第37話 潮風の聖域と『焼きとうもろこし』の凱旋
窓の外を、青が駆け抜けていった。
田畑の緑が徐々に後退し、代わりに空と溶け合うような水平線が車窓いっぱいに広がる。
冷房に守られた車内と、ガラスの向こうに揺れる陽炎。その隔たりの薄さを、こめかみを伝う微かな汗が教えてくれる。
「きゃーっ!海だ海だ海!見て見て、凛ちゃん! あれ、絶対シャチだよ!」
「千怜。あれはただの消波ブロック。それにシャッター音が鳴り響いている。周囲への配慮を」
「あ、ごめんごめん。でも見てよこの景色!太陽が反射してキラキラしてて、まるで宝石箱をひっくり返したみたい!あ、今の表現、聖女っぽくない!?ハンナリエルさん、今のメモして!」
「宝石箱どすか。表現としては古典的ですが、チサトはんの熱量があればこそ響くもんがありますなぁ」
「でしょでしょ!あ、また大きな波が来た!全員に送るから、既読スルー禁止だよ!」
リンさんは小さく息を吐いてから、膝の上に広げたメモ帳を畳んだ。
あのメモ帳には、到着後のスケジュールが分刻みで書き込まれていたらしい。
聖女の巡礼は直感と食欲で進むものだが、リンさんの几帳面さは別の意味で頼もしい。
「……ねえ。あとどのくらい?」
通路を挟んだ向かいの席で、イチカさんがイヤホンの片方を外した。
窓の外を見ているようで、どこか落ち着かない様子。
昨夜のグループチャットでは「別に楽しみとかじゃないから」と送ってきていたが、目の下にうっすらと浮かぶクマがその反論を静かに退けている。
「あと二駅どす。イチカはん、もしかしてあんまり眠れまへんでしたか?」
「……うるさい。夜型なだけ。別に、準備で三回も荷物詰め直したとかじゃないし」
「わはは!いちかちゃん、素直じゃないなぁ!ほら見てよ、その荷物のパンパン具合!浮き輪とか予備の水着とか、絶対入れすぎだよ!」
「してない!これは全部、生存に必要な最小限の装備!千怜さんこそ、そのデカいの何!?お菓子しか入ってないじゃん!」
足元に置かれた大きめのボストンバッグが、必要最低限という主張を盛大に裏切っている。
リンさんだけは小さなリュック一つで完結していたのが、いかにも彼女らしい。
んにゃ丸がリュックの中でもぞもぞと身じろぎした。
車内では目立たないよう、ファスナーの隙間から鼻先だけを覗かせている。
街中では「奇妙なぬいぐるみ」で通用するが、電車の中で液晶の瞳を光らせるのは流石にまずい。
「んにゃ……」
「しっ。もう少しの辛抱どす。海に着いたら思う存分走り回ったらよろしおす」
やがて車内アナウンスが目的の駅名を告げ、四人は席を立った。
***
改札を抜けた瞬間、潮の匂いが鼻腔を突いた。
冷房に慣れきった肌に、むっとした熱気と湿った風が絡みつく。
けれど、その質感は都会のアスファルトが吐き出す猛毒の熱気とは明らかに違った。
海が近い。磯の気配が空気そのものに溶けている。
「うわぁ……暑いけど、なんか違うね。風が気持ちいい!」
「潮風の塩分濃度は発汗を促す。水分をこまめに摂って」
駅から徒歩十分ほど。
カノンさんから預かった地図アプリの案内に従って坂道を上っていくと、小さな一軒家が見えてきた。
白い漆喰の壁に潮風で少しだけ色褪せた木の扉。
庭先には雑草が好き放題に伸び、ツタが壁を這い始めている。
「……ここ?」
「カノンはんのお別荘どすな。なかなかの風格……いや、控えめに言って荒廃してはりまんなぁ」
「くっ……廃墟探索!?ホラーゲームの導入部みたい!ワクワクするね!」
「千怜のメンタルは参考にならない。カビの胞子が飛散している可能性大。マスク推奨」
