第38話 碧き戦場と『スイカ』の赤き啓示
波の音で目が覚めた。
枕元に差す光は、カーテン越しに淡い水色を帯びている。
街のアパートで浴びる朝日とは、明らかに質感が違う。
空気に溶け込んだ塩の粒子が、鼻腔と肺を一瞬で海の色に染め上げていく。
布団を畳んで一階に降りると、キッチンにはすでに人の気配があった。
「……おはよ」
イチカさんが、マグカップを両手で包みながらテーブルについていた。
寝癖だらけの脱色毛がぴょこぴょこ跳ねている。
昨夜の片づけを最後までやり遂げて真っ先に寝落ちしたはずだが、今は窓の外の海をぼんやりと眺めている。
「おや、イチカはん。夜型が朝に目覚めるとは珍しい」
「……波の音がうるさくて。別に早起きしたわけじゃない」
「ふふ。海の声に呼ばれたんどすなぁ」
「呼ばれてないって」
マグカップの中身はいちごオレだった。
旅先にまで持参しているあたり、彼女にとっての聖水は揺るぎない。
「おっはよーーー!今日は最高の海日和だよ!」
階段を駆け下りてきたチサトさんが、すでにTシャツの下に水着を着込んでいる。
寝起きでこのテンション、さすがは太陽の化身。
「千怜、朝食が先」
リンさんが最後に降りてきた。
髪をきっちりまとめ、すでに日焼け止めを塗り終えている。
準備の段取りが完璧すぎて、もはや作戦行動の域にある。
「凛ちゃん、気合い入ってるね!」
「当然。紫外線対策は出撃前の基本装備」
昨日のBBQの残り、パンと直売所で買ったトマトを切って簡単な朝食を済ませた。
食器を洗い、日焼け止めを重ね塗りし、タオルと飲み物をバッグに詰め込む。
「さあ。いざ征きまひょ」
***
別荘の裏手を抜けると、五分も歩かないうちに浜辺に出た。
朝の光を浴びた海面がキラキラと輝いている。
社会人にとって平日の朝ということもあり、人影はまばら。
聖域と呼ぶに相応しい、静かな浜辺だった。
「うわぁ……!すっごい綺麗……!」
「水質は良好。透明度も申し分ない」
「……わっ」
イチカさんの短い呟きが、潮風に混じって消えた。
サンダルを脱ぎ、裸足で砂浜に踏み出す。
朝の砂はまだ冷たくて、足裏にきめ細かい粒子がまとわりつく。
ふと、背後で凄まじい風切り音が響いた。
「左下、砂の密度よし。日照角度四十五度、海風のベクトル固定――聖域、展開どすえ!」
振り返ると、そこには砂煙を上げてパラソルとレジャーシートを固定する聖女の姿があった。
かつて地獄の階段と戦ったバイトで培われた、重心と支点の物理法則。
目にも留まらぬ速さで砂を掘り、パラソルを深々と突き刺すその動作には、一切の迷いがない。
「ハンナリエルさん……それ、パラソルじゃなくて陣地構築だよね?」
「チサトはん、何を言うてはります。これは『移動式聖堂』どすえ」
「パラソルの傾斜、完璧。日陰の面積を最大化しつつ、倒壊リスクをゼロに抑えている……恐ろしい設営能力だ」
リンさんがスマホで計測して戦慄している間も手は休まなかった。
四人の荷物を一箇所に集めると、かつて極寒の倉庫で鍛えた仕分けの極意が炸裂する。
「水、タオル、日焼け止め……重量物と頻出アイテムを分け、パレット(砂浜)の上にロジスティクスを構築完了どす」
「……アンタ、本職なの?それとも元工作員?」
「物流という名の戦場を巡礼した証どす、イチカはん」
呆気にとられるイチカさんを余所に、さらに聖女はその指先で奇跡を見せる。
かつて数千枚のチラシと格闘して得た魔術。
海辺の風にバタつくタオルを掴んだかと思うと、シュパパパンッ、と肉眼では追えない速度で折り畳んでいく。
「な、なにあれ……タオルが芸術的なキューブ体になってるし。それあーしにも教えて」
「よろしおすえ。まずは指先の水分を犠牲にする覚悟を――」
「あ、いい、やっぱりいい。アンタの覚悟、重すぎる」
最後に、浜辺全体を鋭い眼光で見渡した。
それは、数多の酔っ払いと迷子を捌いてきた警備の視座。
「海の家への最短ルート、および波打ち際への安全航路を確保しました。あちらの浮き輪の方は潮流に流されやすいので注意が必要どす。さあ、巡礼の旅を継続しまひょ」
