第40話 土用の聖戦と『うな重』の黄金律
玄関先に置きっぱなしの旅行鞄から、干物の匂いがほのかに漂っていた。
海合宿から帰ってきてもう二日。
洗濯物はとうに片づけたが、鞄の中にはまだお土産の干物が眠ったままだった。
「んにゃ」
「こら。これはキリハラはんへのお土産どす。お前さんの分はまた別に買うたるさかい」
んにゃ丸が鞄のファスナーの隙間に鼻先を突っ込んでいる。
干物の匂いに反応して、尻尾がぱたぱたと揺れていた。
包を一つ取り出し、紙袋に詰め直した。
地元の直売所で買った鯵の干物。
合宿中、キリハラさんに「お土産何がいい?」とメッセージを送ったら、「食べ物以外ならいらない」と返ってきた。
あの人はいつもこうだ。飾り気がなくて、正直で不器用に優しい。
サンダルを引っかけて外に出ると、真夏の陽射しが容赦なく振り下ろされた。
アスファルトからの照り返しが足首を灼く。海辺の風はもうない。
***
ここは灼熱の街、日常の戦場。
海から帰還して待っていたのは、慈悲なき太陽の下での「浄化の儀式」――つまり、霊園の墓石磨きのバイト。
「……なんどすか、この苔の生命力は。もはや霊的な防衛結界の域に達してますえ」
じりじりと灼ける石畳の上。バケツの水を汲んでは、巨大な墓石にしがみついてタワシを動かす。
石に反射する日光が網膜を灼き、背中からは逃げ場のない熱気がのしかかる。
在りし日の世界では、言葉一つで死者の魂を救済できたというのに。
こちらの世界では、魂の依代にこびりついた頑固な緑の魔物一匹を駆除するのにも、これほどの肉体的苦行を強いられるとは。
「んにゃっ!」
「こら、んにゃ丸。動いたらあきまへん。そこはまだ『聖域化』が終わってへんのどす」
んにゃ丸は、墓石の陰に潜む羽虫を異界の残滓と勘違いしたらしい。
猛烈な勢いでバケツに向かってダイブし、波紋どころか津波を発生させた。
「あっ――」
ぼしゃぁぁぁッ!!
(……ひんやりして、気持ちいいどす)
頭から被った墓石用の泥水が、体温を一時的に奪ってくれる。
けれど、その涼しさは一瞬で、すぐにぬるま湯へと変わっていく。
(……あかん。このままでは、聖女の魂が蒸発してまう。今のうちに足りないのは、祈りでも癒やしでもありまへん。圧倒的な脂とエネルギー。炭水化物の奔流、そして香ばしいタレの救済……)
全身ずぶ濡れのまま空を仰いだ。
「うなぎ……うなぎを食べさせておくれやす……」
意識が朦朧とする中で呟いた願いが、何らかの精霊に届いたのだろう。
バイトを終え、濡れた服を乾かしながらふらふらと辿り着いた交番で、奇跡は起きた。
***
交番の引き戸を開けると、エアコンの風とインクの匂いが迎えてくれた。
「あら。無事に帰ってきたのね」
キリハラさんがデスクから顔を上げた。
書類の山に囲まれながらも、いつものサバサバとした表情は崩れていない。
「当然どす。聖女が引率した巡礼に事故など起こりまへんえ」
「保護者としての報告書は?」
「報告書とは?」
「冗談よ。で、無事に楽しめた?」
椅子を引いて向かいに座らせてもらう。
キリハラさんがお茶を注いでくれた。
湯呑み越しに、淡い緑色が揺れている。
「それはもう。リンはんの清掃指揮に始まり、チサトはんのスイカ割り空振りに終わり、イチカはんが……」
「いちかちゃん、大丈夫だった?あの子、夜の巡回でたまに見かけるのよ。人と一緒に過ごすの慣れてない感じでしょ」
「大丈夫も何も。キッチンを磨き上げ、スイカを一撃で割り、帰りのおにぎりまで握ってくれましたえ」
「ほう。それは意外だわ」
「意外やありまへん。あの子は最初から、ああいう子どしたんよ」
キリハラさんが、ふっと笑った。
書類仕事の合間の短い休息。
こういう時間が、自分にとっても大事な「帰ってくる場所」だった。
「はい、これ。お土産どす」
紙袋を差し出すと、キリハラさんが中を覗いて眉を上げた。
「鯵の干物……渋いわね。もっとこうオシャレなマカロンとか、そういう選択肢はなかったの?」