「……あーし、帰っていい?呪われそうなんだけど」
「イチカはん、大丈夫どすえ。うちがいれば悪霊も退散しまひょ。さあ、開けますえ」
鍵穴に銀色の鍵を差し込み、少し錆びた手応えを感じながら回す。
扉が開いた瞬間、こもった空気がどっと押し寄せてきた。
埃の粒子が、差し込んだ陽射しの中でキラキラと舞い踊る。
それは美しくもあったが、鼻の奥をくすぐる埃の匂いが現実を容赦なく突きつけてきた。
「んにゃっ……んにゃにゃあ……」
「くしゅんっ!」
「……掃除が必要。想定通り」
リンさんは表情一つ変えず、リュックからエプロンを取り出した。
折り目の正しい、使い込まれたそれは銭湯で見慣れた戦闘装備。
彼女の目が、静かに光っている。
「凛ちゃん、手慣れてるね……」
チサトさんがイチカさんに耳打ちしたのが聞こえたが、リンさんには耳に入っていない様子だ。
正確には、目の前の敵(埃)に集中しすぎて周囲の雑音がシャットアウトされている。
「まず全部の窓を開ける。換気が最優先。それから天井、壁、床の順に上から攻める。重力の法則に従えばこれが最短経路。いちか、あんたはキッチンの水回りを。千怜は庭の草むしり。ハンナリさんは……」
「お呼びどすか、清掃指揮官殿。頼もしいことですなぁ」
「当然。汚れは上から下に落ちる。物理法則を無視した掃除に意味はない。ハンナリさんは二階の掃き掃除を。あそこは一番埃が溜まっている」
雑巾、バケツ、洗剤。
カノンさんが事前に送ってくれていた段ボール箱の中に、掃除道具一式が詰め込まれていた。
さすが店長、準備が行き届いている。
「よーし!じゃあ私、窓開け係やるね!」
チサトさんが一階の奥へと駆け出す。
次々と窓が開け放たれるたびに、家の中を潮風が吹き抜け、埃を追い払ってゆく。
「リンはん、うちは二階をやりまひょか」
「任せる。ハンナリさんの清掃能力は信頼に値する」
「ふふ。聖域を清める力は銭湯で鍛えさせてもろたさかいに」
階段を上がって小部屋に入ると、窓際に積もった綿埃が白い山脈を形成していた。
雑巾を絞り、一拭き。
本来なら浄化魔法で一瞬だが、ここは現代日本。地道な労働こそが美しい巡礼の姿だ。
……とは言え、これほどの面積をまともに相手にしては日が暮れてしまう。
階下の気配を探る。リンさんは一階、チサトさんは庭。イチカさんはキッチンの掃除に集中しているようだ。
誰も見ていないことを確信し、そっと空いた手を壁にかざす。
指先から微かな魔力が波紋のように広がり、部屋の隅に溜まっていた頑固な埃を塵一つ残さず分解していった。
あとは軽く雑巾を滑らせれば、まるで新築のような輝きを取り戻す。
ふと階下から、水の音が聞こえてきた。
「……イチカはん?」
キッチンを覗くと、イチカさんが黙々とシンクを磨いていた。
蛇口の水垢を道具で丁寧に削り、排水口のゴムパッキンまで外して洗い上げている。
その手つきは、明らかに慣れた人間のそれだった。
「イチカはん、随分と手慣れてますなぁ」
「……別に。家のキッチン、いつも自分で掃除してるだけだし」
それは「几帳面」というよりも、たった一人の生活の中で身についた、静かな習慣のようだった。
「あーしに変な同情とかしないでよ。慣れてるだけだから」
「同情やありまへん。純粋に感嘆しとるんどす。その水回りの仕上げ、リンはんも唸るレベルどす」
「……マジで?」
「嘘は聖女の沽券に関わりますえ」
イチカさんの耳がほんのり赤くなったのを、見なかったことにしておく。
一時間ほどの格闘の末、別荘は見違えるような姿に生まれ変わった。
フローリングは素足で歩けるほど清潔になり、窓ガラスは午後の光を透き通す鏡へと還った。