警備員のごときキレのある動作で誘導され、三人は口を半開きにしたまま砂浜を歩き出した。
「……なんか遊びに来たはずなのに、プロのエスコートを受けてる気分なんだけど」
***
パラソルの陰で、四人はTシャツやショートパンツといった外殻を脱ぎ捨てた。
最初に飛び出したのは、もちろんチサトさんだった。
「じゃーん!どう?どう?」
鮮やかなオレンジのハイビスカス柄が、太陽の下でさらに眩しさを増している。
健康的な肌と弾けるような笑顔が、真夏のビーチに完璧に溶け込んでいた。
「映えるな。被写体としては満点だ」
「おっと、凛ちゃんから珍しくお褒めの言葉が!普段からもうちょっと褒めてよ!」
リンさんのショートパンツタイプのビキニは、機能美の塊だった。
無駄のないシルエットが、鍛えられた手足のラインを引き立てている。
「可動域は十分。水流抵抗も許容範囲」
「それ、水着の感想じゃなくてスペック表だよ、凛ちゃん……」
そして……。
「ハンナリエルさん……それ、水着?」
「ネイビーのボディスーツ。聖女の儀礼服にして鉄壁の守護形態どす」
「特殊工作員じゃん」
「潜水艦の乗組員みたい」
「首から太ももまで覆い尽くす要塞型……ある意味、最強装備」
三方向から集中砲火を浴びたが、動じない。
これが聖女の防衛本能である。
「さて、問題はイチカはんどすな」
パラソルの陰で、イチカさんがパーカーを握りしめたまま固まっていた。
黒のビスチェビキニの端が、パーカーの裾からちらりと覗いている。
「……むり。恥ずかしい」
「いちかちゃん、せっかく似合ってるのに!散々悩んで選んだじゃん!」
「悩んだのと見せるのは別!」
「いちか。パーカーを着たまま海に入ると繊維が水を吸って体温低下のリスクがある」
「凛さん、そういう問題じゃなくて……」
チサトさんがにやりと笑った。
嫌な予感がする、とイチカさんの表情が語っている。
「せーのっ!」
「ちょっ、千怜さん!やめっ——」
パーカーが一瞬で剥ぎ取られた。
マットブラックのビスチェに、ゴールドの金具が陽光を受けて鈍く光る。
レースアップの細部が、彼女の隠れた乙女心を静かに主張している。
「……やっぱ似合ってる!めっちゃカッコいいよ!」
「かっこ……え?」
「黒が映える。肌の白さとのコントラストが効いている」
「ふふ。イチカはん、夜の住人が昼の光に照らされると、こないにも美しゅうなるんどすなぁ」
「う、うるさい!全員うるさい!」
真っ赤になりながらも、パーカーを取り返そうとはしなかった。
***
「では、本日の巡礼を開始しまひょか」
波打ち際に足を踏み入れた瞬間、冷たさが足首から膝へと駆け上がった。
透き通った水面の下で、砂地に小さな魚の影が走る。
「水温、二十四度。遊泳には適温。まず基本のクロールから——」
「凛ちゃん、いきなり訓練モード!?もっとこう、バシャバシャしてキャッキャウフフ的なやつないの!?」
「生存能力の確保が先。水難事故の八割はパニックによるもの」
「もーっ、硬いこと言わないの!いちかちゃん、今だよ!凛ちゃんに反撃!」
チサトさんが浅瀬で足踏みし、盛大な水しぶきをリンさんへと飛ばした。
無駄のないフォームから繰り出された水の弾丸が、冷静沈着な指揮官の顔を直撃する。
「……やったな、千怜。これは敵対行為と見なす。迎撃を開始する」
「わわっ、凛ちゃん目がガチだよ! 助けてハンナリエルさーん!」
「ふふ、聖域での水戦どすか。よろしおす、うちも加勢しまひょ」
「アンタ、その格好でよくやるね……。あーしは、あ、ちょっ、アンタら! こっちにかけんなっての!」
イチカさんも巻き込み、海面が激しく波立った。
冷たい飛沫が踊り、真夏の空に煌めく。
聖女のボディスーツは完全防水仕様に近いが、顔に受ける飛沫までは防げない。
「イチカはん、容赦ありまへんなぁ!お返しどす!」
「あーしはただ、身を守るためにバタバタしてるだけだし!……えいっ!」
