第34話 灼熱の業火と『夏野菜カレー』の洗礼
夏。それは、太陽神が全盛を振るい、地上を灼熱の試練に曝す過酷な季節。
アスファルトが陽炎に揺れ、セミたちの狂騒的な鳴き声が、人々の正気を削り取ってゆく。
「あ、暑いどすなあ。んにゃ丸、あんさんも干からびてやしませんかえ……」
アパート『ことほぎ荘』の自室。
古ぼけた扇風機の申し訳程度の微風を浴びながら、フローリングの上でなまこのように横たわっていた。
元の世界では、氷結の魔法を持つ賢者を祭壇に座らせ、国全体を冷やす「冷涼の儀式」があったものだが。
この地には魔法こそないものの、文明の利器であるエアコンがあるはず……なのだが、この部屋には見当たらない。
「くっ、大家はんの慈悲が、うちの家賃では足りなかったんどすなあ」
部屋にあるのは、この年代物の扇風機のみ。
首を振るたびに「ギギッ……」という断末魔のような呻き声を上げる器械を見つめ、静かに瞑目した。
このまま溶けて、床と一体化してしまいそうになった、その時。
──バンッ!
玄関の扉が、何者かの暴虐な一撃によって蹴り開けられた。
「……ッ、不敬な!聖域の守護結界を無視して踏み込むとは!?」
「んにゃにゃー!」
「……あら、キリハラはん?」
勢いよく跳ね起きたこちらの前に立っていたのは魔王ではなく、さらに厄介な「門番」だった。
そこには警察の制服をはだけさせ、ネクタイを緩め、髪を振り乱した桐原八江が立っていた。
んにゃ丸もその尋常ならざる気迫に圧倒されたのか、背後に隠れて震えながら瞳を点滅させている。
普段は職務に忠実で凛々しい彼女だが、今はその面影すらない。
シャツの間に健康的な肌へ滴る汗が、その造形をいやおうなく際立たせていたが、今の彼女にはそんな色香を気にする余裕など微塵もないようだ。
その瞳には暗い炎が宿り、額からは滝のような汗が流れている。
手には何やら見覚えのない小瓶が詰まったバッグを、呪いの魔導書でも握りしめるような執念で提げていた。
「……ハンナリエル。悪いけど、今すぐこれを使わせなさい」
「これとは?キリハラはん、あんさんのそのお顔、まるで地獄の最下層で酔っ払いと三日三晩殴り合ってきた騎士のような形相どすえ。正気もへったくれもありまへんなあ」
「んにゃん、んにゃ~」
「ほら、んにゃ丸も『不法侵入だ』と呆れてはりますえ」
「こちとら管内で酔っ払いの喧嘩は起きるわ、やんちゃなツーリングクラブが深夜から騒ぐわ、挙句の果てに迷子のインコまで保護しろって……もう限界。ワタシの理性の堤防は、決壊したわ。今のワタシに法と秩序を説く奴がいたら、そいつをスパイスの海に沈めてやるわよ!」
キリハラさんはズカズカと部屋に入り込むと、台所のコンロの前に鎮座した。
その一挙手一投足に、周囲の空気を歪ませるような負のオーラが渦巻いている。
「あ、あんさん、本当に理性がログアウトしてはりますなあ……それで、その袋の中身は何どす?毒薬の調合でも始めはるん?」
「違うわよ。これは『スパイス』。ワタシがコツコツ手に入れた、選りすぐりのスパイスたちよ」
「スパイス……?待つどす。キリハラはん、あんさんのその『やる気』、この炎天下で火を使うつもりどすか?自殺志願者か、さもなくば灼熱の求道者どすな」
「あったりまえじゃない!暑い時こそ、熱いものを。脳を灼き、魂を灰にするほどの劇薬の刺激で、このドロドロとしたストレスを全て蒸発させてやるのよ!さあ、冷房のないこの部屋をさらに熱い調理場に変えてやるわ!」
まさに暴君の宣告だった。
彼女の異常なまでの気迫に押され、大家のゴンドウさんから「余りもんだ、食え」と渡されていた大量の夏野菜を差し出す他ない。