開け放った窓から入る潮風が、洗剤の残り香を洗い流していく。
んにゃ丸が「んにゃ~」と満足げに声を上げ、ピカピカになった床を滑るように走り回った。
「終わったぁ……!私たち最強じゃない?」
「まあまあの仕上がり。キッチンは特に良い。いちか、やるね」
「……別に」
イチカさんが、褒められ慣れていない表情で目を逸らした。
***
「さて、労働の後には報酬が必要どす。買い出しに参りまひょか」
駅前の通りを抜けた先に、地元の直売所が小さな看板を出していた。
木の棚に並ぶのは、朝採れの夏野菜。トマト、茄子、きゅうり。
そして、ひときわ存在感を放つ、皮つきの――。
「とうもろこし……!」
目が合った。
正確には、葉に包まれたその姿は何の変哲もないただの農作物である。
だが、聖女の直感が告げている。この黄金の杖には、灼熱の大地が育んだ太陽の慈悲が封じ込められていると。
「ハンナリエルさん、目がヤバい。完全にロックオンしてる」
「とうもろこし、炭火で焼くと美味しいんだよね。BBQコンロ、庭にあったし」
「焼きとうもろこし。熱量と糖度の比率が炭火加熱で最大化される。合理的な選択」
「……ていうか、あーしは何でもいい。お腹減った」
とうもろこしを六本。
それに加えて、地魚の干物、エビ、ピーマン。そしてタレ用の醤油とバターを手に入れた。
別荘の庭に据えられたBBQコンロは年季が入っているが、頑丈な作りだった。
「炭起こしは任せて!うちわで扇ぐの得意だから!」
「千怜。うちわの角度が非効率。酸素供給の動線を意識して」
「凛ちゃんってば、キャンプ部の人みたい……」
チサトさんが必死にうちわを扇ぎ、リンさんが火の具合を見極める。
イチカさんと共に、とうもろこしの皮を剥いていた。
んにゃ丸が足元で剥かれた皮を獲物のように追いかけては、イチカはんに「邪魔」と軽くあしらわれている。
「イチカはん、これ剥きすぎどす。皮は最後の一枚だけ残しとくなはれ。蒸し焼きにすることで甘さが逃げまへん。いわば天然のホイル焼きどすなぁ」
「……へえ。あーし、こういうの知らなかった。いつもコンビニにあるやつ買ってたし」
「野営の知恵は世界共通どすえ。元の世界でも篝火で焼いたものは格別でしたなあ。魔物の肉と一緒に焼くのが通どした」
「魔物の肉って……ま、いいけど。アンタ、その設定だけは絶対ブレないよね」
「設定やのうて事実どすえ。チサトはん、そっちはどないどす?」
「暑いー!でも見て!火がパチパチしててかっこいい!原始の力を感じるよー!」
「千怜、風向きを考えて。あたしの方に火の粉が来ている。それと、その扇ぎ方は酸素の供給が過剰。炭が早く燃え尽きる」
「ぐぬぬ……凛ちゃん、厳しいよぉ!」
「焼き上がりの品質は火力の制御、すなわち情熱の制御。焦ってはなりまへん」
焦げた外皮を剥がすと、蒸気の奥から、ふっくらと膨らんだ黄金の粒が姿を現した。
刷毛で醤油を塗る。その瞬間、甘い焦げた匂いが風に乗って庭先に広がった。
「いい匂い……!もう食べていい?」
「もう少し。醤油がカラメル化するまで待つのが最適解」
「リンはん、正解どす。この一瞬を焦ってはなりまへん」
醤油が炭火に滴り落ち、白い煙が立ち昇る。
甘さと香ばしさが絡み合ったその煙は、聖堂に焚かれた香のように四人の頭上を包み込んだ。
「よし。完成どす」
串を握り、歯を立てた。
ぷちん。
一粒一粒がパチパチと弾け、甘い果汁が舌の上で爆ぜる。
焦げた醤油の塩気が追いかけてきて、とうもろこしの糖度を底上げする。
そして最後に、バターの濃厚なコクが全体を柔らかく包み込んだ。
「んんっ……!こ、これは……!」
