつて建築現場で一ミリの狂いと戦った設営バイトの記憶が、指先をピリつかせる。


「あきまへんな。この棚、水平が出ておりまへん。今にも林檎の如く地面へ奉納されてしまいますえ」

「えっ、エルさん?何して——」


 帯の隙間に挟んでいた予備の割り箸を一膳取り出すと、プロの足場職人のごときキレのある動作で棚の脚に噛ませた。

 ドスン、と鈍い音がして、不安定だった棚がピタリと沈黙する。


「……完璧どす」

「お、おう!まさか一瞬で直してくれるとはな!姉ちゃん、お礼にこれ持っていきな!」


 店主から渡されたオマケの唐揚げをアスカさんに手渡し、一行は改めて射的の屋台へと向かった。


 屋台の射的台に並ぶ景品は、ぬいぐるみ、お菓子の箱、水鉄砲。

 アスカさんが目を輝かせて銃を構えた。


 パン、パン、パン。

 三発すべてが景品の棚を掠め、壁に跳ね返った。


「ええっ!?当たんない!絶対狙ったのに!」

「コルクの弾は軽いどすからなあ、距離が離れると重力で落ちるんどす。少し上を狙うとよろしおす」

「エルさん詳しいね!じゃあエルさんもやってよ!」


 銃を受け取った。

 エルフの目と指先の精密さを以てすれば、造作もない……はずだった。


 パン。

 コルクの弾が景品のぬいぐるみの額を直撃した。

 しかし、ぬいぐるみはびくともしない。


「あれ。落ちないね」

「……もう一発」


 パン。同じ場所に命中。しかし微動だにしない。

 あのぬいぐるみ、明らかに設置面に魔力ではない何かが働いている。


「ねえ店主さん。これ、ボンドでくっついてたりしない?」

「まさか!八百長なんてしねえよ。運と腕の問題だ!」

「……今の音、鈍い音がしました。このぬいぐるみ、中にコンクリートでも詰まっておりまへんか」

「エルさん、さすがにそれはないでしょ!あ、でも、あっちの箱……狙ったら動いた!」


 パンッ。アスカさんが放った一弾が、ポテトチップスの箱の角を叩いた。

 箱が大きく揺れ、ついに棚から転がり落ちる。


「やったー!エルさん、見て見て!ポテチゲット!」


 歓喜するアスカさんの傍らで残りの一弾を手に、棚の一番奥に鎮座する巨大なぬいぐるみを凝視した。

 かつて荷物と格闘し、その重心と慣性を見極めてきたピッキング・マスターの眼。


「……見えましたえ。あのぬいぐるみの魂の拠り所(重心)は、右足の先、コンマ二ミリの位置どす」

「えっ、エルさん?何が見えてるの?」

「一撃必殺……聖なる労働の重み、知りなはれ!」


 パンッ、という乾いた音が響く。

 コルク弾はぬいぐるみの右足の爪先を掠めるように命中。

 その瞬間、巨大な体がまるで自ら飛び降りるかのように、スルスルと棚から滑り落ちた。


「落ちたぁぁぁ!エルさん、今のどうやったの!?魔法!?」

「いいえ、物流の物理法則どす。聖女の威厳、なんとか再梱包リパックできましたわ」


 ラムネ菓子の酸っぱさと、手に入れたポテトチップスの袋。

 二人で分け合いながら歩く敗北と勝利の味は、夏の夜にはちょうどいい刺激だった。


 ***


 金魚すくいの屋台では、んにゃ丸が大事件を起こしかけた。

 水面をゆらゆら泳ぐ金魚に反応し、前足を伸ばそうとしたのだ。


「こら!んにゃ丸!ここで暴れたらあきまへん!」

「んにゃにゃっ!」

「わ、かわいい!このぬいぐるみ、動くの!?あ、もしかして中の機械が水に反応して……」

「ぬいぐるみどす。最新型で、えーと……防水仕様どすえ」

「すごーい!さすがエルさんの持ち物、ハイテクなんだね!」


 アスカさんが満面の笑みで隣のお客さんに「これ、動くおもちゃなんですよ!」と力説してくれた。

 おかげで「不審な生き物を連れた不審な浴衣女性」という疑惑は、なんとか「最新ガジェット愛好家」という解釈で上書きされたらしい。


 焼き鳥を二本ずつ買い、タレと塩の香りに鼻をくすぐられながら。

 わたあめを一つ、二人で千切りながら歩いた。

 指先が溶けた砂糖でベタつき、アスカさんが「あー、タオル……カバンの中だ」と困った顔をする。


「お任せなはれ。こうなることを見越して、手ぬぐいを用意してありますえ」


 懐から真新しい手ぬぐいを取り出した。

 シュパパパンッ、と肉眼では追えない残像を伴い、手ぬぐいがアスカさんの手の中で一瞬にして「最も拭きやすく、かつ汚れを拡散させない特殊多層構造」の形へと折り畳まれた。