「いちかちゃん上手い!凛ちゃんの死角を突いたよ!」
「……やるな、いちか。だが、流体力学的にはこちらの角度が有利」
しばらくの喧騒の後、四人は肩で息をしながら波打ち際に座り込んだ。
全員ずぶ濡れだが、その瞳には夏の光が宿っている。
「ふーっ、遊んだー!ね、今度はあっちでビーチバレーやらない?ネット張ってあるよ!」
「ビーチバレー。砂浜という不安定な足場での跳躍は、体幹と平衡感覚の鍛錬に最適」
「凛ちゃん、全部が特訓に繋がるんだね……」
「……あーし、スポーツとか苦手なんだけど。体力ないし」
「大丈夫どすえ、イチカはん。うちも球技は門外漢ですが、みんなでやればそれもまた一つの儀式どす」
無理やりイチカさんを立たせ、コートへと移動した。
対戦形式は、チサト・リン組 vs エル・イチカ組。
「よし、行くよ!おりゃーっ!」
「甘い。弾道を予測済みどす。イチカはん、そっちに行きましたえ!」
「えっ、ちょ、あーし!?……あ、当たった!」
イチカさんの腕に当たったボールが、高く、けれど弱々しく上がった。
「ナイスレシーブどす!うちが決めてみせまひょ!」
「ちょっ、ハンナリエルさん、それサッカーのヘディング——」
——ぼふっ。
勢いよく飛び込んだが、ボールは頭をかすめて砂浜に落ちた。
「……判定、アウト。ハンナリさん、腕以外は禁止。あと空中での姿勢制御に課題あり」
「ぐぬぬ、やはりボディスーツが重かったんどすか……」
「アンタの運動神経の問題でしょ……」
「もう一回!今度は私がいちかちゃんと組む!」
「千怜とは連携が取れない。あたしがいちかと組むのが合理的」
「ええーっ、あーし、どっちでもいいんだけど」
そんな勝手な言い合いをしながら、ボールを追いかけて砂浜を駆け回った。
イチカさんは文句を言いながらも、飛んできたボールには必死に食らいついている。
気づけば、彼女の肌には健康的な汗が光り、表情から鋭さが消えていた。
***
午後になり、日差しが真上に差す頃、パラソルの下に四人は集結した。
「さて、ここからが本番どす」
直売所で仕入れておいた、巨大なスイカを砂浜に鎮座させる。
深緑の縞模様が太陽の下でつやつやと光っている。
指で弾くと、張りのある乾いた音が返ってきた。これは当たりだ。
んにゃ丸がスイカの周りを不可解そうにぐるぐると回り、「んにゃ?」と首を傾げた。
この巨大な果実が「贄」であることを理解したのかもしれまへん。
「スイカ割り!やるやる!やっぱ海と言えばこれだよね!」
「ルールの確認を。目隠しをした状態で外部からの音声指示のみで標的に接近し、棒状の武器で打撃を加える競技」
「凛ちゃん……説明がものものしすぎない?」
「事実を述べたまで」
流木を一本拾い、タオルで目を覆う。最初の挑戦者はチサトさんだった。
「よーし、私が一発で割ってみせるよ!」
「右!もっと右!」
「千怜、右に行きすぎ。修正。左に三十度」
「凛ちゃん、角度で言われても分かんないって!」
「もうちょっと前!いや、あーしに聞かないで、あーしも分かんない」
——ぶんっ。
流木が空を切った。スイカの二十センチ右の砂浜に、盛大な音を立てて突き刺さる。
「惜しい!超惜しい!」
「精度に課題あり。次」
二番手のリンさんは、目隠し状態でも歩幅で距離を計算し、ほぼ正確にスイカの前に立った。
「距離、推定一点二メートル。振り下ろす」
——ごっ。
流木がスイカの端をかすめ、薄い亀裂が走った。
「微修正が必要だった。打点が二センチ右にずれた」
「ほぼ当たってるのに反省してるのが怖い……」
三番手、ハンナリエル。
「うちの番どすな。さあ、太陽の子よ。観念おしやす」
「ハンナリエルさん、スイカに話しかけないで」
目隠しの闇の中、耳を澄ませた。
波の音、風の方向。砂を踏む感触。
エルフの五感が研ぎ澄まされていく――。
「左!左どすか?右?」
「右です!あとちょっと前!」
「ハンナリさん、足元に注意。砂に足を取られる」
「壮大な前フリは一体何だったのさ?」
——すぱんっ!