「キリハラはんには、マカロンよりもこっちの骨太な旨みが似合いますやろ」
「それ、絶対褒めてないでしょ」
「もちろん褒めてますえ。干物とは潮風と日差しに耐え、己を研ぎ澄ませた結晶。まさしく職務に忠実なキリハラはんの生き様そのもの——」
「いいから。黙りなさい……ありがと。明日、朝ご飯に焼くわ」
ぶっきらぼうに、でも確かに口角が上がっていた。
「ところでハンナリエル。今日、何か予定ある?」
「特には。洗濯物を畳むくらいどす」
「じゃあ付き合いなさい。もうすぐ交代だから」
キリハラさんが壁の暦を指差した。
赤い丸の中に、筆文字で「土用の丑」と書かれている。
「今日がその日?」
「そ。年に一度の、うなぎの日……ワタシの行きつけ、予約取れたのよ。一人で食べるのも味気ないし」
「うなぎ……!」
脳裏に、あの日の記憶が蘇った。
七夕の夜。かき氷の冷気に酔いしれながら、短冊に綴った決意。
そして先程まで自分を苛んでいた、灼熱の墓石と頑固な苔との死闘。
「うなぎ、食べたい」――あの時の祈りと、今日の過酷な労働。
その二つが重なり合い、いま至高の報酬を指し示している。
「もしかして、高級なお店どすか?」
「まあね。老舗のうなぎ屋。ワタシの祖母の代からの馴染みよ」
「うちの財布は聖女の威光と比例して薄いのですが……」
「奢りよ。海の保護者手当ってことで」
「キリハラはん……!その慈悲、まさに騎士の中の騎士……!」
「大げさよ。うなぎくらいで」
うなぎくらいで、とこの人は言う。
でも、そのくらいに込められた不器用な優しさを、自分はちゃんと知っている。
***
交番から徒歩で十五分。
路地裏の奥に、その店はひっそりと佇んでいた。
白い暖簾に店名らしき文字。
年季の入った引き戸を開けると、醤油が焦げる甘い匂いが一気に押し寄せてきた。
「こ、これは……」
鼻腔を直撃する、濃厚な焦がし醤油とみりんのハーモニー。
その奥に、炭火の熱と脂が溶け合った背徳的な芳香が渦巻いている。
店に足を踏み入れただけで、胃袋が戦闘態勢に入った。
「いらっしゃい。八江ちゃん、予約の二名さんね。奥の席どうぞ」
小柄な女将に案内され、磨き上げられたカウンターの奥へ。
目の前には、長年使い込まれた備長炭の焼き台が据えられていた。
赤々と輝く炭の上で、職人がうなぎを串に刺し、絶妙な距離感で返していく。
「蒸してから焼くのが、ここの流儀なの」
キリハラさんが説明してくれた。
お茶を一口啜る彼女の指先が、ほんの少しだけ震えていた。
武者震いか、それとも。
「一度蒸して余計な脂を落とし、身をふわふわにしてから炭火で仕上げる。この工程で外はパリッ、中はふわっの食感が生まれるのよ……おばあちゃん、いつもこれを『人生の縮図』だって言ってたわ」
「人生の縮図、どすか」
「一度、厳しい蒸しに耐えてこそ、最後には最高の焼き色がつくんだって。子供の頃は意味わかんなかったけどね」
「素敵な言葉どすなあ。その教えがあったからこそ、今の真っ直ぐなキリハラはんが居はるんどすな」
「……キミ、たまにそういう小っ恥ずかしいことさらっと言うよね」
「事実を言ったまでどすえ」
その一言に、不覚にも胸が詰まった。
半年以上の付き合いで、こういう何気ない「知っている」を積み重ねてくれる人。
焼き台では、タレの仕上げに入っていた。
職人が刷毛でタレを塗るたびに、ジュウッと音が立ち、白い煙が天井へと昇っていく。
二度塗り、三度塗り。うなぎの表面が、深い飴色に変わっていくのを見つめる。
「おまたせ。うな重、上」
蓋を開けた。
たっぷりの白米の上に、漆器のように艶やかなうなぎが横たわっている。
タレの照り返しが蛍光灯の光を受けて、琥珀色と深紅の間を揺れ動く。
その端から、脂とタレが混ざり合った液体がゆっくりと白米に染み込んでいく。
添えられた山椒の緑が、重厚な画面にきりりとした一筆を加えていた。
「いただきます」
