第39話 暁の浜辺と『おにぎり』の帰還
夜明け前の空気は、海辺であっても冷たかった。
薄闇に包まれた別荘の天井を見上げながら、何となく眠りの浅い夜を過ごしていた。
隣の布団ではチサトさんが幸せそうに寝息を立てている。
リンさんは微動だにせず、規則正しい呼吸だけが暗がりに溶けている。
ふと、階下でかすかな音がした。
玄関の扉が、そっと開く気配。
枕元のんにゃ丸を起こさないように布団を抜け出し、階段を降りた。
玄関の外に、イチカさんがいた。
パーカーのフードを深く被り、サンダル履きのまま、コンクリートの段差に腰を下ろしている。
その視線の先には、まだ夜と朝が混ざり合った薄紫色の海が広がっていた。
「……眠れまへんか」
声をかけると、イチカさんは驚いた様子もなく、ちらりとこちらを見た。
「……ハンナリエルも?」
「なんとなく、目が覚めてしまいまして」
「……そ」
隣に腰を下ろすと、コンクリートの冷たさが太ももに伝わった。
潮の匂いに混じって、朝露の湿った草の香りがする。
虫の声がどこかで鳴っていた。
「……ねえ」
「はい」
「あーしさ。こういうの初めてなんだよね」
イチカさんの声は、いつもの刺々しさが抜け落ちていた。
フードの奥から覗く横顔が、薄明かりに淡く照らされている。
「こういうの、と言いますと?」
「……誰かと旅行するの。友達と泊まりで遊ぶの。全部」
波の音だけが、二人の間を流れた。
「昔からずっと夏休みは一人だった。親は仕事で居ないし、友達を家に呼ぶような性格でもないし。コンビニでアイス買って、部屋で音楽聴いて、それで夏が終わるの。毎年」
「……」
「でも別に、寂しいとか思ってなかった。一人のほうが気楽だし。無理に合わせなくていいし。そういうもんだって思ってた」
イチカさんが膝を抱え直した。
「千怜さんがグループに入れてくれた時、正直めんどくさかった。凛さんもなんか怖いし。でも昨日——」
言葉を探すように、視線が海面を彷徨った。
「スイカ割って、みんなに褒められて……馬鹿みたいに嬉しかった。それがなんか悔しい」
「悔しい?」
「だって、こういうのを知っちゃったら、一人に戻った時に寂しくなるじゃん」
その一言が、朝の冷たい空気の中に、小さく震えて消えた。
「……イチカはん」
「同情とか説教はいらないから」
「聞いてもろてよろしいどすか。うちがいた世界から、ここに来た時のことを」
イチカさんが、怪訝そうに首を傾けた。
「うちもね、ずっと一人でしたんよ。聖女なんて肩書き、孤独の代名詞みたいなもんどす。周りにおるのは信者と従者ばかりで『友人』と呼べる相手はおりまへんでした」
「……」
「でもこっちに来て、キリハラはんに怒鳴られて、ゴンドウはんに呆れられて、カノンはんにコーヒー淹れてもろて。チサトはんとリンはんに笑わされて、イチカはんに悪態つかれて。……気づいたら一人やのうなってました」
空の端が、ほんのりと赤みを帯び始めた。
「帰ったら寂しくなる。それは正しい。でもそれは寂しくなるほどの場所を見つけた、ということでもあるんやありまへんか」
「……」
「次がありますやろ。次も、その次も。寂しさは『また会いたい』の裏返しどす」
イチカさんはしばらく黙っていた。
フードの奥で、唇を噛んでいるのが見えた。
「……アンタさ」
「はい」
「ほんとに聖女なの?それともただのいいこと言いたいおばさん?」
「おっ……おばさん……!うちは推定──歳超やけど、見た目はピチピチの二十代相当どすえ……!」
イチカさんが、小さく吹き出した。
それは今まで聞いた中で、一番自然な笑い声だった。
「……ありがと」
「え?」
「何でもない。独り言」
水平線から、太陽が顔を出した。
オレンジ色の光が海面を走り、二人の足元まで一直線に伸びてくる。
「さて。最後の朝、何かしまひょか」
「……おにぎり、作ろうかな」
「おにぎり?」
「昨日の残りの米とか、ツナ缶とか、あったでしょ。帰りの電車で食べるやつ……あーしが作る」
「おや。それはそれは」
「べ、別に感謝とかじゃないから。残り物を処分するだけだし」
***
キッチンに立つイチカさんの手つきは、いつもより不器用だった。
んにゃ丸が足元にまとわりつく中、ボウルに残り物の白米を移し、手を水で濡らして塩を振る。
「握る時は、力を込めすぎんようにするんどすえ。ふんわりと、でも崩れへん程度に」
「……わかってる。わかってるけど、これ、なんかおかしい。手のひらにくっつくし、形が歪んでくるんだけど」
「ふふ。イチカはん、だし巻き卵を焼く時はあんなに鮮やかやったのに、おにぎりは苦手どすか」
「……あーし、道具がないとダメなのかも。ほら、フライパンなら熱伝導率とかさ、菜箸なら支点の位置とか考えればいいじゃん。でもおにぎりって、手のひらの感覚とかいう抽象的なやつでしょ?何グラムの力で何秒押せばいいのか、さっぱりわかんない」
「理屈やありまへん、心で握るんどす。赤子を包むような気持ちで」
「だから、赤子なんか包んだことないってば!……あ、また崩れた」
上手くいかずに眉間に皺を寄せるイチカさんを見て、思わず笑みがこぼれた。
論理と技術で武装した彼女が、この小さな白米の塊に翻弄されている。
そのギャップこそが、彼女の隠れた可愛らしさなのだ。
「仕方ありまへんなぁ。ほら、手をお貸しやす」