「美味しいっ!すっごい甘い!そして醤油のパリパリがたまらない!」
チサトさんが端から豪快にかぶりつく。
頬に醤油のタレがべったりついているが、まるで気にしていない。
「一列ずつ食べたほうが、粒の残存率を均等に保てる」
リンさんは宣言通り、下段から一列ずつ正確に食べ進めている。
その姿は、まるで収穫ロボットの如き精密さだった。
「二人とも食べ方にクセ強すぎ……普通に食べなよ」
イチカさんがそう言いながら、軸を両手で持って小さく齧った。
一口目。瞳が、わずかに見開かれた。
「……甘っ」
「どすやろ?」
「……うん。美味しい。認める」
その短い言葉に含まれた、照れ隠しとも素直さともつかない温度。
四人分の笑い声が、潮風に溶けて海へと流れていった。
エビが殻ごとパチパチと弾け、干物がじわじわと脂を滲ませ、ピーマンが甘い水蒸気を上げる。
どれもこれも、炭火の魔法が施した贄のように輝いていた。
んにゃ丸が身を乗り出して匂いを嗅いでいる。
リンさんが「熱い。離れて」と言いつつ、小さく千切ったとうもろこしの粒をそっと差し出すと、それは一瞬でんにゃ丸の口の中に消えた。
「ねえねえ、二本目いっちゃう?」
「あたしも、もう一本」
「あーしも……いや、別にそんなに食べたいわけじゃないけど、残すのもったいないし」
「正直でよろしいどす、イチカはん」
「うるさい」
そう言いつつも二本目、三本目と手を伸ばしたとき、気がついた。
空が赤く染まり始めていた。
庭先の柵の向こうに、水平線がオレンジ色のグラデーションを描いている。
波の音が、風に乗って穏やかに届く。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、四人の視線が静かに海へと向いた。
「……綺麗」
「明日、あそこで泳ぐんだよね」
「天気予報は晴れ。水温もデータ上、適温の範囲内」
「なんか……実感してきた。あーしたち、ほんとに海に来たんだ」
「さあ。明日に備えて片づけまひょか。炭の始末と、食器洗いと……」
「あたしがやる。キッチンはさっき磨いたばかりだから」
イチカさんが、真っ先に皿を重ね始めた。
夕焼けに照らされたその背中を見ながら、んにゃ丸の頭を撫でた。
明日は、この子も一緒に海を駆け回ればよい。
潮風の聖域、一日目の巡礼はこうして幕を閉じた。
片づけた炭の匂いが指先に残っていた。醤油と、バターと、太陽の味。
***
【タイトル:[巡礼]潮風の聖域にて、太陽神の黄金杖『焼きとうもろこし』が授ける凱旋の歓び】
『――巡礼とは、ただ遠くの聖地を目指すことではありません。まず足元の穢れを祓い、汗を流し、自らの手で聖域を創り上げる。その労苦の先にこそ、真の報酬は姿を現すのです。太陽が大地に埋め込んだ黄金の杖――とうもろこし。炭火という原初の炎に捧げられたその身は、一粒一粒が小さな太陽へと変わります。醤油の聖油がその表面を琥珀色に染め上げ、歯を立てた瞬間に弾ける甘美な果汁は、労働者への最上の祝福に他なりません。バターという名の黄金の霧が、舌の上で夏そのものを溶かしてゆく。潮風に吹かれながら齧りつくその一本は、どんな宮廷料理にも劣らぬ、大地と太陽と海の三位一体の賜物でした――』
『うわぁ……!BBQ!焼きとうもろこし!エルさん、最高すぎます!この写真、匂いまで伝わってくる!』
『ふふ。アスカはん、次の巡礼にはぜひご一緒しとうおすなぁ』
『約束ですよ約束!アタシ、とうもろこし十本はいけます!』
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