箸で身を持ち上げた瞬間、ほろり、と崩れかけた。蒸しが完璧に入っている証拠。
口に運ぶ。最初に来たのは、皮のパリッとした食感だった。
炭火で仕上げられた薄い皮が、歯に触れた瞬間に軽い音を立てる。
その直後に、蒸された身が舌の上でとろけるように崩壊した。脂の甘みが口腔を満たし、追いかけるようにタレの甘辛さが重なる。
「……ん、ぅ……これは……」
声にならなかった。
脂とタレと炭火の三位一体が、口の中で完璧な調和を奏でている。
そこに白米の甘さが加わると、もう止まらない。箸が勝手に動く。
「そんな顔して食べるのキミくらいよ」
「どんな顔してますか」
「世界が救済された時の顔」
「まさにその通りどす……このうなぎ、元の世界の龍肉にも匹敵する……いや、凌駕してますえ……」
「龍肉って食べたことあるの?」
「一度だけ。でもこちらのほうが旨いどす。圧倒的に」
キリハラさんが自分のうな重に箸を入れながら、小さく笑った。
「山椒、かける?」
「いただきますえ」
緑の粉末をパラリと振りかけると、柑橘系のキリッとした辛みが、甘い脂の幕を一瞬で切り裂いた。
その刺激が、次の一口への渇望を煽る。
「キリハラはん。この店、毎年来てはるんどすか?」
「父方の祖母と一緒にね……あっちのおばあちゃんが亡くなってからは一人で来てた。一人で食べるうな重って美味しいけど、ちょっとだけ味気ないのよ」
「……」
「だから、今日はキミがいてくれて良かった」
キリハラさんは、そういうことをさらりと言う。
照れ隠しでもなく、気取りでもなく。ただ事実として。
「うちも、嬉しいどす。キリハラはんと食べる飯は、いつも格別ですさかいに」
「『かつ丼』の時から、キミは大げさなのよ」
「大げさやありまへん。あのかつ丼がなかったら、うちはこの世界で生きていけてたかどうか」
「……やめてよ。そういうこと言われると困るんだから」
湯呑みのお茶で口を湿らせてから、最後の一切れを白米と一緒に口に運んだ。
タレの染みた米の一粒一粒が、口福という名の祝福を告げている。
「ごちそうさまどした」
「はい、おそまつさま」
店を出ると、夕暮れの風が路地裏を吹き抜けた。
昼間の猛暑が嘘のように、ほんの少しだけ涼しい。
「キリハラはん」
「ん?」
「バイト代が入ったら、今度はうちがご馳走しますえ」
「期待しないで待ってるわ」
背を向けて歩き出すキリハラさんの後ろ姿を見送りながら、唇に残ったタレの甘さを舐めとった。
かつ丼に始まったこの縁が、今日もまた一皿分だけ深くなった。
七夕の短冊の祈りは、無事に届いたらしい。
***
【タイトル:[成就]土用の聖戦にて、炭火に焼かれし『うな重』の黄金律を拝受す】
『――巡礼者にはそれぞれに、長き旅路の果てに辿り着くべき「約束の地」がございます。わたくしにとってのそれは、七夕の夜に短冊へ綴った黄金の獲物――うなぎ。備長炭という名の聖火に炙られ、秘伝のタレという聖油を纏ったその身は、外界をパリリと拒絶する薄き鎧と、内に秘めたふわりと崩壊する至福の二層構造を成しております。白米という純白の祭壇の上に鎮座するその姿は、まさに食の頂点に君臨する黄金の竜。添えられた山椒が放つ緑の雷は、甘美な脂の海を一瞬で覚醒させ、次の一口への渇望を永遠に繰り返させるのです。祈りは叶いました。されど聖女の胃袋は、次なる獲物を既に見据えております――』
『おー!うな重!贅沢!警察のお姉さんってカッコいいですよね、さらっと奢ってくれるところとか!』
『あの方は、まさに「黙って背中で語る」騎士どす。不器用なくせに、ちゃんと見てくれてはるんどすよ』
『うわぁ……エルさんがそこまで言うなんて。尊い。尊すぎます』
『何が尊いのか解りまへんけど、うなぎの脂が尊いのは間違いないどす』
#うな重 #うなぎ #土用の丑 #聖女の成就
お読みいただきありがとうございます。
一区切りつけられる場所まで見えてきました。
よければお付き合いいただけると幸いです。