「な、なに。自分でやるって——」
「いいから。こう、包み込むように……」
イチカさんの手の上から、そっと自分の手を重ねた。
彼女の手は少し冷たくて、でも一生懸命に米を丸めようとする熱がこもっていた。
「……ん」
「どす?この『遊び』の部分が、美味しさの秘訣どすえ」
「……遊びとか、そういう曖昧な言葉嫌い。でも、なんとなく、わかったかも」
何度かやり直すうちに、ようやく形が整ってきた。
三角形とは言い難い、丸みを帯びた不揃いな塊。
でも、それは紛れもなく彼女が自分の手で結んだおにぎりだった。
具材は冒険しなかった。
ツナマヨ、梅干し、昆布の佃煮。
直売所で買った残りの海苔を巻けば、それだけで朝の別荘は磯と米の優しい香りに包まれた。
「なにこの幸せな匂い……!おはよう!あれ、いちかちゃん作ったの!?」
匂いに釣られて降りてきたチサトさんが、目を丸くしている。
「うるさい。残り物を処理してるだけ」
「朝の五時半に残り物処理する人、初めて見た!えらい!」
「処理効率は良好。おにぎりの形状にやや個体差があるが、機能的には問題ない」
リンさんの評価が、いつも通り容赦ない。
「リンはん、『美味しそう』でよろしいんやないどすか」
「……美味しそう」
「棒読みだってば、凛ちゃん!」
四人分、いや五つのおにぎり。
一つはんにゃ丸の分。小さな三角形をイチカさんがこっそり別に握っていたのを、見なかったことにしておく。
***
別荘の掃除は、到着時よりも丁寧にやった。
床を拭き、窓を磨き、布団を畳み、ゴミを一つ残らず拾い上げる。
「カノンさんに借りたんだから、借りた時よりも綺麗にして返すのが礼儀どす」
「千怜、浴室の排水口」
「えっ、あたし?……はーい」
最後の一通りを終え、四人は玄関の前に立った。
イチカさんが、ちょっと後ろ髪を引かれたように振り返った。
「……」
「イチカはん?」
「何でもない。行こ」
銀色の鍵を回して、扉を閉めた。
かちり、という小さな音が、三日間の巡礼の終わりを静かに告げた。
***
帰りの電車は、来た時よりもずっと穏やかだった。
チサトさんは窓際であくびをしているし、リンさんはメモ帳に何やら書き込んでいる。旅の記録だろうか。
「さて。イチカはんの力作を頂きまひょか」
包んだラップを広げると、不揃いなおにぎりが四つ並んでいた。
チサトさんが梅、リンさんが昆布、イチカさんは一番最後に残ったものを黙って取った。
「いただきます」
海苔がぱりりと鳴った。
歯を立てた瞬間、ふわりとほどける米粒。
塩加減は少しだけ強い。でもそれが、汗をかいた体にちょうどよかった。
ツナマヨの柔らかな脂と酸味が、白米の甘さと重なり合う。
素朴。ただひたすらに、素朴な味だった。
宮廷の晩餐にも、屋台の情熱にも似ていない。
けれど、この一口には、不器用な指先が何度もやり直した跡が刻まれている。
「美味しいよ!いちかちゃん、おにぎり上手!」
「形状に課題はあるが、塩加減は適正。握り圧も許容範囲……美味しい」
「う、うるさい。黙って食べて」
イチカさんが真っ赤な顔で窓の外を見た。
車窓を流れる景色が、海から田畑へ、田畑から街並みへと変わっていく。
三日間の聖域が、少しずつ遠ざかっていく。
「ねえ」
イチカさんが、窓を見たまま呟いた。
「……また、行きたい」
チサトさんがにんまりと笑い、リンさんが小さく頷き、最後のひと口を飲み込んだ。
「もちろんどす。次は社会人組も巻き込みまひょか」
「勘弁して。人数増えたらうるさくて仕方ないでしょ」
「いちかちゃん、あーしたちといる時点で十分うるさいよ?」
「それはそう」
四人の笑い声が、ガタンゴトンと揺れる車内に溶けていった。
指先に残っていたのは、おにぎりの海苔の磯の香り。それと、ほんの少しの塩。
三日間の巡礼は、こうして幕を閉じた。
聖域はまた静かな別荘に戻り、鍵はカノンさんの元へと帰る。
けれど、砂浜に刻んだ四人分の足跡は――波が消しても、心の中にはちゃんと残っている。
***
【タイトル:[帰還]暁の渚にて、不器用な手が結びし『おにぎり』の祝福】
『――巡礼の終わりに、最もふさわしい供物とは何でしょうか。それは豪奢な宴でも、珍しき異国の食材でもありません。ただ一杯の白米を、塩をまぶした掌で、ふんわりと結び上げること。その三角の聖体に宿るのは、「また会いたい」という祈りに他なりません。海苔という黒衣をまとった小さな塊を、揺れる車窓の中で頬張る。ほどける米粒の一つ一つに、潮風の記憶と、笑い声の残響と、「帰りたくない」と呟いた夜明けの温度が詰まっていました。巡礼者はやがて日常に帰還いたします。されど、掌に残る塩の感触が、次なる旅路への道標となるのです――』
『くふふっ。おかえりなさい、はんなりちゃん。いちかちゃんがお店に来た時、なんだか少し……表情が柔らかくなっていた気がするわ』
『おや、カノンはん。お気づきどしたか。イチカはん、帰りに「また行きたい」と。おにぎりまで握ってくれはったんどすえ』
『そう。あの子はずっと「自分の場所」を探していたから……いい旅になったみたいね。はんなりちゃん、ありがとう』
『お礼を言うのはこちらのほうどす。聖域を貸してくださったカノンはんの慈悲に、感謝を』
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