んにゃ丸も、諦めたように「んにゃ~……」と力なく鳴き、隠れながら調理の様子を窺っている。
艶やかな紫の茄子、鮮やかな翠のズッキーニ、太陽の血のような赤いトマト。
「流石、大家さんは良い仕事するわね。これなら最高の『贄』になるわ。ハンナリエル、キミはタマネギ。いい?一寸の狂いもなくみじん切りにするのよ」
「うちが助手どすか!?聖女に玉ねぎの皮剥きをさせるとは、あんさんは本当に罰当たりどすなあ……あな恐ろしや、ストレスは人をここまで鬼神に変えますか」
「いいから切りなさい!涙が出てきたら、それはストレスが浄化されてる証拠よ!」
「理屈が滅茶苦茶どすえ……」
こうしてことほぎ荘の一室は、灼熱の調理場へと変貌した。
キリハラさんの手つきは、警察官というより爆発物の処理班か、禁断の秘薬を作る魔女のようだった。
立ち込める鼻を突き抜けるような、けれどどこか知性を揺さぶるエキゾチックな強い香り。
「んにゃっ!んにゃにゃー!」
「……ッ、ゲホッ……キリハラはん、この香りは何どす!?肺が、肺が焼けるようですわ!これ、公務執行妨害で訴えられまへんか?」
「裁判官ごとカレーの海に沈めれば解決よ。それよりタマネギ!飴色になるまで炒めなさいって言ってるでしょ!手が止まってるわよ!」
「はいはい、承知いたしやした!いやはや、今日のキリハラはんは、いつもの三倍は沸点が低うおやすなあ。あんさんの気迫に押されて包丁が震えておりやすえ」
「いい傾向ね!武者震いと思いなさい!」
文句を言いながらも、包丁を振るった。
玉ねぎから溢れる涙の成分が、暑さと油の熱気と混ざり合い、視界を歪ませる。
その横でキリハラさんは、慎重かつ大胆にスパイスを配合していた。
この時点では、まだ食欲をそそる範疇の香りが漂っているが、彼女の横顔には「これだけでは足りない」という飢餓感が微かに滲んでいた。
「……ふふ、いい香り。でも、もっとこう脳味噌が沸騰するような刺激が……」
「キリハラはん、それ以上はやめときなはれ。あんさんの脳が沸騰する前に、うちのキッチンが爆発しそうどす」
「んにゃん、んにゃ~ん(これ以上はキケンだよ、主に胃袋が)」
そんなやり取りを交わしながら、茄子、ズッキーニ、トマト、夏野菜たちがスパイスの海に放り込まれ、グツグツと音を立て始める。
野菜の水分と旨味が凝縮され、キッチンには「これぞカレー」という重厚な芳香が満ちていった。
狭いキッチンに立ち込める、凶暴なまでの熱気。
扇風機はもはや、熱風をかき混ぜるだけの呪いの機械へと成り下がっていた。
***
「……地獄の釜が開いたわ。ハンナリエル、キミも覚悟しなさい。これがワタシの『正義』よ」
「んにゃにゃっ……!(ドクロのマークだっ)」
キリハラさんは皿に盛り付けられたカレーを前に、レジ袋から「禁断の小瓶」を二つ同時に取り出した。
ラベルにはドクロのマークが、警告という名の祝祭を告げるように描かれている。
「キリハラはん。その小瓶二刀流は流石に見過ごせまへんえ。それはもしや禁忌の魔導具どすか?」
「よく分かってるじゃない。これは激辛スパイスの純粋な抽出粉末よ……いい?ワタシは今、自分を壊して再構築したいの。邪魔する奴はこのスパイスで視神経を焼くわよ」
「んにゃん、んにゃにゃ!(主さま、あのお姉さん、目がマジだよ!)」
その言葉は、もはや冗談とは思えないほどの狂気を帯びていた。
彼女は容赦なく、自らの皿にその赤い粉を雪のように……いや、血の雨のように降らせた。
彩り鮮やかだった夏野菜カレーは一瞬にして、目に染みるような痛烈な刺激臭を放つ「毒の沼」へと変貌する。