「な、なにあれ……手ぬぐいが一瞬で芸術的なキューブ体になったし。エルさん、指が残像で見えないんだけど!?」

「これが巡礼の後に残る、清浄なる折りの世界どす」

「今日のエルさん、本気で面白すぎる!」


 指先のベタつきを綺麗に拭い取り、アスカさんは再び祭りの喧騒へと足を踏み入れた。


「ねえ、エルさん」

「はい」

「アタシさ、前にも祭りの現場にはいたことあるの。フェスの時とか」

「うちの任務は設営と会場整理と美化担当どした」

「あの時はステージのお仕事だったから、こうやって屋台をゆっくり回るのって実は初めてなんだ。祭りを『楽しむ』側は」

「そうでしたか。ステージの上から見る景色とは、また違うどすか?」

「全然違う!上からだと『光の海』って感じだけど、ここからだと『匂いのジャングル』だね!みんなの笑い声が近くて、なんか……自分がここにいていいんだって思える」

「……素敵な感性どす。今この瞬間、アスカはんはただの祭り好きの乙女どすえ」

「あはは!もっと食べて、もっと祭り好きになっちゃおうかな!」


 浴衣の裾が時折触れ合い、下駄の音がカラコロと涼しげに響く。

 提灯の列の下を、二人で並んで歩く。


 ***


「あ、りんご飴!」


 アスカさんが足を止めた。

 屋台の前に並ぶ真っ赤な飴の玉が、提灯の光を受けて宝石のように輝いている。


「食べたい!エルさんも!」

「もちろんどす。あの紅き誘惑には抗えまへんえ」


 二本購入。手渡されたりんご飴を掲げると、飴のコーティングが夜空を反射して、怪しいまでに美しく輝いた。


「綺麗……赤い月みたい」

「どすなあ。まるで祝祭の夜だけに昇る紅い月——」

「エルさん、日記の文体が出てる」

「失敬」


 パリンッ。飴に歯を立てる。

 硬い飴の殻が一瞬で砕け、甘い破片が口の中に弾ける。

 その奥から、リンゴの酸っぱい果汁がじゅわりと滲み出した。


「んんっ……!甘いのに酸っぱい……最高どす……!」

「アタシ、このパリって割れる瞬間が一番好きなの!なんか、『お祭りの魔法』が解ける直前の味がするっていうか」

「魔法、どすか。なら、うちが何度でもかけ直しますえ。次はこの隣のたこ焼きの屋台へ——」


 指先がべたべたになるのも構わず、笑い合いながら歩く。

 夢の話も、お忍びの苦労も、今は忘れて。

 ただこの夜の甘さと、下駄の音だけがあればいい。


「ねえ、エルさん。来年も一緒に行こうね。約束だよ?」

「もちろんどす。来年はアスカはんにも、もっとびしっと決めた本気の浴衣を用意させますえ」

「えー!アタシ、着付け苦手だよ?」

「うちにお任せなはれ。こう見えて帯結びの動画なら十本以上見ましたさかいに」

「……結局動画頼みじゃない!」


 祭りの雑踏に、二人の笑い声が溶けていった。

 たこ焼きを八個、ハフハフと言いながら口に運び、最後に冷たい麦茶で流し込む。

 巡礼の夜は、月よりも赤くりんご飴のように、甘酸っぱい記憶として刻まれた。


 ***


【タイトル:[祝祭]仮面を脱いだ夜に、紅き月『りんご飴』が灯す祝福】


『――祝祭の夜は、あらゆる仮面を外すことを許される特別な時間です。聖女も、歌姫も、名もなき通行人も、提灯の下では等しく一人の祭り人。その手に握られた紅き月――りんご飴。硬き飴の殻をパリンと砕けば、内に秘められた酸味の真実が溢れ出します。甘さと酸味の矛盾こそが、この祝祭の本質。見た目の華やかさの奥に隠された素朴な果実の味わいは、仮面の下に隠された本当の笑顔に似ています。祭囃子が遠くなっても、指先に残る飴の甘さだけは、嘘をつきません――』


『待って……タイムラインに眩しい写真が……私なんか一日中、道場で練習してたのに!ハンナリエルさん、酷い!』

『おや、チサトはん。部活の合宿どしたか。お疲れ様どす。次はあんさんも道連れ……いえ、お連れしますさかいに』

『こっちは団体客の対応で戦場だった。りんご飴……そんな悠長な時間はこの店には存在しなかった。ハンナリさん、次はうちのボイラー室の掃除を代わって』

『リンはん、殺気立ってますなぁ。水守の湯の繁盛、喜ばしいことどす。次はうちが背中を流しに伺いまひょか?』

『……暑い。人多すぎ。わざわざ人混みの中に自分から突っ込むとか、理解不能。いちごオレ飲んで寝るのが正解』

『イチカはん、相変わらずどすなあ。でも、あんさんの分もたこ焼きはハフハフしておきましたえ。今度、お土産のポテチを届けに伺いますわ』


 #りんご飴 #夏祭り #浴衣 #聖女の祝祭


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