手応えがあった。
だが、斬れたのはスイカではなく、スイカの隣に置いていたビニール袋だった。
「……惜しい、のか?」
「全然惜しくないどす……」
最後はイチカさんの番だった。
「あーし、こういうのやったことないんだけど」
「大丈夫大丈夫!私たちが誘導するから!」
「千怜さんの誘導が一番信用できないんだけど……」
目隠しをして、流木を構える。
その姿勢が、妙に様になっていた。
重心が低く、構えに無駄がない。
「まっすぐ、三歩。そこで止まって」
リンさんの簡潔な指示に従い、イチカさんが静かに三歩を刻む。
「そこ。真下」
イチカさんが、大きく振りかぶった。
——ばきんっ!
流木がスイカの真ん中を正確に捉え、赤い果肉が砕け散った。
鮮やかな赤と黒い種が、白い砂浜に飛び散る。
甘い香りが、一瞬で四人を包み込んだ。
「割れたぁーーー!すっごーい!いちかちゃん一発じゃん!」
「見事。完璧な打撃精度」
「おお。お見事どす、イチカはん。一撃必殺の才がありますなぁ」
目隠しを外したイチカさんの目が、砕けたスイカと三人の笑顔を交互に見た。
「……え。マジで割れた?」
「割れた割れた! 天才だよ天才!」
「……ふ、ふーん。まあ、やればできるし」
口元が、微かに緩んでいた。
***
砕けたスイカを大きな塊に分け、海水で冷やしてから頬張る。
断面の赤が、昼の太陽を透かしてルビーのように輝いた。
歯を立てると、しゃりっ、と繊維が崩れる音。
同時に、冷たい果汁が口の中いっぱいに溢れ出した。
甘い。どこまでも甘い。だが、海水で微かに纏った塩気が、その甘さの輪郭を鋭く際立たせている。
「んんっ……!これは……太陽が注ぎ込んだ甘露どす……」
「美味しいーっ!止まらない!種飛ばし競争しよう!」
「距離を測定する。基準ラインを設定して」
「凛さん、なんでそんなクソ真面目なキャラに……」
ぷっ、と種を海に向かって飛ばすチサトさん。
リンさんが目測で飛距離を計算している。
イチカさんは種を丁寧に取り除いてから、小さく一口ずつ食べていた。
「イチカはん、種ごとかぶりつくのも醍醐味どすえ」
「やだ。行儀悪い」
「海では行儀なんぞ波に流すものどす」
「……じゃあ、一回だけ」
がぶり。
果汁が顎を伝い、砂浜に滴り落ちた。
イチカさんが慌てて手の甲で拭う。
「……美味しい」
「どすやろ?」
「うん……認める」
二切れ目に手を伸ばしたイチカさんを見なかったことにしておく。
陽が傾き始めた頃、四人は砂浜に並んで座っていた。
スイカの皮だけが、砂の上に転がっている。
波が寄せては返すその単調なリズムが、不思議と心地よかった。
「明日、もう帰るんだよね」
「そうだね……あっという間だなぁ」
「……帰りたくない、とかじゃないけど。もう一日くらいあってもいいかなって」
イチカさんがぽつりと呟いた言葉に、三人は何も答えなかった。
ただ、波の音だけが、その余韻を穏やかに包んでいた。
「さ。最後の夜、盛大に過ごしまひょか。夕飯の買い出しに行きますえ」
立ち上がり、砂を払った。
スイカの種がサンダルの裏にくっついていた。
それすらも今日という日の勲章に思えた。
***
【タイトル:[啓示]碧き聖域にて、太陽神の宝珠『スイカ』が告げる真夏の福音】
『――聖典にはこう記されております。「真の試練は灼熱の中にあり、真の報酬は赤き中に眠る」と。深緑の鎧に守られた太陽の宝珠を、流木の聖槌で打ち砕く刹那――あふれ出す赤き果汁は、まさに大地が蓄えし甘露に他なりません。海辺に弾け散る種は次なる実りの約束であり、波に洗われた塩が果肉の甘さを極限まで研ぎ澄ませる。この一切れに込められた夏の恩寵は、どれほど壮麗な晩餐をも凌駕するものでした。潮風に溶ける笑い声と、砂に描かれた足跡。それこそが、巡礼者に与えられた最良の祝福に他なりません――』
『スイカ割りしたいー!エルさん、次はアタシにもやらせてくださいよー!絶対一発で割れますから!』
『アスカはんのパワーやと、スイカどころか地面ごと割りそうで怖いどすなぁ』
『ひどい!でもちょっと自信ある!あはは!』
#スイカ #スイカ割り #海 #聖女の夏休み