「……」
自らの皿に盛られた「標準的」な、けれど十分に美味しそうなカレーを生存本能に従って一口運んだ。
「──ッ、美味しい……っ!救済はここにありましたわ!」
「んにゃにゃ~ん!」
夏野菜の滋味が、絶妙に配合されたスパイスによって極限まで引き立てられている。
油を吸ってとろける茄子の官能的なまでの甘み。ズッキーニの瑞々しい、けれど芯のある食感。
それらが舌の上で完璧なる調和を奏で始めた。
一方、目の前の「狂戦士」は。
「──ッ、グ、ァ……ッ!お、おおお……っ!」
一口食べた瞬間、キリハラさんの身体が落雷に打たれたようにビクンと跳ね上がった。
痛覚。
もはや味覚の領分を完全に超越した、絶対的な暴力。
額からは、これまでの人生で見たこともないような大きさの汗の粒が溢れ出し、彼女の肌は瞬く間に熟したトマトのように赤く染まってゆく。
「……ッ、は、はふぅ……っ!キリハラはん、それはもはや毒どすえ!胃袋を暗殺してどうしはるんどす!?」
「いいの……これでいいのよ……っ。……見て、ワタシの汗。ストレスが蒸発して脱走していくわ。ハ、ハハ……っ、勝った、ワタシは勝ったのよ、怒鳴り散らすオッサンから、深夜の暴走族、インコにも!」
「んにゃっ、んにゃにゃん!(お姉さん、なんか変なものと戦って勝ってるよ!)」
キリハラさんは涙目になり、文字通り鼻水まで滴らせそうな勢いで、狂ったように激辛カレーを口に運び続けていた。
その表情は凄惨でありながら、全ての煩悩から解き放たれた聖者のような、奇妙なまでの晴れ晴れしさを湛えている。
「あー……っ、辛い!痛い!脳が焼ける!でも……最高に旨い!これぞ生の実感、ワタシは今、生きてるわ!」
「……ええ、生きてはりますなあ。死の淵を全力で全走してはるようどす。あんさんの胃が明日も無事に公務をこなせることを祈るばかりどす」
「心配するなら、水を汲んできなさいよ!蛇口から直接でもいいわ!」
自らの皿の豊かな旨みを噛み締めつつ、目の前で業火に身を投じる友人を、畏敬の念、あるいは若干の引き気味な視線で見守った。
最後にコップ一杯の水を一気に飲み干した時、キリハラさんは精根尽き果てたように背もたれに身体を預けた。
「……生き返ったわ。ありがと、ハンナリエル。キミの部屋、エアコンなしで死にそうだけど、このカレーを完食した後なら、外の風が高原のそよ風に感じるわね」
「あんさんは本当にはた迷惑な騎士どすなあ。うちの胃袋は今、火竜の幼子が住み着いたようどす。さあ、満足したんなら、その『はだけた理性』を直しなはれ。お巡りさんがそんな格好で帰ったら、それこそ騒動どすえ」
「んにゃん、んにゃあら!(主さまの言う通りだよ!服を直しなよ!)」
「……う。流石にこのまま帰るのはマズいわね。家に戻る前に……ねえ、ハンナリエル。シャワー借りていい?」
「はあ、やっぱりそうなりはりますか。うちの質素な洗い場で良ければ勝手に使いなはれ。ですが着替えはどうしはるんどす?その汗だくの制服をまた着るつもりどすか?」
「……何か貸して。Tシャツとかでいいから」
図々しいお願いに溜息をつきつつ、予備として買っておいたTシャツと運動用のショートパンツを引っ張り出してきた。
「はいな、これで我慢しておくれやす。うちの普段着が、お巡りさんの肌に合うかは分かりまへんけど」
「贅沢は言わないってば」
キリハラさんはそれを受け取ると、ふらつく足取りで脱衣所へと消えていった。
しばらくして水音が止み、湯気と共に彼女が戻ってきた。
「……ハンナリエル」
「おや。どないしはりました、キリハラはん」
戻ってきた彼女を見て、思わず吹き出しそうになり……次の瞬間には、己の唇をぎりりと噛みしめていた。んにゃ丸も、瞳を丸くして固まっている。
制服の時とは打って変わって、胸元にパチモンの文字が躍るTシャツ姿。
曲線美ががショートパンツから伸びているが、その「オフの日の女子」然とした姿は、先程までの鬼神のような気迫とのギャップが凄まじい。
……のだが、問題はそこではない。
着れば「ゆったりとした部屋着」になるはずのTシャツが、彼女の身体の上では、まるで計算違いのタイトな防具のように張り詰めていた。
特に胸元のロゴは、別の意味での「爆発」を予感させるほどに強調されている。
「……これ、ちょっとサイズ小さくない?キミが着るとダボダボなんだろうけど、ワタシが着るとなんか……その、苦しいんだけど」
「……」
無言で自らの領土に視線を落とし、それから再び彼女の「暴力的なまでの豊穣」を見上げた。
これぞまさしく、『装備スペックの違い』という洗礼か。
込み上げてくる得も言われぬ敗北感と不条理さを、血が滲むほどに唇を噛むことで耐え忍んだ。
「キリハラはん……それはサイズが小さいのではありまへん。あんさんの存在が、うちの常識をオーバーフローしてはるだけどすえ」
「んにゃん……(主さま、泣かないで……)」
「よく分からないけど……まあ、助かったわ。制服は袋に入れて、後でコインランドリーに持っていく。今は……このはんなりした格好で、少しだけ涼ませて」
キリハラさんの表情からは、先程までの殺気立ったストレスは完全に消え失せ、いつものサバサバとした風貌に戻っていた。
彼女は汗の引いた肌で扇風機の風を浴び、不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。
「よし。これで明日からも管内の平和と迷子のインコを守れそうだわ。じゃあね、聖女さま。次はもっと、ヤバいスパイス見つけてくるから」
「堪忍しておくれやす。次はもう少し加減という律動を覚えて、純粋に『美味しい』時間を共有したいもんどすなあ。そのTシャツ、返却はいつでもええどすえ」
「んにゃ~ん、ばいにゃ~!」
嵐のように去っていった騎士の背中。
テーブルの上に残された、微かなスパイスの香りと、心地よい疲労感に包まれながら、再び床に横たわった。
窓から吹き込む風は、先程よりもずっとはんなりとした涼しさを運んできているようだった。
***
【タイトル:[饗宴]灼熱の業火と、生命を繋ぐ『夏野菜カレー』の洗礼】
『――暑さは魂を鈍らせ、怠惰の沼へと引き摺り込みます。しかし、そこに立ちはだかるのは、灼熱を以て灼熱を制御する『激辛』という魔導。大地の恵みである夏野菜を、数多のスパイスと共に地獄の釜で煎り詰めれば、そこには魂を浄化する業火が宿ります。滴る汗は罪を洗い流し、舌を灼く刺激は生の実感を呼び覚ます……『夏野菜カレー』。それは、酷暑の戦場を駆け抜ける騎士と聖女に与えられた、至高の回復呪文なのです――』
『エルさーん!のーちょの記事見ましたよ!何ですかあの「地獄の毒沼」みたいなカレーは!?画面越しに目がチカチカしますっ!』
『あの門番はんは、ストレスが溜まると味覚の防壁までログアウトしはるみたいどすなあ。あ、これ調合レシピどす』
『どれどれ……って、えええええ!?待って、これ「リーパー」入ってません!?アタシの喉が!大切な歌声が火を吹いちゃいますっ!食べたら歌姫生命の危機ですよー!』
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